『モモ』
1
病棟のエレベータを降りたとき、妙にその階が騒がしいのに気づいた。看護師がばたばたと行ったり来たりしている。
ナースステーションに顔を出すと、すっかり顔なじみになった年配の看護師が「あら、修司くん」と気づいてくれた。
「なにかあったんですか?」
「それがねぇ……そのぅ……」
看護師は少しばかり辺りを見回してから、ひそひそ話をするみたいに修司の耳に口を寄せてきた。
「あんね、一昨日から永時くんの容態が悪くて、昨日精密検査してたの……」
「永時が?」
すっと自分の体温が下がった気がして、心臓がばくばくと音を立て始めた。
時々、永時はいつ死ぬかわからない病人なのだと思い知らされる。
「それで、永時は?」
裏返った声で容態を尋ねる。
「もう病室には戻ってるわ……眠ってるかもしれないけど、行ってあげてちょうだい。今日は面会時間、大目に見てあげるから」
早足でナースステーションから離れて、永時の病室に向かう。永時の病室の前で、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。冷静を保て。と言い聞かせる。いつもはふざけて開ける病室のドアを、今日は遠慮がちに少しずつ、ゆっくりと開けた。
永時は横になって、腕に点滴の管をつけていた。ベッドの傍らで、まだたっぷりと入っている点滴剤の袋が重たそうにぶら下がっている。目をぼんやりと開いて、黙って天井をじっと見つめていた。
「しゅーじ、」
かすれた頼りない声で呼びかけられる。
「来てたんだね」
「うん。今来た」
額に手を当てる。熱はないようだけど、布団を首までかけて暑いのか、頬が少し赤くなっていた。
「暑くないか?」
頬に手を当てると永時は小動物みたいに頬をすり寄せてきた。
「……修司の手、冷たくてきもちい」
「苦しくない?」
「さっきまでは苦しかった。今は大丈夫、ちゃんとしゃべれるから」
「でも無理するなよ」
「いまの俺に、むりなんかできないよ」
修司を見上げ、ふにゃ、と泣きそうに顔をゆがめた。
いつも大声で笑ったり、ふざけたりしているから忘れがちだけれど、これが永時の現状なのだ。これが現実だと、時々嫌な形で思い知らされる。
永時はもぞもぞと布団の中に潜り込んで、何かを思いついたように、目だけを布団からちらっとのぞかせた。
「修司、今日さ、とまってってよ」
突然そんなことを言った。
「夏にしてくれたみたいにさ、添い寝してよ。最近ね、夜、さむいんだ」
さっきは冷たくて気持ちいいとかいってたくせに、また布団の中に潜り込んでいく。ハムスターみたいだ。前にそう言ったら気にくわなかったのか、むくれたことがある。
「泊まるって……検査の後なんだろ? それに学校帰りだから準備なんてないぞ」
「今日、金曜日だから大丈夫でしょ」
「残念、今日は木曜日だ」
むうぅ、と永時は頬を膨らませる。
でも、確かにこの病室で暮らしていたら、今日が何月何日だってこともわからなくなってくる。季節だって曖昧になってくる。
何も言わないが、目で訴えかけるようにじぃっとこっちを見てくる永時に、仕方なく修司は折れた。
「わかった」
「ほんと?」
「一回家に帰って、準備してくるから。それまで我慢できるな?」
「それくらいできるよ。中学生なめんな」
「中学生なら一人でちゃんと寝れるよな」
「うそだって」
やりとりする声に覇気がなくて、なおのこと修司は胸が痛くなった。もう一度、頬に手をやると永時は嬉しそうに頬をすり寄せてきた。
点滴剤はまだ半分も減っていない。ぽた、ぽた、と一滴ずつ落ちてくる薬剤を眺めていると、永時の瞼がうとうとと下がり始める。
「眠いか?」
「ちょっ、と……」
瞼が閉じた状態で返事をしたけど、すぐにすー、すー、と規則正しい寝息が聞こえた。乱れた布団をかけ直して、そっと病室を後にした。
*
ちょうど家の前で、父にばったり会った。永時のところに泊まってくる、と伝えると、帰ってきて疲れてるはずなのに、病院まで車を出してくれた。
寝袋と制服と教科書を詰めた鞄、それから部屋の棚にあった本を適当に見繕って、後部座席に放り込む。
「地下鉄で行くのに……」
シートベルトをしながらごちると、修一郎は笑いながらエンジンをかけ、ラジオをつけた。
「たまにはいいだろう」
永時がよく聞いているラジオ番組を選択して、車を走らせた。
車のライトや信号機の赤や青の明かりが、修司の目にやけにまぶしく映った。
「学校はどうだ?」
修一郎がそう聞いてきたのは、信号待ちをしていたときだった。
「普通だよ」
「いじめられたりとかは……」
「ないよ」
「喝上げされたりとか」
「ないない」
「腕を壊されたりとか」
「壊せるもんなら壊してみろって」
一般的な中学生の回答をしながら、ふと、普通って何だろう、と考えた。
クラスのみんなは、修司の腕を気にしてなかなか話しかけてこなかった。同じ小学校から上がってきた子たちは、気を遣ってか、関わりたくないのか、話しかけない者がほとんどだ。これといって交流がないわけでもない。ただ、必要以上に接してこないだけだ。
それが顕著になるのが体育の授業だ。
球技は特に、修司に対して遠慮しがちになる。バスケでは悪意はないにせよ、ボールは回ってこない。シュートを阻止すれば、必ず腕の心配をされる。サッカーは、交代制でディフェンスとオフェンスとキーパーを回すはずが、修司は決まってキーパーを任されたことはない。
クラスメイトの男子たちは、部活に精を出す反面、遊びたい盛りでもある。部活がない日に公園で待ち合わせて出かけたり遊んだりする計画が、遠くから聞こえてくる度に、なんとも寂しいような虚しいような気分になってくることがあった。
自分から話しかければいいとは思うものの、遠慮されるのが目に見えているのに、声をかける必要があるのか、とつい考えてしまう。
我ながら捻くれてるなぁ、と苦笑いしてしまう。
「……大丈夫だよ」
念を押すように言った。
自分にそう言い聞かせた。
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