『永訣の朝』
1
この日、修司は駅のホームに座っていた。
今日は水曜日。本当なら学校があって、授業も三限目が始まった時間になっている。
「修司、おまたせ~」
自販機に飲み物を買いに行っていた永時が、とてとてと歩いてくる。
「はい、あったかい紅茶」
「サンキュ」
ホットのペットボトルを受け取る。
「ストレートでよかった?」
「うん、ありがと」
「俺ミルクティーにした」
あったか~い、と永時はペットボトルを頬に当てて暖を取る。
永時は紺色のダッフルコートを着込み、パステルイエローのほわほわしたミトンをつけていた。去年のクリスマスに、修司がプレゼントしたオレンジ色のチェック柄のマフラーをぐるぐると首に巻き付けている。
「外出許可、取れてよかったな」
そう言うと永時はさらに頬を赤くした。
「うん、修司と出かけるの、久しぶりだから本当に嬉しい」
永時は秋に体調を崩しやすく、冬になると安定してくる。今年も秋頃に寝込んでいたけれど、十二月になって少しずつ起き上がれるようにまで回復してきた。永時の希望で外出したいと言い出した。定期的に連絡を入れることと、防寒対策ばっちりしていくなら、と主治医が許可を出してくれた。
本当ならば、いつ発作が出るかわからない状態で外出なんて無謀なことだ。けれど永時はがんとして譲らなかった。
「永時、どこ行きたい?」
永時が外に出たいと言ったのだから、彼が決めているものだと思い、聞いていなかった。永時は少しだけ考えて「海」と答えた。
「寒いな」
「寒いよ」
ホームのベンチに並んで座って、電車を待つ。ベンチに座って見える空はどよんと曇っていて、とても外出日和とはいえない。それでも永時はすでに楽しそうだった。
電車に乗り込み、二人掛けの席に座る。窓側に座った永時は、閉まっていたサンシェードを開けて、窓の外を眺めていた。
「電車乗ったの、何年ぶりだろう」
「海に行くのなんて初めてじゃないか?」
「行ったことないかも!」
なんとなく行き先を決めていたのだろうか。はっとした永時は目をきらきらと輝かせた。
「どうしよう、初めての海だよ! 何したらいいんだっけ? 飛び込めばいいんだっけ?」
「まずはいったん落ち着こうか。汗かいている。マフラーとコート脱いで」
永時と笑い合いながら、鈍行電車に揺られること約二時間。
窓の外を見ていたり、イヤホンを分けて音楽を聴いたりしてながら、はしゃいでいた永時はいつのまにか静かになっていた。修司の肩にこてんと頭を乗せて、すーすーと寝息を立てていた。
終点まで行き着いて、永時を起こして電車を降りる。ほんのりと潮の香りがする改札口を抜けて、次はバスに乗り込んだ。
海沿いの道路を走り、途中で曲がってキャベツ畑の間をゆっくりと走って行く。
「すごいね」
ゆったりとした丘陵に広がるキャベツ畑を眺めながら、永時が呟いた。
また海沿いに出て目的のバス停で降りる。
バスを見送りながらまたマフラーをぐるぐると首に巻き付ける。顔半分まで隠れた口元から、ほぅと白い息が立ち上った。白い吐息は冷たく澄んだ空気に溶けていった。
魔法みたい、と永時が呟いた。
魔法か、と修司も息を吐いた。
二人並んで歩いて行くと、砂浜に降りられる階段を見つけた。永時の手を引いて砂浜に降りる。ふかふかの砂に足が沈んだ。
「足下気をつけろ」
うんと元気よく言ったが、砂浜に降りた途端、よろけて修司に倒れかかった。
ふかふかの砂を踏みながら、ふらふらしながら海に歩いて行く。
「なんか、ウミガメの赤ちゃんみたい」
大股で歩いてく永時が不意に言った。
「え?」
「ウミガメの赤ちゃんって、卵から孵った後に海に向かうでしょう? よちよちよたよたしてて、すんごいおぼつかないの。それ思い出しちゃった」
今の俺らみたい、って付け加えた。
その瞬間、また砂のやわらかいところを踏み抜いてふらっとよろけるものだから、手を貸して引っ張った。
「その間に鳥に食われちゃったりしてな」
「修司ったら、雰囲気ってものがわかってない」
どの口が言うかよ、とデコピンしたくなった。
やがて砂のやわらかい場所を通り過ぎて、だんだんと足下が固くなってきた。まだ波打ち際までは距離があるけれど、満潮時にはここまで波が来るのだろうか、さらさらした砂の下は少し湿っていた。
暗い紺色の海を目の前に、感嘆の声が二人の口から零れた。
ざん、ざん、ざん、とほの暗い音を立てて波が寄せては返す。もの悲しい潮の香りが鼻を抜けていく。それで改めて、海に来た、と実感した。
「海だ」
「うん」
「海だよ、修司」
「うん」
「なんかさ……」
言葉を選んで、永時が言った。
「なんかさ、思ったより暗いね」
「こんな天気だからな」
「もっと晴れてたらよかったのに」
「俺に言うな、空に言ってくれ」
修司が言うと永時は放心したまま、うん、そうだねと頷いた。
びゅっ、と強い海風が横から吹いて、二人の髪を盛大に乱していった。
「さむっ」
「風つよっ」
どこまでも続く砂浜を眺めながら、やがて永時がふらりと足を動かした。波打ち際を、温かいブーツにくるんだ足が歩いて行く。砂浜にくっきりと残った足跡を辿るように、修司もその後ろをついて行く。
やがて、永時の声が聞こえた。
彼は、歌っていた。
声が出るか出ないかの、ほんの小さな声で、歌っていた。
その歌は、修司も聞いたことあるものだった。
病院に入院した当初、退屈とのたまう永時に本とCDを貸したことがあった。本は修司の本棚にあったものを、CDショップでレンタルしてきたCDを父に音源コピーしてもらったものだった。
とりあえず、と適当に借りてきたCDの中に、ボーカロイドというソフトウェアに歌わせた音楽があったらしい。それから永時はすっかりその音楽を気に入って、たまに修司にねだって買ってきてほしいとまで言うようになった。
そのうちの一つに、今、永時が歌っている曲があった。
たまに、永時が口ずさむこの歌が、修司は好きじゃなかった。心臓が脈打つ歌なんて、あまりに永時にリンクして、いたたまれなくなってくる。
「永時、」
聞こえないのか、永時は歌い続けたままだ。
「永時っ!」
ようやく、永時は振り向いてくれた。
「どうしたの、修司」
やわらかく微笑まれたけれど、何を話したかったのか忘れてしまって、なんでもない、とだけ返した。
ちょうどいい形の流木を見つけ、並んでそれに座る。持ってきたペットボトルの紅茶は、すっかり冷めていた。
ごしごしと上着の上から腕をさすっている。寒いのか、と聞いてもううんと首を振るばかりだ。鞄から使い捨てのカイロを出して与えると、あったかい、と頬を緩めた。
こうして見ていると、永時は普通の中学生だ。心臓病で入院中とは思えないほど、元気な少年だ。
遠く、水平線を見た。
ずっとまっすぐ横に伸びていく空と海の境界線は、一生交わらない。修司と永時も同じだ。隣にいても抱えているものは当然違って、共感はできても共有はできない。それがたまに、どうしようもなくもどかしく感じるときがあった。今が、それだった。
ねぇ、と永時が明るく声をかけてきた。
「修司、俺の心臓、ちゃんと治るかな」
「え」
なんでもない会話のように言うものだから、聞き逃しそうになった。頭の中で、永時がなにを言ったのかを反芻して、一気に血の気が引いた。
「修司の腕みたいに、取り替えたら、ちゃんと動いてくれるのかな」
三月の始めに、永時は心臓の移植をすることになっていた。ドナーがやっと見つかったのだ。相手は米国の永時と同じ年の少年・リアムだという。
少年リアムは不幸な事故に遭い、植物状態で心臓だけが動いている状態らしい。リアムの両親は、脳死を受け入れ、リアムの心臓を移植という形で譲ることを決心した。その相手が、永時だった。
移植することが決まったのが、今年の秋の終わりだった。それ以来、永時は不安からか、時々さっきのようなことを、こぼすようになった。
「焦るなって」
そんなとき、修司は何を言っていいのかわからず、そう言うしかできなかった。焦るな、なんて無理を言っているのは承知だ。
誰だって、永時の立場だったら怖いはずだ。それを支えるはずの修司が弱音を吐くわけにはいかない。永時は大事な従兄弟なのだ。それ以前に親友だ。
秋に、永時が言った「お菓子を食べたい」という言葉がよみがえってくる。
あれ以来、二人の間で魔女先生がくれるお菓子のことについて、あまり話さなくなった。修司の苦しみを知ってか知らずか、永時もわがままを言わなくなった。自分の一言が、修司の気を遣わせてしまうと思っているのか、あまり外のことについて聞かなくなった。
その中での、今日の外出だった。永時は久々の外出に初めての海で、意気揚々としていて、今までの苦しみをまるで忘れているかのように見えた。けれど、ちゃんと苦しいのは持っていたのだ。
ふと、あることを思い出した。
「永時、ちょっと見てみろ」
落ちていた枝で、砂にLiamと書いて見せた。それを永時は不思議そうに見つめる。
「おまえが心臓をもらうリアムって、『勇敢な守護者』って意味なんだってさ。こないだ、父さんが言ってたんだ」
隣で永時が目を見開いた。
「だから……だから、大丈夫。おまえの強力な守護者になってくれるって」
微かに驚きの色を顔に出して、それから切なそうに瞼を伏せた。
いい加減なごまかしだっただろうか、と後になって頭をよぎった。でも父から聞いたことは確かで、なにより、そのことを聞いて自分がそう思ったのだ。
「修司、ありがと」
そう言いながら修司の腕に抱きついてきた。機械の硬い腕で痛くないかと聞いたが、修司の腕だもん、平気、と笑った。
「そうだよね、リアムの分まで生きなくちゃだもんね」
そう言う永時の声が、少し潤んでいるように聞こえた。修司は永時から目を離して、遠く水平線に視線を移した。
「永時。今、誰も見てないよ」
今度こそ息をのむ音がはっきりと聞こえたけれど、永時の方を見なかった。
波の音の合間にすん、すん、と鼻をすする音が聞こえてきた。やがて、しゃくりあげる声に変わり、修司の上着の形に顔を押し当てて「あぁ」と嗚咽した。
肩に、永時の涙の温度を感じた。
涙って、あったかいんだな。
なんて考えたりしているうちに、修司の目頭もだんだんと、熱くなって、いつしか自分の頬に同じ温度が流れているのに気がついた。
自分も、怖いんだ。
永時の移植が失敗することを、修司も恐れている。まだ決まったわけじゃないのに、自分のことじゃないのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
永時は、もっと重たい荷物を背負い込んでいるのだ。生きるか死ぬかの爆弾を抱えているのだ。それでも、永時はそんなそぶりなんか見せずに愛想よく振る舞って、同級生みたいにバカ言ったりしているのだ。本当に思っていることを、家族にも、もちろん修司にも言わずにずっと隠してきたのだ。
涙を見られないように、天を仰いだ。
永時のために、もう少し、強い心がほしいと思った。
「なんで修司まで泣いてるの」
とうとう見つかって、笑われた。でもぐずぐずと永時はまだ鼻をすすっている。
「知らねぇよ」
「修司の泣き虫」
「お前に言われたかねぇっての」
ぐしゃぐしゃになった顔を見合わせて、二人で「ひっどい顔!」と声を上げて笑った。
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