呪いの箱
サオリの温もり
エレベーターは2階で止まった。
ボクは手に持った塩と酒ビンを落とさないように、しっかりと握る。
それから、足元を確認した。
「……これ。血ですか?」
「マ~ジかぁ」
サオリさんが押したボタンは、4階だ。
なぜ、4階かというと、荷物を取りに行きたいのだという。
もしかすれば、4階のどこかにココアさんもいると考えたらしい。
ところが、エレベーターは止まった。
プー、と警音が鳴っている。
「重量オーバーだってさ」
重量の正体は、足元にある。
くるぶしの所まで溜まった血だまり。
これだけで重量オーバーになるはずがない。
だけど、他に考えられなかった。
「で、勝手に開くわけよ」
ボタンを押してないのに、エレベーターは開いた。
2階のフロアは、もはや人が泊まる空間ではない。
壁は赤一色。
足元に溜まった血と同色だから、見ただけではどこまで浸水しているのか分かり辛い。動けば、足元には波紋が広がり、さっきよりも浸かっている部分が深い事に気づく。
「ハァ、ハァ……」
生温かい血は、気持ち悪かった。
でも、気持ち悪いだけなら、我慢すれば平気だ。
ボクは片足を動かして、自分の体に異変が起こっている事に気づく。
――い……たい……っ。
「ハルト君。おぶってあげよっか?」
「い、いいです」
「無理しない方がいいよ」
痛い。痛い。痛い。
脛の辺りに、カッターか何かをピッタリと当てられている気分だ。
動かせば、当然皮膚が切れて痛みが生じる。
でも、動かずにはいられない。
なので、必ず発生する痛み。
「酒。貸して」
酒ビンを渡すと、サオリさんは後ろに立つ。
自分に寄りかからせるようにして、「足を見てみて」と言った。
言われた通りに、サオリさんに体重を預け、ボクは片足を上げる。
「う……ッ!」
ズボンがビリビリに裂けている。
隙間からは脛が露出していて、ボクの足はいつの間にか無数の切り傷ができていた。
「呪いに耐性ないからね。……仕方ないか」
サオリさん達の言う、耐性が実はいまいち分かっていなかった。
ボクの目からすれば、ミミズ腫れは確認できる。
でも、本人たちがどれだけの苦痛を味わっているかまでは分からない。
そして、今自分の身で、呪いというものを体感している。
足元まで赤い血が溜まり、そこを歩いただけでこれだ。
常人が耐えられるわけがない。
子供なら大泣きするし、大の男でも冷や汗が出るに決まっている。
「ほら。前から抱っこしてあげる」
両腕を広げてくれるが、ボクは断った。
もしも、この状況でサオリさんの両手が塞がったら、二人とも危険だ。
戦えて、専門的な知識を持つ人がいなくなれば、ボクは路頭に迷う。
「へ、平気です……」
「嘘。泣いてるじゃない」
指を目元に押し当てられ、涙を拭われる。
「行き、ましょ」
「無理なら言って。背中が空いてるから。ね?」
「……はい」
ジャブ、ジャブ。
サオリさんは歩幅を小さくして、ボクを気に掛けてくれている。
ボクは両手を強く握り、歯を食いしばって、一歩ずつ進んでいく。
足元に刃物があると分かっていて、進もうとする人はいない。
呪いが、こんなに恐ろしいものだなんて、想像以上だった。
誰かを苦しめるための呪いは――。
憎めば、憎むほど、命を取らない苦しめ方だ。
足元の激痛が、それを教えてくれる。
永遠に苦しめて、天国にも地獄にも送らない、本当の殺意。
だけど、殺してあげないのだ。
「くっ、ハァ、ハァ、……は、ぐっ、うぅ」
痛みだけではない。
怖くて、涙腺が勝手に緩んでくる。
サオリさん達は、こんなのと毎日のように向き合ってきたんだ。
そりゃ、嫌でも強くなる。
生きようとするだけで、心は鍛え抜かれるし、対抗する技術を身に付ければ、強くなるはずだった。
「うう!」
壁に手を突くと、今度は手の平に異変を感じた。
「あ、……あぁ」
手の平を見つめると、ボクの見ている前で、独りでに皮がめくれていく。花びらが四方に開いて、パックリと割れていく姿に酷似していた。
疲れても、壁に触らせてもらえない。
「は、ふぅ、はぁ、ふう」
「ハルト君」
震えていると、サオリさんが目の前に立つ。
酒を口に含み、人差し指で唇をトントンと叩く。
口の中でモゴモゴとした後、顎を持たれた。
「ん……」
口に指を突っ込まれて開かれる。
その直後、サオリさんが口を重ねてきた。
「んぶっ、……んん」
初めて味わう酒の味。
人肌温度で温まり、舌を通して、喉の奥に流れ込んでくる。
咳き込みそうになったが、サオリさんが顎を持ち、唇を押し付けてくるので、鼻から息が抜けるだけ。
やがて、口を離したサオリさんは、ボクの口を手で押さえて言った。
「鳥居を潜った時の事。覚えてる?」
ボクは頷く。
「意識しなさい。今、わたしの唾液と混ざって、あなたの中に神様が流れ込んでいる。あ、汚いとか言わないでね。恥ずかしいから。殴っちゃうかも」
「もご……」
何かを考える余裕なんてない。
鼻から抜ける酒の香りは強すぎて、頭がクラクラする。
サオリさんはボクの口から顎に掛けて指を伝わせ、次に顎から喉へツーっと指でなぞっていく。
「聞きなさい。お神酒は知ってるわよね。あれは、神様と交信するために行う儀式。でも、今のこれは違う。もう一度言うわよ。わたしの、唾液を含んだ酒が、あなたの体に入る」
不思議な事に、痛みが消えた。
皮膚がチクチクとするくらいには、何かを感じる。
でも、痛くはない。
「本当はもっと飲ませてあげたいけど。大人と違って、わたし達すぐに酔っぱらっちゃうから。少量じゃないと、今度は歩けなくなる。ごめんね」
手の平を見ると、赤い汚れを残し、傷痕は塞がっていた。
「わたしを意識しなさい。あなたを守ってあげる」
「……む、ぐ。ありがとう、ございま――」
理性が戻ってくると、サオリさんとキスをした事に、照れ臭さを感じてきた。お礼を言って、頭を下げると、言葉の途中で何かが聞こえてきた。
「い、っでええええええ!」
サオリさんは呆れたような顔になり、廊下の奥を振り向く。
「愚妹を発見したわ。行くわよ」
「は、はい!」
勇気を出して一歩を踏み出す。
本当にサオリさんが傷口の内側から守ってくれている気がした。
熱さは感じるけど、何も怖くない。
ボクらが廊下の奥に向かうと、ココアさんと思わしき悲鳴は、次第に大きくなっていった。
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