3
僕は、善人じゃない。
清廉潔白だなんてとても言えないし、もちろん聖人君子でもない。
間違いは山のようにしてきた。人をたくさん傷付けもした。嘘をついたこともあるし、小さな生き物の命を無下にしてしまったこともある。
罪という罪を重ねている、と自分で思う。
世の中には、仕事に情熱を燃やしている人達がいる。夢を追いかけてる人達もいる。熱意と善意で世の中を動かしている人達、誰かのために毎日サポートしている人達、誰も彼も、その当たり前の日常を当たり前に過ごしているのに―――僕には、それができない。
生きていることが苦痛で、この世界から逃れたかった。
けれど死ぬ勇気なんてものを持ち合わせていない。苦しいだろうな、痛いだろうな、辛いだろうな、頭の中にぐるぐると仮定や推測が溶け込んで、そうして結局のところ何もできずにいる。
何もしたくなかった。
何にもなりたくなかった。
将来、何になりたいんだと親や教師は聞いた。そんなこと、わかるはずがない。将来も未来も何も見えない、今自分がどこに居るのかもわからないのに先のことなど決められるはずもない。仕事をして、結婚して、子供を育てて、そんなことが喜びだろうかと心底思う。
やりたいことはないのか、と人は問う。
そんなもの、ある訳がない。
夢中になれるもの、熱中できるもの、そんなものは今まで1つも出会えなかった。
何をしても程々の努力で、程々に成功する。褒められることは気分が良かったけれど、それ以上でも、それ以下でもなかった。
ドラマの主人公達は自分の仕事に情熱を費やしてる。
まるで、そうしていなければ息ができないとでもいうように。
「彼女が言うんです」
と、僕は言った。
彼女とは僕のガールフレンドではなく、僕が見ているドラマの主人公のことだ。
「私は論文を夢中で書いた。どれも興味があって書きたくて、とても1つに絞れなかったから全部書いたの。だから、あなたは『人類学』じゃないのかも。あなたの才能を無駄にしないで」
博士論文のテーマを決めかねているインターンを心配して、主人公が言った言葉だ。本当にやりたいと思うことを、やるべきだと。
誰にとっても、時間は有限だ。
だから皆が生き急いでる。時間を無駄にしない為に、本当に自分がやりたいことの為に、必死になって毎日を追いかけたり、毎日に追いかけられたりして過ごしてる。
「僕には、それができない」
紅茶のカップを握り締め、揺らめく赤い水面を見つめた。
ただ徒に時間を過ごしている。
人ができることが、自分にはできない。それが苦しいのか、何なのか、自分でもわからない。
溜息をついた。
「すみません。とりとめのない話で、困りますよね」
ふと、我に返って言った。初対面の、見知らぬ人に話す内容ではなかったかもしれないと。
「いいえ。ここは教会ですから。私とあなたと、神以外は誰も聞いていません。だから何を話しても良いのですよ」
その声に惹かれるように顔を上げた。
紅茶色の、赤いブロンドがてらてらと光る。
「僕は……」
生きていても、良いのだろうか。
その言葉をなぜか飲み込んだ。
飲み込んだはずなのに、正面に座った彼は静かに微笑んで頷いた。
「人は悩む生き物で、惑う生き物です。時に間違い、神の意に背き、罪を重ねる。ですが良いのです。そう在った自分を振り返り、省みて、かつての行いを悔いたならば、神は必ず御赦しになるでしょう」
「何もできない僕でもですか? 僕は何もできない。何の才能もなく、何の夢もなく、何の努力もできずに、ただ時間を浪費してきた。人を幸せにもできない。僕なんかが、それでも生きていて良いんですか」
最後の言葉は、嗚咽に紛れて上手く言えなかった。
生きていたい。
どうか、生きることを赦して欲しい。
そう叫びたいのに、声が詰まって、胸の辺りに石のように凝り固まったものが邪魔して、代わりにガンガンと頭の中を殴られるような痛みがやってくる。
視界が狭くなっていく。
いやだ、暗闇は怖いんだ―――助けて欲しいと伸ばした手を、温かいような、冷たいような、どちらとも言えない何かが掴んで握り返してくれる。
良い、と肯定されたような気がしたのに、頭痛と吐き気と両耳を塞ぎたくなるような轟音に意識が遠のいた。
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