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その日は朝食を食べる気にならなかった。
父に車を出してもらい、少し早く学校に着いた朝、返し損ねた本を返却しようと登校した足で図書室に赴いたら、なにやらあたたかくふんわりした匂いが漂っていた。
ぱりぱりした皮のクロワッサン。
バターと蜂蜜の金色の組み合わせ。
金木犀の香りの紅茶。
まさに金色の朝ご飯。
「って、がっつり朝ご飯じゃないですか!」
テーブルに広げられたそれに、さすがに修司は大声を上げた。一方、それを目の前にしていた魔女先生は、あーん、と大きな口を開けて幸せそうにクロワッサンにかぶりついている。
「なに優雅に朝ご飯やってんですか魔女先生ッ!」
怒鳴っても魔女先生はむぐむぐとパンをよく噛んで、紅茶で飲み込んでから、ふぅ、と息をついた。
「だって、朝早くからの仕事があって、朝ご飯食べ損ねちゃったんですもの」
「だからって……給食まで待てなかったんですか?」
「待てなかったの! せっかく叶夜が作ってくれた『モモ』の“金色の朝ごはん”よ? 食べないわけいかないじゃないの」
呆れてこのまま帰ってやろうかとすら思った。
*
その日の五限目。
現代国語を、修司は半分流し気味で受けていた。今朝のちょっとした嫌がらせだ。教科担当の魔女先生は、教卓の椅子に座って教科書の『よだかの星』を朗読している。
「神奈月先生の授業が五限目でよかったな」
「美人だし、優しいし」
たまにひそひそと声が聞こえてくる。魔女先生の朗読は聞きやすくてわかりやすい。おまけに魔女先生は美人で、故に人気が高い。
けれどほかの生徒は知らないだろうなぁ。魔女先生が、毎日毎日図書室で弟さんが作っているお菓子を美味しそうにほおばっているなんて。今日なんて、朝飯抜きしてきたくせに授業前にちゃっかり立派な朝ご飯食べてお茶してたし。
「『そして、よだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。今でもまだ燃えています。』これから授業で取り扱う『よだかの星』を朗読させていただきました。はいはい、寝ている人は起きてくださいね~ まだ放課じゃないですよ~」
ぱんぱんと魔女先生が軽く手を叩くけれど、誰も寝ていない。魔女先生の授業で寝ると、読書感想文のペナルティがあるからだ。
「作品内容に入る前に、作者についてから始めましょう。作者は宮沢賢治。東北岩手の童話作家です。一年生の時にも『オツベルと象』でやったけど、彼がどんな人か、覚えている人はいる?」
ここで誰かがしゃべらないと、一限まるっと作家についての蘊蓄を聞くことになる。そんなの部室でお菓子と一緒に嫌ってほど聞き飽きた。
誰も手を上げないので、仕方なく手を上げて、魔女先生の倍以上の知識を披露してみせると、魔女先生は少し拗ねた顔をして修司をちょっとだけ睨んだ。
ちょっとは反省してください。
そんな意味で修司も睨み返した。
*
「春澤くん、『モモ』って知ってる?」
部室に来てロッキングチェアに座るなり、魔女先生はぷりぷりした様子で修司に言ってきた。
「先生の隠し子の名前ですか?」
「あら、そうだとしたら、どんな魔女になるのかしら」
「魔女にするつもりなんですね……」
「魔女の子は魔女だもの」
「はいはい、隠し子っているのは嘘ですよね。先生はお菓子ばっかで、男になんて興味ないくせに」
「嘘の見破り方がなんか嫌みね」
ちょっと拗ねたように唇を尖らせる。けれどすぐに晴れやかな顔になって、饒舌に話し始めた。
「『モモ』ってね、ミヒャエル・エンデの作品よ。モモっていう女の子が、時間泥棒が奪っていった時間を取り戻す、ファンタジー小説よ。あそこの本棚になかったかしら?」
すぐさま文乃が立ち上がって、本棚を探して持ってきてくれた。
分厚い本の表紙にはたくさんの時計が壁や棚に並んだ中を、女の子が一人歩いて行く様子が描かれていた。中の文字は細かくて、読むには時間がかかりそうだった。
「時間泥棒ねぇ……」
ひとしきり話したあと、魔女先生は頬を盛大に膨らませた。
「今日の春澤くんは、まさに時間泥棒よ。私が宮沢賢治について話そうとしたのに、言いたいことぜーんぶ言っちゃうんだから。まるで早く授業してくださいって急かされてる気分だったわ」
だからご機嫌斜めだったのか。
「前置きが長いです。めんどくさい彼女みたい」
「あら、隠し子がどうのって言ったのは春澤くんよ?」
「それは悪うござんした」
「あー、先生に向かってその態度はいけないんだー、もう今日のお菓子あげないッ」
そう言ってせかせかとお茶の準備をする。子供じゃないんだから、と修司は呆れて首を横に振った。
金木犀の香りのする紅茶を淹れて、文乃たちにも配る。大皿に出されたのは今朝魔女先生が食べていたクロワッサンだ。「ちょっと固くなっちゃったかもだけど」なんてしおらしく言ってる魔女先生だけど、ぱりぱりのやつをしっかり食べてたのを見ている分、しらじらしく見えてくる。
「今日のお菓子も『モモ』に出てくるのよ」
時間泥棒から時間を取り戻しにいく朝、モモが勇気を出すために食べたものなのだと、少しだけ魔女先生の機嫌が直った。
「でもね、時間泥棒が盗んでったのは、本当にゆったりとした、なんでもない時間なのよ。こうしてお茶を飲むことも、時間の無駄だって言うようなやつなの」
紅茶を飲んで一息ついて、魔女先生は穏やかな表情になっていった。テーブルに置いた『モモ』の表紙を手のひらで撫でながら、ゆっくりと思い出すように語り出す。
「時間泥棒は『そんなことは時間の無駄、もっと倹約しろ』って言って、人々は余裕をなくしてしまって、町のみんなはせかせかと働かされるの。前まで穏やかだった町の人たちは、時間に追われて気が立つようになってしまったの。モモには、人を楽しませようとでたらめを言う観光ガイドのお友だちがいたんだけれど、時間泥棒に唆されて、人気者になったはいいけれど、時間に追われて仕事の楽しさを忘れちゃったのよ。本当は好きで、楽しくて誇りを持っていたのに、今は生きがいすらなくなってしまったの」
雲が太陽を隠したのか、室内が少し陰った。魔女先生の話を聞いていて、単なるファンタジーじゃないことがわかってくる。
お母さんみたいだ、と文乃がぼやいた。
「早くご飯食べなさい、お風呂入りなさい、早くお風呂から出なさいって、いちいちうるさいんだよね。そのくせお母さんは、お風呂でたくさんまったりしているくせにさ」
「うちはお父さんかなぁ」
今度は鐘花が口を開いた。
「お母さん、小さい頃に死んじゃってるから、お父さんしかいないの。いつもお仕事で遅いんだよ」
聞いていて修司も父のことを思い出していた。
いつも大丈夫? と聞けば大丈夫、と笑って返す父だけれど、男手一つで障害持ちの子どもを養うっていうのは骨が折れるだろう。これからの学費だったり、修司の通院代だったり、修司に負担をかけないようにしているのは、背中を見ていればなんとなく想像できる。
同時に、病室で一人で耐える永時の姿が思い浮かんだ。実の父親も母親も来ない無機質な病室の中で、不平不満をこぼしながら、でも幸せそうに本を読んだり、想像したりして過ごしているんだろう。
父から、永時の父親について聞いたことがある。
修一郎には弟が二人と妹が三人いて、永時の父親に当たる竜之介は、修一郎のすぐ下の弟だった。元々できが良くて、新卒で働き始めてた仕事場でも一番に出世していった。それから五年目に婿入り結婚をした。同じ職場の女性といわゆるデキ婚だったという。デキ婚、という言葉に最初は首をひねった修司だったが、後から言葉の意味を知って、大人の身勝手さに腹が立ったのを今でも覚えている。
もともと体が弱かった永時だけれど、九歳の時に急激に体を壊して、そのとき生まれつき心臓に欠陥があることが判明した。発見が早かったため、治療を続けていけば、完治とまではいかないが、容態は良くなるものだった。それでも永時は体調を崩して入退院を繰り返すものだから、仕方なく長期入院という形に収まった。
言い方は悪いけれど、永時の家からしたら、永時は厄介払いなのだ。
そんなことを考えていると、魔女先生が嬉しそうな声を上げた。
「『モモ』はそんな人に是非読んでもらいたいわ」
魔女先生は文乃に微笑んで、『モモ』の表紙を開く。
「作中に、時間の花っていうのが出てきてね。丸天井の下、光に照らされながら、ゆっくりと大きな振り子に合わせて泉から浮かび上がって、そして消えていく、誰も見たことがないくらいに美しい花よ。同じ花は一つとしてないの」
私はこの場面が一番好きだわ。と魔女先生はうっとりしながら呟く。
「時間の流れ、って言葉があるから、時間の表現を川に見立てて想像したりする人が多いと思うけれど、エンデの描く時間の表現はとても神聖なの。花の開花で時間を表現するなんて素敵でしょう? 泉から蕾が芽吹いてきて、花が咲く。時間が生まれる瞬間よ」
雲が去ったのか、また室内に光が差し込んでくる。陽が傾くのが早くなった秋の空は、黄金色に輝いていて、暖かく、修司は目を細めて外を眺めた。
ふいに、修司のおなかがきゅるると音を立てた。魔女先生はおかしそうに笑うと、修司の分のクロワッサンを用意してくれた。
温かい紅茶から金木犀の甘く切ない香りが漂ってきた。
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