サリィ

 204号室から、物音が聞こえてきた。

 鍵が閉められているようで、サオリさんは持ってきたキーを差し込む。


 いい加減、この悪夢みたいなホテルの中に慣れてきた。と、言いたいところだが、サオリさんの言う通り、構造がメチャクチャになっているため、毎度驚きを隠せなかった。


「なんだ、ここ⁉」


 ボクの頭には、首都圏外外郭放水路しゅとけんがいがいかくほうすいろが浮かんだ。


 いつの日か、図書館だったか、パソコンを使う授業の際に見かけた覚えがある。


 巨大な空間にいくつも柱が立っていて、奥行きが延々と続いている独特の空間だ。実在する巨大放水路の景色より、目の前に広がっている空間は、どことなく地獄を想わせる雰囲気が漂っていた。


 放水路の如く、空間には赤い水が溜まっている。

 深さはボクの膝まで。

 サオリさん達は背が高いから、脛くらいか。


 柱は赤錆に塗れており、真っ赤に変色。

 柱と柱の間に見える空間は闇色で、奥行きを感じるのに何も見えない。


 この不気味な景色の中で、柱と足元に溜まった赤い水だけがハッキリと見えている。


「どぅ、わああああああッ!」

「いひ、ひひひ!」


 中を進んでいくと、すぐにココアさんの姿を発見した。

 柱を背にして、我が身を抱いていた。

 全身が赤い液体で濡れており、呪いの痛みで飛び跳ねているようだった。


 それと、他にも注目する点がある。


「あいつ……」

「このが分かったわ。そういうことね」


 サリィだ。

 血溜まりでケタケタと笑いながら、小躍りしていた。

 近づく前に、サオリさんが耳打ちをしてくる。


「四角を作って。あいつを囲むように。食堂でやった時と同じ。柱に掛けるといいわ。……分かった?」


 ボクは黙って頷く。

 酒ビンを口に含み、サオリさんは脇差に吹きかける。

 それからビンを渡され、代わりにソルトのビンと交換した。

 気を引き締めて、ボクは柱の陰に移動。


 不意打ちを受けないよう、サリィの姿を何度も確認して足を動かす。


「きひ、ひひ」

「悪い子をやっつけたぞ!」

「ア、はははは! は――」


 上下の顔がゲラゲラと笑っている途中で、声が途切れる。

 サオリさんが振り上げた脇差で、片腕を切り落としたのだ。


「ぎゃひっ⁉」


 酒で清めた刀身は、いわば神聖な刃となっているはず。

 となれば、悪しき呪いの化身には、効果は絶大だった。

 傷口がブクブクと膨れ上がり、血の一滴すら残さず、火に変わっていく。


「んぎいいいい!」

「出たな! 淫売!」


 切り落とされた腕を押さえ、サリィがバタバタと下がった。

 サオリさんは柄の悪さを隠そうともせず、舌打ちをした。


「殺すって言ったでしょう。地獄の底まで追い詰めて、必ず殺すわ」

「お、ね”え”ぢゃ”ん”!」

「ココア。平気でしょ? さっさと動きなさいよ」

「冷たくない⁉ ほんっとに、痛いんだってば!」


 二人がやり取りしている一方で、ボクは一本目の柱に酒を掛ける。

 四角を作ればいいから、二人から見て裏の方に回り過ぎると、いけないか。そう思ったボクは、なるべく内側の方に掛けた。


 次の柱はサリィの後ろを過ることになる。

 柱から次の柱まで距離もあるし、グラウンドを歩いている気分だった。


「ていうか、ちょっと待ったァ! お姉ちゃん! 後ろ、後ろ!」

「ッ⁉」


 ココアさんの焦りが、空間に響き渡る。

 何のことを言っているのだろう、とボクも気になった。

 見ると、思わず目を剥いてしまう。


 数メートルほど離れた位置に立っていたサリィ。

 いつの間にか、サオリさんのに回っていたのだ。


 反射的に屈んだのが、幸運。

 前のめりになったサオリさんの背中を赤い鞭のような物が、ものすごい勢いで掠めていく。


 何もない場所で弾けた赤い鞭は、次の瞬間、真っ赤な雨となって二人の体を濡らした。


「い、っだあああああ!」


 サオリさんが絶叫した。

 ほれ見た事か、と言わんばかりにココアさんが指を差す。


「でしょ⁉ でしょ⁉ 無理なんだって!」

「いだだだだ!」


 二人が悶え苦しむ様をサリィは、嬉々として眺めていた。

 そして、離れた位置から見ていたボクは、ある事に気づく。


 チャプ。


 足元の赤い水。

 これ、なんじゃないか、と。

 サリィは逃げる時、必ず液体化した。

 もし、今の状況で液体化したら、どこに隠れているか分からない。


 さらに、この液体そのものがサリィだとすると、ボクが味わった地獄の苦しみだって、納得がいく。明らかに意思を持って、ボクの両足や手に苦しみを与えてきた。


 それは、まるでサリィの性格を反映しているかのようである。


 ――マズい。急がないと。


「苦しめ! 苦しめ!」

「あ、はははは! 淫売が苦しんでるぞ! きゃ、はははは!」


 サオリさんが飛び跳ねる姿を喜んでいる。

 ふと、その笑い声がピタリと止んだ。

 ゆっくりと、体ごとボクの方に振り返る。


「ハルくぅん。なに、……してるの?」


 当たってほしくはなかった。

 けれど、ボクが気づいた通りだ。


 この巨大な空間は、だ。

 形がないだけで、目や鼻、口、両手両足。

 体の全てがここに備わっている。


「き、ひひひひ!」

「ハルくん。あ、ははは!」


 サリィが笑いながら、こっちに走り出してきた。

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