休む暇なし

 頭が痛い。

 カナエさんは記憶を思い出したことで、脳みそが混乱していると言った。


 今の僕には二つの記憶がある。

 カマキリと遊んだ記憶。

 お母さんに甘えた記憶。


 違うはずの記憶は、同じだった。

 冷静に「ボクには見えていたものが違った」と認識すれば、確かに胸の中に引っかかっていた物が取れた。


 でも、一つおかしなことがあって、ボクの意思とは関係なく、


『ハル君。ちゃんとここも洗わないと』


 記憶が動いていた。

 居間でゴロゴロしていたボクは、お母さんに連れられて、一緒にお風呂に入る。自分の体を見れば、中学生の頃だったと思う。


 ボクの体は中間色なのに対して、お母さんは雪のように白かった。

 骨格や肉付きも、血の繋がりがあるとは思えないほど、ボク自身には遺伝が感じられなかった。


 だから、お母さん相手に女を意識したのかもしれなかった。


 万歳のポーズをすると、お母さんが泡立てたスポンジで脇の下を擦ってくる。


『大きくなったわねぇ』

『……お母さん』

『もうちょっと、大きくなったら。ハル君はパパになるんだよ』


 泡に塗れた体を抱きしめられ、耳を舐められる。


『くすぐったいよ』

『ハル君』


 耳の穴に唇を押し付けられ、吐息が入り込んでくる。

 温かくて、柔らかいお母さんの体に抱きしめられ、鼓膜には言葉が直接届けられる。


『……外で待ってるよ』

『え? な、なに?』


 湿った吐息と共に、鼓膜が震わされ、耳を通して心臓がくすぐられてる気分だった。


『外においで。また、……可愛がってあげる。ワタクシのことを忘れられないくらい。いっぱい』


 胸を撫でられ、段々と手が下っていく。

 お腹に円を描かれ、手はずっと下に伸びていく。


『外においで』


 首を曲げて振り向くと、熱に浮かされたような顔をしたお母さんがいた。

 いや、母の顔じゃない。

 女の顔をしていた。

 お母さんから伝わってくる情熱は、さらに異性を意識させてくる。


『外においで』


 抱きしめられ、柔らかい唇がボクの口に当てられた。


 *


 目を覚ますと、ボクは廊下にいた。


「あ、あれ?」


 和室で寝ていたはずなのに、廊下の真ん中で膝を抱えている。

 非常灯や角の明かりで、廊下はほんのりと明るい。

 目を凝らして、部屋の番号を確認する。


 確か、404号室だ。


 ボクの近くには、があった。

 立ち上がって、後ろに戻る。


「なんか、体がだるい……」


 風邪でも引いたのだろうか。

 ペタペタと歩いて戻ると、隣の部屋は403号室だった。


「あ、あれ?」


 向かいの部屋を確認すると、412号室。


「404号室って、どこ?」


 ちょっと冷静に考えれば、気づくことだった。

 生憎、ボクは思考が回っていない。

 ホテルや旅館では、4や9は不吉とされて、使用されていないのだ。


 そのため、本来404号室と書かれた部屋は、405号室となる。


「フロントに、行ってみようかな」


 怖くて独り言を呟かないと、どうにかなりそうだった。

 エレベーターの場所に向かう。

 パネルは4階と表示されていた。


 下のボタンを押すと、すぐに扉は開く。

 でも、ボクは乗らなかった。


「は、ルくぅん」


 エレベーターには先客がいたのだ。

 乾燥しきって、ボロボロの長い髪。

 目玉が左右別々の方向に向き、両腕は鉈になった何かだ。


 明らかに異形の何かを見て、ボクが息を詰まらせたのは、その恐ろしい見た目だ。


 頭を見た後、今度は胸を見る。

 女は上半身を脱いだ格好なのだが、胸の膨らみを見ると、そこには乳房がなかった。


 もう一つ、顔があったのだ。

 涙でグチャグチャに濡れた顔。

 頭の方と同じで、目は左右が別々の方を向き、グルグルと回っている。


「ハル、くん。おい、でぇ」

「あ、ああああ! うわ、うわ」


 全身に鳥肌が立った。

 震える膝を無理やり動かして、ボクは後ずさる。

 エレベーターから下りてきた異形は、頭と胸の顔が同時に話し、声が重なる。


「あちき、さりぃ」

「迎えにきたよ」

「でも、言う事きい、てくれないぃ」

「お母さん、怒ってるからねぇ」


 赤く濡れた両足をぎこちなく動かし、サリィと名乗った異形がやってくる。

 目の前にやってくると、強烈な容姿が脳裏に焼き付くのではないか、というぐらいに衝撃を受けてしまう。


 異臭を放ち、壊れた人形みたいに、サリィが笑った。


「い、ひ。いひ。おいでぇ」


 冷たい金属の感触が、ボクの腕に触れた。

 両手の鉈で肘の辺りをペタペタと触られ、ボクは固まった。


 ポーン。


 ボクが固まっていると、隣のエレベーターも開いた。

 ゆっくりと両側に開くドア。

 中に立っていたのは――。


「……殺す」


 見た事もない形相のサオリさんだった。

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