子守唄

 膝に杖が当たった途端、廊下には笑い声がこだました。


「キャキャキャキャッ!」


 猿の鳴き声みたいだった。

 怪物の周りには大きな顔が現れ、急に水位が上がった。


「や、っば!」


 真っ白い女の人の顔だ。

 両目からは赤い血を流し、瞼の中に眼球が見当たらなかった。

 ボクの身長と同じくらい大きな顔が、霞のように漂うと、ココアさんの目の前に移動してくる。


 ガタガタと震える口が大きく開いた。

 口の中には、ニヤニヤと笑う子供たちが蹲って、こっちをジッと見ている。


「ココアさん!」

「やっばい! つ、掴まれた!」


 首を伸ばして、足元を見る。

 ココアさんの両足には、何本もの白い手が伸びて、鷲掴みにしている。

 植物みたいにワラワラと生えた腕を見て、サオリさんが脇差を構える。

 力を抜いた直後、ココアさんが叫んだ。


「ダメ! お姉ちゃん! 動かないで!」


 ココアさんはボクを背負っている分、身動きができない。

 一人分の体重を背にしているため、姿勢は前のめり。

 バランスだって、かなり踏ん張っているはずだ。


「ンぶ、ぁぁ……、ハァ、ハハ……」


 千切れた舌をぶらぶらと揺らし、怪物が笑う。

 両目を隠していた腕が少しずつ、横にずれていく。


「こんな、ところで……っ!」


 露わになった素顔を見て、ボクは奥歯を噛んだ。

 目がないのだ。

 瞼の奥には、空洞が広がっている。

 黒くて、何もない空間が、ボクらを見つめていた。


「うああああああ!」


 ココアさんの前には、大きな口が迫り、中の子供達が手を伸ばしてくる。丸呑みにされたら、口の中の子供達に何をされるか分かったものではない。


 ココアさんの髪の毛やローブの生地に、小さな手がしがみつく。

 その時だった。


 シャリン。――鈴の音が響く。


「あ……ア……アァ」


 鈴の音は、一定の拍子で鳴らされた。

 音が大きくになるに連れて、怪物が苦悶の表情で耳を塞ぐ。

 後ろを振り返ると、ドアが開くところだった。


 シャリン。シャリン。


 鈴の音に合わせて、血溜まりはスライムのように小さく震え、壁際に寄せられていく。


「ホ、アアアアアッ! ア”ア”ッ!」


 怪物が大きく怯み、目の空洞をドアの向こうからきたカナエさんに向ける。目の周りは皺だらけで、禿げ上がった頭には血管が浮かんでいた。

 怪物の姿と同様に、壁の至る所にも血管のような膨らみが出来上がる。


「いい子だから。元の場所に帰りなさい」


 カナエさんは、ニコニコと笑っていた。

 動じないのはさすがだけど、ボクは気づいてしまう。

 カナエさんの額や首筋には、汗が伝っている。


 サオリさん達が警戒するのと同じだ。

 たぶん、この隙を狙えば、サオリさんの脇差で首を刎ねる事ができる。

 だけど、問題なのは、事なんだ。


 道具が不足している、と言っていたし、ここにあるものでは足りないのだろう。


 それでも、カナエさんが鈴の音を鳴らしてくれるおかげで、怪物は身動きができない。子供の背中をポンポンと叩く、あのリズムと同じだ。


 シャリン。シャリン。


 鈴の音を鳴らし、怪物の前に立つ。

 威圧的ではなく、困ったように笑い、カナエさんはジッとしていた。


「ウ、あぁ、うぅぅ……」


 怪物が膝を抱えて丸くなった。

 濁った血溜まりの中で、赤子のように小さくなり、静かになる。

 気が付けば、ココアさんの前からは、顔がいなくなっていた。

 足元に生えていた無数の手もなくなっている。


「さ、行きましょう」


 ココアさんは無言で何度も頷いた。

 大きな声を上げて起こしては、面倒になる。

 普段、声量の大きいココアさんは、分をわきまえていた。


「鍵、見つけたの」

「ええ。従業員の人が寝ていたから。カードキーを借りてきちゃった」

「お母さんも人の事言えないじゃん」

「だって、緊急時ですもの」

「……もう」


 娘には、なるべく悪い事をさせたくない。と言った所だろうか。

 鈴の音を鳴らすカナエさんが後方に立ち、ボクらは先を行く。

 怪物はボクらが裏口から出る時も、ぐっすりと眠っていた。

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