第12話 すれ違う二人
雪乃の反対を押し切り、朔は家具屋に行くとベッドとパソコン用のデスクと座り心地のいい椅子を買った。
何が彼女にとって嫌かというと、その中の一つにも金額を払わせてくれなかったことだ。
結局、その日は揉めて機嫌の悪かった雪乃は、卓馬の家へと帰った。
もちろん、朔はいい顔をしなかったが、機嫌の悪い時の雪乃に逆らうべきではないと熟知しているからか行かせてくれたことは評価に値する。
一夜明ければ、ささいな口論はどうでもよくなった彼女だが、卓馬が帰って来たからなのか朝食の誘いは来なかった。
その代わりに、毎夜デートを重ねた。
今日の雪乃は、珍しいことに昼食に誘われたため、朔の会社のロビーまで来ている。
すっかりどんな会社で働いているのか聞き忘れていて、メールに書かれていた住所に来てただただ驚いていた。
だが、思い返してみれば朔は、雪乃の父親が働く会社の社長の息子なのだ。
途中で父親が仕事を変えたため、意識の中に朔の実家のことはなくなっていた。
約束の時間に高いビルを仰ぎ見て、オフィス街では浮いている自分の服装にため息が出る。けれど、着替えに戻る訳にもいかず、自動ドアの中の見慣れない世界に足を踏み出す。
中央に受付があるが、雪乃はロビーの椅子で待っててほしいと言われた通り、入口近くにあるソファーに座って朔が降りてくるのを待つ。
時々、受付の辺りから視線を感じたが、雪乃は気にしないように努めた。
スマートフォンを傍らに置き、本を開いて沸き上がる周りの声や音で刺激される不安感を紛らわす。
残念なことに今日に限ってウォークマンを忘れたせいで、苦労する結果に終わる。
出入口に人の姿が無くなると、ヒールが床に当たる音が耳に届いた。
顔を上げると、にこやかな受付嬢が立っていた。
「失礼ですが、当社にご用でしょうか?」
口元は努力の賜物か弧をえがいているが、目の奥には『なんなの? 場違いの人ね』という風に思っているのが出ている。
「人と約束をしているんです」
「当社の人間でしょうか?」
「ええ、大上朔とですけど」
「そ、それは失礼しました」
綺麗な化粧を施した顔をわずかに歪めた受付嬢は、深くお辞儀をすると背を向けてデスクに戻って行った。
これで静かに読書いていられると思っていたのに、今度は静かなロビーに受付嬢たちのひそひそ話あ聞こえてくる。
「どうだった?」
「なんか、時期社長の大上さんを待ってるんだって」
「はあ~? あんな女が大上さんと知り合いってありえないわ。ストーカーなんじゃないの?」
「わたしも耳を疑ったわ。だって、大上さんには桁違いな美人の婚約者がいるじゃない?」
「いるいる。あれは文句なしに美人だった。それに、どっかの会社の社長の娘なんでしょ? お似合い以外のなにものでもないないし……でも、あの人は」
二人の視線が自分に向くのがわかり、小説が頭に入ってこない。この場所からすぐにでも立ち去りたい。
ショックなのは他にもある。朔に婚約者がいるなんて初耳だ。
結局は久々の再会で、昔の女が気になってちょっかいを出してきただけなのかもしれない。
何より、婚約者がいる身で平気で雪乃に触れてきたことが理解出来ない。
もう会うべきじゃない。
雪乃は立ち去るべく、震える手で鞄にスマートフォンと本をしまっていると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「受付の仕事は、雑談することか? それに、見た目で判断するなんてありえないだろ。君達じゃ、会社の顔とも言える場所での仕事は勤まらない。明日にでも異動の辞令があると思っておいて」
「「も、申し訳ありませんでした」」
二人が声を震わせながら頭を下げる様子を、雪乃は驚きの目で見ていた。
彼女たちが言っていたのが朔本人のことであるのは間違い。つまりは、婚約者についての話もほんとだということだ。
「朔? それじゃあ、楽しいランチを」
朔の姿しか目に入っていなかった雪乃は、その後ろに細くて美人な女性がいることに気がつかなかった。
とても洗礼された美女だ。
道を歩けば、男なら感嘆のため息を吐くだろうし、女なら羨望の眼差しを向けるだろう。
雪乃が見ている前で、声をかけられた朔は振り返り彼女の腰に軽く触れながら頬にキスをした。
「君もね」
微笑み合う二人を見た瞬間、あの人が受付嬢たちが話していた婚約者なのだと気がついた。
あんなに綺麗な婚約者がいながら、なぜなのだろうかと疑問しか浮かばない。
会社という割にラフな服装の朔が歩いてくる自信に溢れた様子に、雪乃は文句を言いたい気持ちを飲み込んだ。この場で騒いで、要らぬ注目を浴びたくないし、会社で朔に変な噂が立つのも避けたかった。
「お待たせ、ヒナ。遅くなったせいで嫌な思いをさせてごめん」
震えて泣き出していまいそうな自分をどうにか抑えて、なんでもない振りを続けた。
鞄を持って立ち上がると、朔は雪乃の腰に手を当ててエスコートしてくれるという女性なら憧れそうなことだが、今の彼女は逃げたくてしょうがない。
どうにか我慢しながらビルを出て、受付嬢からは見えない所まで来てから、雪乃は片手で朔の手を引き剥がして一歩離れた。
「どうしたの、ヒナ」
突然、態度を変えた理由の分からない朔は、惑いの表情を浮かべている。
その表情から、婚約者云々の話は聞いてなかったのだろう。
だからか、そんな顔をさせてしまったということに、少なからず雪乃は心を痛めた。
「ごめんね、朔。さっき、和人くんから連絡が来て出版社で打ち合わせになったから、ランチに行けなくなった」
咄嗟に、社会人なら優先させなければならない理由をでっち上げた。
仕事が理由なら、絶対に新しい予定をねじ込めると思って。
案の定、朔は嫌な顔をしなかった。
むしろ雪乃の見る目が変わったからか、ほっとしているようにさえ見える。
「ああ、そうなんだ。ランチを一緒できないのは残念だけど、仕事なら仕方がないよ。タクシーで送る」
「いい。一人で大丈夫だから、朔はランチに行ってきなよ」
「でも……」
眉をハの字にして困り顔を向けてくる朔に耐え切れなくなり、雪乃は走り出した。
「ヒナっ!」
後ろから彼の呼び止める声が聞こえてきたが、とにかくその場を離れることしか頭になかった。
もう東京にはいられない。
近場の電車のホームに向かい、卓馬の家を目指す。
電車で揺られている間も、雪乃の頭の中には裏切られた思いしかなかった。普段なら気になる人の多い電車の中も気にならないほどショックな出来事だった。
そして、もう一度信じた自分に嫌気がさす。
そもそも、同窓会に参加すべきではなかったのだ。
毎年、ハガキやメールがくる度に、不参加にしていたのに今年に限って参加した途端にこれだ。
雪乃は決断を下した。
もう、必要がない限り都会には来るまいと──。
最寄り駅のアナウンスが流れ、人の間をぬってホームに降り立ち迷わず階段を上り改札を出ると、急いでマンションへと入った。
卓馬と鉢合わせたら、間違いなく理由を訪ねられるだろうし、説得されるだろう。
彼なら雪乃の顔を見ただけで、何かあったと気がつく。
それだけは避けたかった。
エレベーターに乗って上を目指す間も、こんなにもどかしかったことはない。
今回ばかりはエレベーター内の音楽にすら苛立ってくる。
ようやく到着して扉が開くと、足早にカードキーをかざし鍵を開け、自分の部屋へと直行する。
ボストンバックを掴んで持ち込んだ数少ない衣類を詰め込み、ノートパソコンと先日購入した本も一緒にしてチャックを閉めた。
その鞄を玄関に置くと、リビングに寄ってメモ帳に軽く卓馬に向けて当たり障りのない、仕事に戻るというメッセージを残した。
メッセージを見た後には、メールや電話がくるのは分かりきっている雪乃は、スマートフォンの電源を落としてからボストンバックを手に玄関から出る。
目指すのは、愛車の置いてある実家だ。
卓馬のマンションから電車で二十分くらいの場所にある。
北海道から帰って来た両親とは、一度電話で話したが旅行がトラブルも含めて楽しかったものであるのが伺えた。
そんな二人とは車を停めにいって以来、顔を合わせていないがコテージに行けば二人の気配の名残を感じられるから寂しくはない。
いつでも父が車が動かなくならないようにメンテナンスしてくれて、母はコテージに食料を足しに行ってくれる。
と言っても、実は雪乃の車を動かす名目で食料を足しに行きつつ、コテージのある森の中を満喫しにいっているのだ。
両親も彼女同様に、都会よりも自然溢れる場所を好んでいる。
足早に駅の改札を通ってホームに下りた雪乃は、タイミングよく止まっていた電車に乗ると、空いている席に座って目を閉じた。
周りの景色や音を遮断して、人が多いことへの嫌悪感をやり過ごすこと数十分──。
駅にたどり着く頃には、動悸と息苦しさを感じはじめていて、電車を降りてから深呼吸を繰り返した。
家にたどり着くまで──。
そう自分に言い聞かせながら、重いボストンバックを肩にかけて歩く。
両親は、駅から徒歩数分にある住宅街に妹夫婦と住んでいる。
子供の苦手な雪乃は、甥っ子が産まれたばかりの頃に会って以来だが、時にはプレゼントを送るくらいはしていた。
今はより会いたくないと思っている雪乃は、真っすぐ駐車場に向かって予備の鍵で車を開けると、ボストンバックを後部座席に放り込んでエンジンをかけた。
全てを振り切るようにアクセルを踏み、三時間ほどの旅路に向かって走り出した。
★★★★★★★
ランチを断られた朔は食事をする気にもならず家で仕事をしようと、自宅マンションのエレベーターに乗った時にも消えない苛立ちに苛まれていた。
全てはあの見た目重視で、仕事の場を玉の輿を狙うための婚活パーティー会場と勘違いしているふざけた二人のせいだ。
ようやく近づきつつある二人の距離が、また遠退いた気がしてならない。
どうにかつなぎ止めようとポケットからスマートフォンを取り出し、会えないかメールを打つ。
送信が完了と共に開いたエレベーターの扉の向こうには、予想外にも卓馬の姿があった。
「なんのよう……って、なんだよ!」
挨拶を交わす間もなく、胸倉を掴まれて廊下の壁に押さえ付けられた。
「なんだよって、なんだ! お前、雪になにした」
「はっ? 意味が」
「雪が出て行った。今まで、手紙一つで帰ったことなんてないのにだ。おまけに、自分で持ち込んだものが全部なくなってた」
朔は血の気が引いて、心臓が冷たくなるのを感じた。
卓馬の手を振り払い、すぐさまスマートフォンを取り出して画面を開く。
彼女からの返信はまだない。
もともと、すぐに返すタイプではない彼女だ。そこは重要ではない。
電話帳を呼び出して、電話をかけてみるが──。
聞こえてきたのは、留守番電話サービスの声だけだった。
「雪の様子が変だって、気がつかなかったのか?」
「今日はランチの約束をしていたから会社のロビーで待ち合わせてたけど、仕事が入ったからってランチが中止になったんだよ。あの時……」
朔は言葉を切った。
受付嬢たちが勝手に盛り上がっていた婚約者がいるだとかいう戯言の後、明らかに雪乃の様子がおかしかったではないか。
朔の顔も見ず、とにかく彼から離れたいと物語っていた。
「くそっ! ヒナのコテージってどこにある?」
「あの場所について知っているのは、おふくろさんだけだよ。まあ……たとえ、オレが知っていたとしても、教えないけどな」
朔は卓馬に言葉を返す時間も惜しいといった感じで、まだ止まっていたエレベーターに乗り込むと地下駐車場に下りた。
まだエンジンの温かい車に乗り込み、とにかく何も考えが浮かばないまま、かつてよく出入りしていた雪乃の実家を目指す。
たいして混んでいない道路にも関わらず、いちいち信号に引っ掛かることに苛立ちと同時に焦りを感じはじめて、朔は指先で何度もハンドルを叩いた。
少しでも気を紛らわせようと窓の外に目を向ければ、夜ともあって恋人同士が寒さの中で身を寄せ合い、耳元で愛を囁き合う様子ばかりで目を反らした。
朔だって、あんな風に雪乃と恋人同士の甘い時間を過ごすことを、昔から夢見てきた。
そして、もう少しで思い描いてきたこと全てを実現できるところまできていたのに、一瞬で泡となって消えた。
だが、今回は諦めるつもりは微塵もない。
これから会ったとしても、おそらくは言い合いになるだろう。
雪乃の心を取り戻すには、かなり苦労することも想像できる。
人によっては、そこまでして手に入れるよりも、確実に手に入るであろうところに目を向けるべきだと思うだろう。
けれど、朔の隙間だらけの心を満たすことは、雪乃以外にはできないのだ。
彼女の実家近くのコインパーキングに車を停めてから、覚えているままに歩いて行き、追い返されるのを覚悟してインターフォンを鳴らした。
応答が聞こえるまでの時間は、拷問にも等しい。
緊張で冬だというのに嫌な汗が流れていき、もう一度押そうとボタンに指を当てると、玄関の扉が開いた。
「は~い、どちら様ですか?」
変わっていない雪乃の母親──
「恵理子さん、俺です……大上朔です」
朔の姿を目で捉えた恵理子は、柔らかく目を細めた。
「あらあら、朔くん……大きくなって、というか相変わらずハンサムね」
昔から、朔は恵理子に気にいられていた。初めて会った時から、あなたみたいな息子が欲しかったと可愛がられ、まるで本当の息子のように愛し、時には叱ってくれたものだ。
「あの……ヒナは? いえ、ヒナのコテージの場所を教えてくれませんか?」
「まあまあ、ちょっと落ち着いて。とりあえず、中へどうぞ」
今すぐ教えて欲しいという気持ちをどうにか押さえ付けて、朔は促されるまま思い出の詰まった家の中へと入った。
そこで、玄関に若い女性の靴と男物の革靴があることに気がついた。
「もしかして、来客中でしたか?」
「いいのよ、気にしないで。あなたと同じ理由で来た子たちだから」
恵理子の後に続いて廊下を歩き、リビングに入ると、すぐさま朔の知らない二人の姿があった。
先に口を開いたのは、清潔感があり柔らかい印象の男だった。
「恵理子さん。こちらの方は?」
「この子も雪乃を探しに来たのよ。ところで、いつ日本に戻ってきたの?」
「あ、はい。一ヶ月ほど前です」
「そう、お帰りなさい。それで? 一体、何があったのかしら。この二人は、雪乃の編集者よ。どの電話番号にも出ないんですって」
恵理子はのんびりとお茶を入れ、朔にも座るように促した。六人掛けのダイニングテーブルにつくと、目の前に湯呑みが置かれた。
「恵理子さん! 呑気にお茶してる場合じゃないですよ。雪乃さんに何かあったら」
「大丈夫よ、和人くん。大袈裟ね。あの子が何か思ったときの行き場所なんて、コテージしかないんだから」
「なら、教えてくださいよ。無事でいるか確認してきますから。雪乃さん、強そうに見えて繊細なんですよ?」
たかだか仕事の間柄の人間が雪乃のことについて話すことに、朔は苛立ちのこもった目で睨みつけた。
和人が、仕事相手として以外の目で彼女を見ているのは確かだ。
「実は……恵理子さんたちが北海道に行ってる間に、ヒナと再会して俺はアプローチ中です。報告が遅くなってすみません」
「あらまあ、これだけの時間離れていたのに、未だに雪乃が好きなのね、あなたは。どうやら、あなたのお父様とお祖父様の予感は外れたみたいね」
「予感、ですか?」
恵理子はゆっくりとお茶を飲むと、朔の目を真っ直ぐ見て言った。
「そうよ。あなたの恋心は、幼い頃に芽生えたものでしょ? お二人は、鳥の雛が初めて見たものを親だと思う刷り込みだったんじゃないかと思っていたのよ。条件を出して引き離せば、時間が経つにつれて思いが恋ではないと気づくだろうってね」
だからかと朔は思った。
イギリスにいる間、何度もパーティーに連れていかれるし、同い年の女性を紹介される機会が何度もあった。
あの頃は、そういうものかと軽いデートみたいなことはしていた。
けれど、いつだって頭の頭の片隅に、心の片隅には雪乃の存在があったのだ。
同い年の子と出掛ける度、彼女はどんな姿に成長しているのだろうかと想像していた。
「あなたのことだったんですね」
沈黙を破ったのは、雪乃の女性編集者だった。
朔がちらりと視線を向けると、女性は姿勢を正して頬を赤らめた。
「あ、すみません。あたしは、雪乃さんの担当をしているもので、東金朱音と申します」
「どうも、大上朔です。ところで、俺のことってどういうことですか?」
「あの……雪乃さんが作家デビューした頃から担当なんですけど、初めて会った時に一緒にお話をしている時に聞いたんです。どうして小説を書き始めたんですかって」
小説家になったことは知っていたが、朔も何故なったのかは知らない。
「雪乃さんは、諦めた恋愛の続きをする為よって。普通の人間同士の恋愛を選ばなかったのは、ばれた時に恥ずかしいからだって笑ってました」
「正解よ、朱音ちゃん。朔くんが、雪乃の思い人」
恵理子は楽しそうに笑いながら立ち上がり、電話の置いてある棚に行くと何かを紙に書いている。
はやく雪乃の無事を確かめたい朔は、そわそわと落ち着かない気分でいると、向かい側から無視できない視線を感じた。
その視線を受け止めるべく顔を向ければ、和人と目が合った。
「あなたが雪乃さんの思い人だとしても関係ありません。あの人を傷つけたことには変わりはないでしょ? そんな人に、近づいて欲しくない」
「これは、俺とヒナの問題だ。君こそ間に入らないでくれないか」
「正直に言っておきます。僕は雪乃さんに好意を抱いています。だから、泣かせるようなことは許せない」
強い眼差しに、自分もこれだけの強さがあれば、最初の時に傷つけずにすんだのかもしれないと思え、古い心の傷が痛んだ。
あの頃の自分は、手紙の返事が来なくても、読んでくれていればいいと思って電話はしなかった。
言葉よりも、形あるものの方が伝わると思っていたのが災いした。
ぎゅっと、膝の上に置いた手を握り締めていると、目の前に箱が置かれた。見覚えのない箱に首を傾げれば、恵理子は申し訳なさそうな顔を朔に向けた。
「この間、雪乃にあなたからの手紙について聞かれてたんだけど……返事が届かなかったことで、あの子を責めないでやってね。あなたのお祖父様たちに言われて、手紙は読ませていなかったの。その箱の中に全部入ってるわ」
「な、なんで……」
「お祖父様の考えとしては、雪乃が変な希望を持って長い時間……縛られないようにって。もしも、あなたが心変わりした時に、傷つかなくてすむようにって話だったんだけど……会ったなら分かったと思うけど、逆にあなたとの関係が途切れたことによって傷ついたんだから意味がなかったわね」
箱の蓋を開けると、わずかに黄ばんだり年月を感じさせる劣化が見られる手紙の束が入っていた。
忘れもしないイギリスの雑貨店に足を運んで、自ら選んだ便箋に涙が出そうだった。
唯一、恵理子から届く手紙で雪乃が作家になったと知り、本を送ってもらって読んだ時には、リアルなセックスシーンに怒りを覚えた。
手紙一つ返さず、自分の気持ちを知りながら、他の男のものになったことを。
あの時は、怒りに任せてバーに行きアプローチしてきた見ず知らずの相手を抱いた。
朝を迎える頃には自己嫌悪に陥り、逃げるようにその場を去った記憶は忘れもしない。
同時に、裏切られても、やはり雪乃が好きだと再認識した。
けれど、その全ては朔の勘違いだった。
「朔くん……これがコテージの住所よ。行ってあげて」
「俺は……」
彼女の前に姿を現す資格があるのだろうか。
ここまですれ違っていることを思うと、自分たちは一緒になったとしても、これから先も傷つけ合うだけじゃないだろうかと不安になる。
そんな迷っている朔の背中を押したのは、恵理子だった。
「今を逃したら、雪でコテージに行けなくなるわよ? 今夜遅くから、大雪になりそうなんですって。それと、あの子の車のタイヤは冬用に変えたんだけど……コテージに食料を補充しに行くのを忘れてたのよね。届けるついでだと思って会ってくるといいんじゃない?」
朔の頬を愛おしそうに軽く触れた恵理子は、準備をするためか席を外した。
手元に残された紙に視線を落とせば、小さなメモ帳には長野県の住所と電話番号が鮮明に書かれている。
場所が正確に分かってしまえば、心は雪乃の元へ行きたいと叫ぶ。
「ほらほら、速くしないと和人くんにメモを取られちゃうわよ? 車に運ぶから開けてちょうだい」
「今開けます、恵理子さん」
誰かに雪乃の隣を譲る気のない朔が、決意を込めて立ち上がると、恵理子は嬉しそうに笑った。
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