間に合わなかった

 気分転換に外に出た。

 母が死んで、一週間は経った。

 一週間ぶりの外だ。


 家から一歩外に出た景色は、相変わらずだった。

 ボクの住んでいる町は、山と海に挟まれた土地だ。

 東に行けば、田んぼのある通りに出て、少し視線を持ち上げた先に山が広がっている。


 西に歩けば、すぐに潮の香りが鼻孔をくすぐり、沿岸えんがんに辿り着く。


 ボクは家を出て、徒歩五分の場所にあるコンビニにやってきた。

 店内には、男の店員が一人だけ。

 別に後ろめたいことはないが、何となく本のコーナーに立ち寄って、気になるのがあれば、お菓子と一緒に買おうと考えていた。


 適当な漫画雑誌を手に取り、「ポテトでも買おうかな」と考えた時か。


 ピンポン。と、入口の方から入店音が聞こえる。

 何気なく目を向けた。


「……あぁ……マズいなぁ……」


 女の人は入口から動かなかった。

 入ってくるなり、顔をしかめて何やら考え込んでいる。


「どうしたんだろう」


 ボクは、その女の人が気になった。

 パッと見た感じは、美人なお姉さん。

 気だるげな雰囲気をしていて、眠そうに半分閉じた目が印象的。

 長い髪を後ろでまとめており、ポニーテールにしていた。


 格好は動きやすいラフな出で立ち。

 肩や腕に布地がない、黒のホルタートップ。

 その上に、丈の短いジャケット。――灰色のクロップドジャケットを羽織り、下はジーンズを履いている。


 だらしなく服を着崩しており、肩には筒袋を担いでいた。

 入店したお姉さんはジロジロと店内を見回す。


 ふと、引き攣った顔がこっちを向く。


 目が合ってしまい、ボクは慌てて雑誌の方に目を戻した。

 さっさと出よう。

 そう思い、踵を返した。


「待った」


 後ろから声が聞こえたや否やボクの視界は、真っ暗になった。

 何が起きたのか、理解するまで少し時間が掛かった。

 24時間ずっと明るいコンビニは、滅多に照明を消さない。


 しかし、まだ客がいるにも関わらず、明かりが消えた。

 どう考えたって、普通じゃなかった。


 一方で、外にあるコンビニの看板は白く輝いている。

 ということは、災害か何かで消えたわけではないだろう。


 ボクは数歩進んだ先で、雑誌を落とした。

 飲料の並ぶケースの前で立ち止まり、「え?」と言葉を失う。


 、女の人がいた。


 どうやって入ったのかは分からない。

 店内は真っ暗なのに、なぜか女の人の姿だけはハッキリと見えていた。

 中から白い手を伸ばしてくる。

 ケースの表面は、透き通った水のように波紋を広げた。


「……こっちにおいで」


 優しい声で、女の人が囁く。

 氷のように冷たい指先が、ボクの頬を撫でた。


 何が、起きたのだろう。

 突拍子もなく起こった出来事に、ボクは唖然とした。

 困ったことに、目の前の女性は唖然とするボクの首筋を執拗に撫でまわしてくる。


 くすぐったいが、どこか心地の良い。

 皮膚を通して、心臓を撫でられているかのようである。

 愛撫というには、妙に情のこもった優しい手つきだった。


 ――逃げなきゃ。


 頭では分かっていた。

 これだけ異常な事態だというのに、身を任せたくなる得体の知れない魅力が、目の前の女にはある。だからこそ、危険だと心がざわついていた。


「そいつから離れて」


 突き刺すような声が聞こえ、我に返った。

 一瞬だけ、女の人がジロリとボクの後ろに目を向けた。


「……邪魔者はとっくに消えたの。ね。ハル。お家に帰りましょう」


 目つきは鋭いままだった。

 視線はボクの後ろに向けられている。

 表情だけ見れば、明らかに殺意のようなものが浮かんでいて怖い。

 なのに、五指はボクの首に絡みつき、そっと引き寄せる。


 まどろみのような心地よさが込み上げてきた。

 その矢先、ボクは視界に違和感がある事に気づいた。


 ボクは傾く視界を持ちなおそうと首に力を入れる。

 なのに、どんどん視界は真横に傾いていくのである。


「仕方ないっか」


 諦めたような声が後ろから聞こえた。

 ボクの視界は、90度を超えて、どんどん見えている世界が反転していった。


 ペキ……ペキ……。


 妙な音だけが聞こえる。

 眠くなっていき、視界まで濁り始めていく。


 バリ……っ。


 また妙な音が鳴った。

 分厚いガラスをほんの少し割ったような、くぐもった音だった。


 その音を最後に、ボクの首からは冷たい指の感触が失せた。

 暗闇だけが支配する世界で、音だけがボクに情報をくれている。


「……う~ん。どうしよ」


 どちらの声か分からない。

 何やら困った様子でため息を吐き、今度は温かい感触が頬や首筋を撫でた。


 後から思えば、ボクはこの時。

 生まれて初めて、死を経験したのである。

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