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「明日、学校の前に迎えに来るよ」


 そう言って、修一郎は病院前のロータリーをゆっくり回って、左ウィンカーを出して、帰って行った。

 ナースステーションに一声かけてから、病院に向かう。


「遅い」


 寝たままの状態だったけれど、永時は腕を組んでやってきた修司を睨んだ。まだ二時間も経っていないのに、永時はすっかり元気になっていた。


「父さんに送ってもらったんだから、これでも早いほうだっての」

「おじさん来てたの?」

「明日も迎えに来るってさ」

「そっかぁ。俺んとことは大違い」


 父親のことでも考えているのだろうか。むすっと永時は天井を見上げた。


 永時の父親の竜之介は、修一郎の弟に当たる人だ。現在は会社経営をしていて、滅多に永時に会いに来ない。母親は、子供に興味のない人らしく、一度も会いに来たことはないんだとか。修一郎の方が多いくらいだと永時はこぼす。


「修司とおじさんくらいだよ、俺に会いに来るなんてさ」

「嘘吐け。こないだ、クラスのやつが来てたじゃねーか」


 数日前、クラスメイトの何人かが永時を訪ねてきたことがあった。入学式以来、顔を合わせたことのない生徒たちは、永時のことを心配して、見舞いに来てくれたのだ。

 その話をすると、永時は盛大なため息を吐いた。嫌いなバッドエンドの話を読んだ後みたいに眉を寄せて、苦虫をかみつぶしたように頬をひくつかせる。


「あんなの、ただ俺を心配してる自分が好きな自己満なだけだよ。点数稼ぎってやつ」

「みんな心配してんだよ」

「心配なら俺のいないところでしてくれよ。役に立たないもの持ってくるし、話しててもつまんないし。何かできることない? って聞いてきたけど、察しろっての」


 永時は適当に話を合わせて、適当に追い返した、と言っていた。

 その日のゴミ箱に、もらったであろう千羽鶴とクラスで書いた色紙みたいなものがぐしゃぐしゃになって入っているのを見つけたのを、思い出した。


 永時は口を尖らせて、まだ不満をだらだらと続けている。


「挙げ句の果てには、そのうちの一人がまた別の日にやってきてさ。俺のこと好きだとか、これから支えていきたいとか言うんだよ。たかた中学一年生の分際でさ。こっちからしたら、顔なんて覚えてないし、どんな性格か、なにを考えてるかもわかったもんじゃないのにね。変に好意を持たれると怖いし、後々めんどくさいし、配慮ができてない人とはつきあいたくないね」

「そんだけしゃべれるくらい元気なら帰っていい?」

「ダーメ」


 永時の気持ちがわかる分、修司はなにも言えなかった。


 永時の病気や、修司の義手の物珍しさに近づいてきたり、世話を焼きたがる人間ももちろんいた。そう言う人間は、たいてい永時たちを弱者と定義して、上から目線で哀れんでくる。心配、善意なんて都合のいい言葉を使って、優しい自分に心酔する。

 永時は自分以上に捻くれている。けれどそれをしっかりと受け止めて肯定できるほど、修司は大人じゃなかった。


 ぼふっ、と枕に顔を埋める。


「……俺には修司がいてくれりゃ、それでいいんだっての」


 そんな声が聞こえた気がしたけれど、聞き返すことはしなかった。

 ベッドの近くの床に寝袋を敷いていると、永時がそっちで寝るのかと聞いてきた。


「当たり前だろ」

「やだー、一緒に寝たいー」

「普通、男子中学生同士が添い寝なんかしねぇっての」

「そう言いながら修司は絶対してくれるもんね」


 修司は寝袋に潜ったけれど、永時が点けた電気スタンドの明かりに目が冴えて、結局永時の隣に横になった。永時は俯せになりながら、修司が持ってきた本をめくっている。


「永時」

「なに?」

「『普通』ってなんだろな」

「俺たちには縁遠いもののことでしょ」


 まるでそれが当然だと言うように、永時は即答した。


「『普通』に起きて。『普通』に歩けて。『普通』に学校に通って。『普通』に友達と遊んで。『普通』に、美味しいご飯が食べれて……『普通』にお菓子食べれて……『普通』に、ちゃんと、生きていける……あーあ、うらやましいったらありゃしない」


 本から目を離して、永時はまたさっきの不満を蒸し返した。


「みんなよってたかって、覚え立ての言葉を披露するみたいに普通、普通って言ってきてさ。その『普通』が通じないとわかったら、嫌悪するか哀れむか。どっちかしかしないんだから。外の世界を教えてくれるって言って世話焼いてくれるのはありがたいけど、それで俺が惨めな気分になるっていう想像ができないんだから困っちゃうよ。ありがた迷惑って言葉を知らないのかな」


 饒舌に語ったと思ったら、急に静かになる。永時は修司と顔を合わせないで本を閉じた。


「食べたいなぁ」


 切実な声が聞こえて、急にいたたまれなくなった。思わず永時に抱きついた。


「どうしたの、修司」


 声に元気がなかった。


「ほんとごめん」

「……修司ってたまにさ、本当に美味しかったって話すときあるよね。魔女先生のお菓子の話」

「だから、ごめんって」

「平気だよ、大丈夫。それに、修司だったら許せるから」


 根に持っているのが見え見えだ。

 食べ物の恨みは怖い。それに永時を宥めるのは、魔女先生より難しい。魔女先生はお菓子をあげればたいてい上機嫌になるが、永時は食事制限がある。


「俺が魔女先生のお菓子の話するの、本当は嫌だったりするか?」


 細っこい手を修司の背中に回して、ぎゅうと抱きしめてくれた。嫌じゃないよ、と小さな声が聞こえた。


「嫌じゃ、ないよ。ほんとだよ。だって、食べられないからさ。修司の話聞いて、想像して、これでも結構楽しんでるし。いつか元気になって食べるんだって、生きる目的が増えるし」


 さすがに限界なんだろう。なぜ自分だけ、と惨めになったのかもしれない。すんすん、と鼻をすする音が聞こえてきた。


「泣くなよ」

「泣いてない」

「泣いてるだろ」

「だから泣いてないって」


 顔を見るとぽろぽろと雫が零れている。


「うわ、最低」


 弱々しい声で永時は両手で顔を覆った。

 永時は悪くない。悪いのは永時の中にいる病だ。永時がこんな思いしなくてもいいのに、病気がそうさせている。けれど修司はどうすることもできない。永時だって理解してる。


「永時は毎日治療がんばってんじゃん。少しぐらいわめいてもいいんだよ。今みたいにさ」

「……俺、がんばってないもん」

「そんなことない。だから、ちょっと口の悪いこと言っていいんだぜ」


 腕の中で、永時はんー、と猫みたいにうなって考えてから「……修司のばぁか」とだけ言った。


「え、今のなに?」

「口の悪いこと」

「ずいぶんとお上品な悪口だな」

「俺って元々がお上品だからね。品のない言葉なんて口にしたことないの」

「嘘つけ! さっきのクラスメイトの悪口はどこ行ったよ。それにこないだ看護師に中指立ててあっかんべーしてただろ」

「修司よりマシだって」

「なんだと?」


 そんなことを言い合っていると見回りに来た看護師に、早く寝なさいと二人そろって怒られた。


 永時と同じベッドで、仰向けになって眠りにつく。

 ふと、天井が目についた。

 暗かった。窓から月明かりが、なんてロマンチックな照明もない。ただ暗いだけ。機材の明かりが、微かに光っているだけだった。


「永時」

「ん?」

「元気になったら、お菓子食べ歩くの、つれてってやる」


 今はそれしか言えない。

 希望を先延ばしにすることしか言えない。

 けれど永時はぱたん、と横になって修司を見て「絶対ね」と不適に笑って見せた。

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