第11話 触れ合う心
マンションに戻るまでの時間。
部屋に入るまでの時間。
雪乃と朔は一言も話さなかった。
そんな時間を過ごしていたから、彼の部屋に先に入り靴を脱ぐ彼女の耳には、扉が閉まる音も鍵のかかる音も、嫌に大きく聞こえた。
「ヒナ」
何時間かぶりに聞く朔の声は、なんとなくざらついて聞こえて、雪乃はびくりと肩を揺らした。
「な、なに?」
「昼、買っておいたカツサンドと紅茶でいいかな? もっとがっつりしたものがよかったら、パスタでも作るけど……」
「ううん、そんなにお腹も空いてないし……紅茶だけでいい。なにか手伝おうか?」
「紅茶を入れるのは得意だから、大丈夫だよ。でも、言ってくれてありがとう。ヒナはテレビでも見てなよ」
ふんわりと笑った朔はコートを脱ぎながら追い越して部屋に入っていき、セーター姿で戻ってきた。
ソファーの近くでコートを脱ぐ雪乃に近づくと、手で軽く顎を掬い上げて、しっとりとしたキスをする。
コートを脱いでいる途中だった雪乃は、一瞬固まってしまった。
ここまでキス魔だとは思ってもいなかった彼女とは裏腹に、朔はペロリと唇を舐めて口元だけで微笑むとキッチンへと移動していく。
朔が初めてのキスの相手であり、数日前にファーストキスを経験したばかりだというのに、彼からのキスに慣れつつあるうえに、雪乃自身──気に入りさえしている。
脱いだ上着をソファーの背にかけ、どさりっと座り込むと膝に両肘を着いて手の平に顔を埋めた。
自分がこんなに破廉恥で、触れ合いに飢えていたことに驚く。
何度も物語の中では綴ってきたが、現実世界に変換されるとこれほど強烈だとは思いもしなかった。
段々と座っているのも落ち着かなくなってきて、ふかふかのラグの敷かれた床に座ると、ソファーにもたれ掛かりテレビの電源を入れた。
時間的に情報番組かニュース、サスペンスしかやっていない。
その中から、雪乃は緊張と妙な気まずさを和らげるべく、情報番組にチャンネルを合わせた。
有名な芸人とよくテレビで見かけるモデルが司会をする番組は、色々な情報が得られることから雪乃もよく見ているが、今日はなんだかソワソワしていて頭に入ってこない。
「お待たせ、ヒナ。アールグレイでよかったかな?」
ことりっ、と目の前のテーブルに湯気の立つカップが置かれ、豊かな香りが鼻を掠めていく。
「ミルクティーよりも、ストレートで飲めるほうがいいかと思って。本格的なミルクティーは今度ね」
雪乃の右後ろに座った朔は、肘かけにあるテーブル部分にソーサーを置くと、優雅にカップに口をつけた。
同じように彼女もカップに口をつけると、外を歩いたせいで冷えた体に温かな紅茶がしみていく。
「おいしい」
自分で入れた時とは比べものにならないほど、熱すぎず苦くない。
「美味しい入れかたを祖父から教わっておいて良かった」
床の上に座る雪乃の肩から右腕に、軽く朔の足が触れている。
その小さな接触が、彼の触れずにはいられないという表れのように感じられて、雪乃は見えないところでこっそりと微笑んだ。
その後は、テレビの画面の中から聞こえてくる話しと笑い声に耳を傾けながら、ゆっくりと喉を潤していく。
「ごちそうさまでした」
「美味しかったならよかった。カップはテーブルに置いといていいよ」
自分が片そうかと雪乃は言おうとしたが、ソファーの軋む音が聞こえたかと思うと空気が動き朔の足が雪乃を挟んだ。
何事かと後ろを見ようとしたら、顎を掴まれ上をむかされる。
疑問を口にしようとした口は、上から躊躇うことなく覆いかぶさる朔の唇で塞がれた。
朔に背中を向ける状態のまま、上をむかされるという不安定な姿勢でのキスのせいで、雪乃が見えるのは彼の喉仏だ。
ゆっくりと唇が動き、お互いの舌が激しく絡まるにつれて朔の喉仏が動くのが目に入り、なんだか官能的なものに見えてくる。
胸が疼いて、ブラの中で胸の先端が固く立ち上がり、布に擦れてむずがゆい。
徐々に苦しくなってきて、顎を掴む朔の手に触れると、これ以上ないってほどゆっくりと唇が離れていき、急速に酸素が入ってきて喘いだ。
「ヒナ……立って」
「えっ?」
ぼんやりとしながら促された通り立ち上がり朔に向き直ると、腰を掴まれ引き寄せられる。
ソファーがあるからそれ以上は近づけないと思っているのに、彼の引き寄せる力が弱まることはない。
自ずとソファーの座面に片方の膝を着く形になった。
「ヒナ、跨がってくれ」
頬がカッと熱くなったが、あんなキスをした後では拒むののおかしな気がしてくる。
バランスを崩さないように朔の肩に両手をついて、ぎこちない動作でもう片方の膝も跨ぐ形で座面につく。
「俺の膝に座って」
「で、でも、私……重いから」
「平気だ。頼むよ、ヒナ」
抑えた欲求で掠れる声で懇願されて、断れる女がいるだろうか。
雪乃は体を強張らせながら、朔の太ももにお尻をついた。
そうすると、ジーンズ越しでも彼の筋肉質な硬い太ももの感触が感じられる。
こんなにも男女で違うのかと驚く。
心臓は、全速力で走っているかのように速まり、全身が熱くほてって敏感になってくる。
「ずっと、この日を夢見てた」
座ったことにより近くなった朔の顔は真面目で、熱っぽい目で見られて落ち着かなくなる。
これまで、雪乃をそんな目で見てきた男はいない。
自然とさっきとは違うシチュエーションに、雪乃から唇を寄せた。
でも初心者の雪乃には、どうしたらいいのか分からず軽く触れ合わせることしかできないでいると──。
不意に、これまで自分が執筆してきた物語が頭に過ぎった。
今後の為にも、その数々を試してみるべきじゃないだろうかと、変な探究心が頭をもたげる。
手始めに、朔の閉じている唇の割れ目を舌でちろりっ、と舐めた。
すると、腰を掴む朔の手に力が入った。
引きはがされないということと、次第に開きはじめた唇に嫌ではないのだと理解して、今度は彼の下唇を歯で挟むと、熱い吐息が漏れる。
それに気をよくした雪乃は、開いた唇に舌を差し入れ、朔の舌を探り当てた。
動かすように促し、ねっとりと絡め合う内にTシャツの下に朔の手が滑り込んできて、腰から肋骨の辺りを撫でられる。
微かにざらつく熱くて大きな手がもたらす肌への刺激に、雪乃は朔の肩を掴む手に力を入れた。
肌がぞくぞくして、足の間の奥が疼く。
少し唇を離すと、これまで発したことのない喘ぎが漏れそうで、キスを止めることができない。
余裕すらない雪乃と違い、落ち着いた様子の朔は彼女の腰を掴むと後ろに体を倒してソファーの背に寄り掛かった。
「んっ……」
変わった姿勢に、雪乃は微妙に前のめりになってしまい自ずと朔に胸を密着させるような姿勢にならなければバランスが取れない。
結果、胸板に両手を着く形になり、朔は自由に雪乃の背中を撫で回しやすくなった。
腰から肋骨へ、肋骨から背中のラインへと滑らかに動かされた手の向かう先は──。
そこで、ぼんやりとしている思考に危険信号が忍び込む。
手が迷わず向かうのは、ブラのホックだろう。
今日ってなに着けてたっけ?
なんて呑気な考えに、雪乃は両手に力を入れて、ぱっと唇も体も離した。
突然の動きに、朔の口からは不満の呻きが漏れる。
「ヒナ、どうしたの?」
それでも、彼の両手はTシャツの下で、素肌を親指で円を描くように撫でている。
「あの……えっと、その」
余りにも言いづらくて戸惑って下唇を噛むと、Tシャツの下から片手が滑り出ていき唇に触れられる。
「噛まないで……その仕草、ヤバいから」
「な、ヤバいって」
そんなに酷い見た目なのだろうかと思って、口元に手をやれば目元を和らげた朔に手首を掴まれた。
「そういう意味じゃない。ヒナのことが欲しくなって困るから、あまり挑発しないでほしいってこと。俺だって、理性の限界はあるんだよ」
「なら、離れた方がよくない?」
「ヒナは、やめたいの?」
腰を引いて膝から下りようとしても、腰を強く掴まれてしまい出来ない。
そう問われて、どう言えばいいのだろうか。
やめたくないと言えば、まるでセックスすることを期待しているように聞こえる。
やめたいと言えば、朔の心を弄んでいるように聞こえる。
それに、雪乃が制止したのは朔とのキスの先に進むのが嫌な訳ではない。
問題は──。
「そうじゃないの……今日、着けてるの……スポーツブラだから」
あまりの恥ずかしさに、どんどん声が小さくなっていく。
彼の顔を見ていられなくて、俯いて反応を待つことしか出来ない。
経験のない雪乃にとって、色々な情報を得る手段は雑誌やインターネットしかなく、そういった掲示板に書いてあるのは男性が下着次第で萎えるというものばかりだった。
特に好まれない下着の中に、スポーツブラと書かれていたことが頭をよぎる。
「なに? そんなこと気にしてたのか」
「だって、男ってみんなセクシーなランジェリーとかが好きなんでしょ?」
「それって、誰が基準なの? 前の男に何か言われた?」
狭められた目と低くなった声に、雪乃は皮膚が粟立つのを感じた。
「違うよ。世間一般の話……ほら、雑誌とかの特集で読んだから」
「なら、俺がどうかは知らないよね」
そんな言葉と共に、朔の両手がTシャツの裾に伸びて掴むとまくり上げられ、一気にシンプルで機能性に優れた黒いスポーツブラが露になった。
もちろん、レースなんてついてない。
不快な締め付け感や、ワイヤーの痛みがないから好んでいる日常使用だ。
特別感なんて一つもない。
なんの反応もしないことに不安が増していく中、朔は体を起こして布から覗く肌にキスをした。
「俺にとっては、十分そそる。服なんてただの包装紙みたいなものだよ。楽しみなのは、その中身なんだ」
「な、なにを期待してるのか知らないけど、私は胸も小さいし、スタイルだってよくないからね!」
沸き上がる羞恥心に服の裾を下ろそうと試みるが、朔の手に阻まれてもっと上にあげられ、ついにはTシャツを脱がされる。
「俺を何だと思ってんの? そんなことくらいで幻滅すると思う? なめないでもらいたいな。俺は離れている間も、ずっと想ってたっていうのに」
やれやれといった様子で首を振る度、柔らかそうな前髪がさらりと揺れる。
なぜだか、その様子にかつてのはかなげな朔を見て、魅了されてしまう。
「俺はヒナのヴィジュアルに惚れた訳じゃない。初めて会った時から紡ぎ上げた愛なんだよ」
確かなことを示すように、首に鎖骨に胸元へとキスが下りてくる。
テレビの音の合間に耳に届くリップ音が、生々しく雪乃の耳を犯していく。
何か掴まるものが欲しくて、先ほど魅了された髪に指を通すと、腰を掴まれて引き離された。
どうしたのかと朔を見れば、自分のセーターの裾を掴むと男らしく脱ぎ捨てジーンズのボタンまで外した。
知らずに再会していたあの日、シャワー直後の朔の上半身を見たにも関わらず、行為を予想させる今は酷くなまめかしく見えて彼女は息を飲んだ。
発達した胸板、六つに割れた腹筋、二の腕も動きに合わせて筋肉が隆起する。
うっとりと見ていると腰と背中に腕が回され、ぐっと引き寄せられるとブラとジーンズに覆われていない肌が、朔の素肌に密着した。
同時にぶつけられた唇は、さっきまでのキスとは比べものにならいほど貪欲に雪乃の舌を貪り、啜り、熱く溶かす。
あまりの激しさに肌が擦れ合い、しっとりと熱い肌との接触に、生まれて初めて自分が女であると感じさせるほど、腹部の奥がきゅんっと疼いた。
解放された時にはお互い息が上がっていたが、朔は唇を首へと滑らせ胸元へと向かってキスで下りていく。
これ以上は素肌に唇を這わせることが出来ないというところまでくると、彼は呻いた。
「これも脱がしてしまいたい」
朔は手を腰から撫でるように這わせ、ブラと肌の境目を親指でくすぐる。
体は期待でどこもかしこも敏感になり、少しの刺激でも甘い吐息を漏らしそうだ。
普通のブラと違い脱がしにくいであろう作りに、自分で脱ぐべきかと悩んでいると、朔の手がブラの裾を掴んでまくりあげらそうになり──。
ピンポーン!
と、軽やかな音が室内に響き、朔は手を止めた。
二人で玄関の方に目を向けたが、彼はすぐに雪乃に目を向けると、数秒前にしようとしていたことの続きを再開させようとした。
けれど、雪乃の方は一瞬の間のおかげで性的欲求に支配されていた理性が落ち着いていく。
「ちょっと、待って! 誰か来たんじゃないの?」
「今日はオフだし、誰かが訪ねてくる予定も無い。放っておけばいい。そんなことよりも……俺に集中して」
「んっ……」
甘く誘うようなキスをされて、また欲求が高まっていくが、インターホンもまた鳴らされた。
無視しようと決め込む朔を知ってか、ご丁寧にもスマートフォンまで鳴り出した。
雪乃の腰を抱いたまま、ガラステーブルに手を伸ばした彼は、スマートフォンを手に取り画面を見ると電源を落とす。
一体、どんな相手からの電話なんだろうかと気になっていると、今度は雪乃のスマートフォンが鳴り出した。
「出なくていいよ」
「なんで? 両親からかもしれないし」
逃がすまいとする腕をぽんぽんと軽く叩き、緩めさせると雪乃は膝から下りて足元からTシャツを拾い上げ、スマートフォンを手にした。
その間に、三度目になるインターホンが鳴る。
「クソッ! なんなんだよ」
文句を零しながらもソファーから立ち上がった朔は、上半身に何も身につけずに玄関へと歩いていく。
正直な話、雪乃も名残惜しく思っている。
体の芯はいまだに熱を持っているが、スマートフォンに表示された名前に通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「よお、雪。今、何してる?」
『誰だよ。何度も鳴らして』
電話の向こうからは卓馬の声と一緒に、朔の声まで聞こえてきた。
「なんだよ、朔。いるんじゃないか」
「お前……絶対、わざとだろ」
不機嫌そうな朔の声に、雪乃はスマートフォンの通話を切って、Tシャツを身につけると玄関に急いだ。
「た、卓馬! どうしたの?」
「どうしたの? とは、酷いな。帰るって連絡しておいただろ」
「そうだけど」
久しぶりに見る卓馬の顔に安心感より、なぜか決まり悪く感じてしまう。
「どうした、雪。顔が赤いぞ」
腰を屈めた卓馬が雪乃の頬に手を伸ばそうとすると、その手首を朔が掴んだ。
すると、何かを察したのか、口元を緩めた。
「あれか、オレはもしかして良いときを邪魔したか?」
一目瞭然だろう。
なかなか出ない電話と居留守。そして、上半身裸で不機嫌な様子の男ときたら誰でも分かる。
雪乃は顔に熱が集まるのを感じて俯いてしまった。
「雪がいいと思ったならいいが……」
彼女に向けていたものとは違う低い声になった卓馬は、一歩朔に詰め寄った。
「雪を傷つけたら許さないからな」
「ああ、わかってるよ。二度とそんなことはしない」
同じように真剣な面持ちで、朔は誓いの言葉を口にした。
そのうそ偽りのない声と気持ちを感じとり、凄むように立っていた卓馬は表情を緩めて朔の肩を押すと扉を閉めた。
「ヒナ。リビングに行こうか」
彼に促されリビングに行き振り返ると、脱ぎ捨てたセーターを着るところだった。
見事な筋肉が隠れてしまうことに、少なからずがっかりしている自分がいることに気がついて、雪乃は自分の厭らしさを思い知って顔を背けた。
たしかにちょっぴりエッチな小説を書いてはいるが、自分が生身の人間に欲情出来るとは思ってもいなかった。
「ヒナ?」
無防備に背中を向けていると、後ろから優しく抱きしめられた。耳にかかる吐息に、雪乃の胸はぎゅっと締め付けられる。
こんな気持ちにはなりたくなかった。
また恋をしてしまっては、別れが来た時に今度こそ立ち直れなくなってしまう。
朔の気持ちを疑っている訳ではないが、幸せや恋人同士が長続きしないことを雪乃は知っている。
「んー、どうかしたの?」
剥き出しになっている首の後ろに、啄むようなキスが与えられる。妙なくすぐったさに体をよじると、小さな痛みを感じるほどきつく吸われた。
知識として知ってはいたが、初めてつけられるキスマークに、口からは甘い声が漏れてしまう。
「卓馬の邪魔が入って止めたことの続きをしたいところだけど、俺の家にヒナが泊まれるように買い物に行こう?」
「へえっ? 別に特に必要なものはないけど……」
「ほんとうに? 寝巻とか、洗面用具とか……ヒナ用のベッドとか」
訳の分からない事を言い出す朔にぎょっとして体を捻れば、唇を嵌まれる。
「んっ……ちょっと、まって……ベッドなんてわざわざ買わなくたって」
「いいの? 俺は別に毎日一緒のベッドで寝るのは構わないけど」
「別にソファーで構わないし」
「俺が大切な相手をソファーなんかで寝かせると思う? ヒナがソファーで寝るっていうなら、俺も一緒にソファーで寝るか、俺だけがソファーでヒナがベッドってことになるけど?」
そんなことさせられる訳がない。
「んんー! 分かった、一緒に買いにいきます! だから離れて」
最後にねっとりとキスをしてから朔は唇を離した。
「オーケー。じゃあ、家具屋に行こうか」
息を弾ませる雪乃とは違い余裕の笑みを浮かべる彼に手を引かれ、家具屋に向かうべく地下駐車場に下りて行った。
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