穢れ

 ココアさんは突然の来訪者に唖然とした。

 赤い水は噴水のように壁を作り、膜を張っている。

 その中央部から、一匹の怪物が現れた。


「ンー。ンー。……ンぁ。ハァ、ハァ」


 杖を突いて、真っ直ぐこちらに向かってくる。

 言葉を失ったボクらが、さらに身震いしたのは、ことだった。


「……なんで……」


 結界の効力をボクは、たった今目の当たりにしたばかりだ。

 サリィは結界を張ると同時に、綺麗に消滅した。

 火で焼かれて、灰に変わった肉体は、水面の上をサラサラと流れて闇に消えた。


 ――でも、赤い水は消えなかった。


 結界の中だけが真水で、怪異が足を踏み込めば、浄化されるはずだ。

 ところが、目の前の怪物は杖を突いて、難なく侵入してくる。


「ンー……。ンー……」


 背筋が凍り付く。

 真水を杖で突くと、その場所からは波紋が広がった。

 波紋の広がった分だけ、水が濁り始めたのだ。


 すぐに姉妹は立ち上がり、ボクの前に駆け寄ってきた。


「ちょい、ちょい、ちょい! やっばいのいるぅ!」


 知識などが豊富なココアさんが言うって事は、相当なのだろう。


……か……」

「これ、本家の案件でしょ!」


 暗に、自分たちの手に負える者ではないと言っている。


「まさか。赤い水って……。サリィじゃない……?」

「見ての通りだね。あれが生んだ空間だよ」


 紙を放り投げ、ポン太郎を召喚する。

 屈強なポン太郎は腕を組んで仁王立ちし、怪物と対峙した。


「ほう。呪いの箱に呼ばれて、随分な客人がいるな」

「ぽ、ポン太郎! ぶっ飛ばして!」

「いいや、ご主人。あれは無理だぞ」

「どうぇぇえええっ⁉ なんでぇ⁉」


 ポン太郎は困った風に首を傾げ、こちらを向く。


「その昔、よく言ったものだ。――、とな」


 苦々しい顔だった。

 そういえば、ポン太郎は山の守護神と言っていた。

 その彼が差す穢れとは、どういう存在か。


「澄んだ水による滝が必要だ。霊性の高い山に連れて行く必要がある。山に連れて来れば、小生が浄化をできる。……が」


 周りは濁った水だけだ。


「穢れで満たされた空間では、祓う事はできん」

「どうすんのおおおおおおお!」


 ゆっくりではあるが、穢れと呼ばれた怪物は、一歩ずつこちらに向かっている。波紋が広がる度に、真水は赤く汚れ、ボクは膝のあたりがジクジクと痛みだしてくる。


 痛みで足元を見ると、水面がブルブルと震えている事に気づいた。

 足を動かさずにジッとしているが、段々と水面の震えは大きくなっていく。


 ――……これ。ボクの足が震えてるからじゃない。


 震えの元凶と思わしき怪物に目をやる。

 すぐにボクは真後ろに立つ赤い水膜に注目した。

 ゴボゴボと白い泡が浮かびだし、赤い水の膜は徐々に形を崩してくる。


「マズいってぇ!」

「ぬうう! 少年を連れて、ここから出るのだ!」


 ポン太郎に急かされ、姉妹はすぐに振り返る。

 ボクも続いて、サオリさん達の後を追いかけた。


「い、……ぢ、いぃぃっ!」


 耐え難い激痛が両足を襲い、派手に転倒。


「ハルト君!」

「ぎょえええええ! 津波来てるうううう!」


 ボクの後ろには、背の高さを優に超える赤い津波が迫っていた。


「退却だ!」

「いっそげえええ!」


 ポン太郎に体を抱えられ、全身で荒い浮遊感を味わう。

 そして、ボクは見てしまった。


 ボクの両足が――


「あ、ああ……」


 どうりで立てないわけだ。

 立つ足がないのだから、力を入れる部分がない。

 膝から下がなくなっており、止まない激痛に足を押さえようと手を伸ばす。が、ボクの視界には二の腕しか映っていなかった。


「うあああああああ!」


 ボクの四肢ししは、欠損した。

 強烈な呪いにより、一瞬で取られたのだ。

 前を走るサオリさん達は、「いっだ!」と声を上げる事はあっても、体の一部を失うまではいかない。


「早く扉を開けるのだ!」

「お姉ぢゃん!」

「今やってる!」


 鍵穴にキーを差し込み、乱暴にほじくると、サオリさんが扉を開け放つ。


「ンー……」


 すぐ傍から声が聞こえた。

 だが、振り向く余裕なんてあるわけがない。


 ボクらを丸呑みにしようと迫る津波は、すぐそこまで迫っている。

 水位は上昇し、ポン太郎が腰まで浸かるほどになると、乱暴な動作でココアさんの背中を押す。


 続いて、ボクを抱えたまま扉の向こうに入ると、すぐに扉を閉めた。


 ドン。


 扉の内側からは、とてつもない衝撃が走る。

 床に落ちたボクは、芋虫のように欠けた手足を動かした。


「い、だいよ。いだい」

「……は、ハルト君……」


 ココアさんに抱き起されると、何かがお腹からこぼれた。


「待て。動かすな!」

「え?」


 ずるり、と出てきた赤い肉片。

 ボクのお腹に詰まっていたものだ。


「げふ、ごぇ……。ん、ぐ」


 吐きたいのに、吐けない。

 苦しかった。


「ハルト君!」


 呪いに耐性のないボクは、呆気なく朽ちていく。

 全身から力が抜けていく中、ボクの頭には、一人の女性が浮かんだ。


 ずっと苦しかった時期を送っていたボクは、やはりお母さんの事が忘れられなかった。

 ずっと傍にいてくれて、守ってくれたお母さん。


 あの怪物を、お母さんが遣わせたのだろうか。

 それとも、呪いに引き寄せられて、偶然やってきただけか。


 ――お母さん。


 御堂に対して、ボクは以前よりも恐れはない。

 代わりに、悲しいやら、愛しいやら。複雑な気持ちが絡み合っている。


 そして、ボクは死んだのだ。

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