第10話 デートは定番の……
<明日、朝七時に迎えに行くよ>
昨夜、午後八時に届いたメールの通り、朔は午前七時にやってきた。
「おはよう、ヒナ。準備出来てる?」
もちろん、きちんと用意をして持っていた雪乃だったが、扉の前に立つ朔の爽やかさに目を細めた。
「どうかした?」
「ううん、何でもない」
前の開かれた短めのピーコートからシャツと灰色のセーターが覗き、濃い色のジーンズにはキャンパスシューズとカジュアルな服装だ。
対する雪乃は、いつもと同じようにネルシャツにジーンズを穿いて、モッズコートを羽織って靴はキャンパスシューズと微妙なお揃いになってしまった。
「今日も可愛いね、ヒナ」
「あのさ、いつもと同じでしょうが。別に着飾ってる訳じゃないんだから」
「そうだけど、それがいいんじゃないか。着飾られたら、他人行儀じゃない?」
一緒にエレベーターに乗り込むが、朔は雪乃とは反対側の壁に背中をつけて見つめてくるだけで触れてはこない。
「なによ? じろじろ見てると目つぶしするわよ」
雪乃のことを尊重してくれていることが嬉しかったが、照れ臭くてそんなことしか言えなかった。
ほんとうはもっと違うことが言いたいのに。
どうしても素直になれない雪乃はエレベーターが地下に着くと、さっさと降りて朔の車の横に立った。
鍵が開くのを待っているだけなのに、朔はロックを外すとそのまま助手席の方に進んできて、雪乃のためにドアを開けてくれる。
正直、こういう行動が雪乃は苦手だが、彼が育ったイギリスということを考えて黙っていた。
「ありがとう」
「どういたしまして、ヒナ」
ドアが閉められ、シートに体を落ち着けると、小さく息を吐いた。
気を落ち着けてシートベルトをつけようとすると、運転席に朔が座った。
「で、どこ行くの?」
「んー、着いてからのお楽しみってことで、のんびり座っててよ。あっ、これそこのベーカリーで買っておいた朝食ね」
体を捻って後ろの座席に手を伸ばした朔は、紙袋を掴んで体を戻すと、雪乃の膝の上に置いた。
中を覗いてみると、サンドイッチとマフィン、コーヒーが入ってる。
「好きな時に食べていいよ」
そう笑った朔は、シートベルトをつけてエンジンをかけると地下駐車場から車を出した。
日曜日の朝ともあって、トラックが少ないからか何となく車の通りが少なく感じる。
高速道路にでも乗るのかと思っていると、車は一般道を進んでいく。
「朔は……食べなくていいの?」
中にはコーヒーの入った容器が二つと、小さめなサイズに切られたサンドイッチの入った箱が二つ、マフィンが一つ入っていて、見るからに朔の分だと分かる。
「一個ずつ渡してあげるよ?」
「えっ! いいの?」
「うん、だって運転してたら食べられないでしょ? 私だけ食べるのも不公平だし」
「……ありがとう。まずコーヒーに砂糖とミルク入れといてくれる?」
雪乃は言われたとおりコーヒーのカップの蓋を外し、砂糖とミルクを入れて混ぜると蓋をしてボトル置きにコーヒーを置いた。
同じように自分の分も用意すると、サンドイッチの箱を二つ取りだし膝に置くと、両方の蓋を開けて信号が赤になるのを待つ。
タイミングよく信号で止まったところで、雪乃はサンドイッチを一つ取って朔に渡した。
「ありがとう、ヒナ。本当はお腹空いてたんだ」
そう言って笑った朔に、雪乃は妙な照れくささを覚えてごまかすように自分の分のサンドイッチを食べた。
それでも、彼の食べるペースを観察して、タイミングよく次を渡すを繰り返し、信号が青に変われば、雪乃は渡すの止めて自分の分を平らげた。
次に引っ掛かった信号で朔は食べ終え、雪乃は自分の為だけに用意されていたマフィンを口にした。
マーブル模様のマフィンは大きく、程よい甘さに満足していると、視線を感じた。
顔を横に向ければ、赤信号で車を止めた朔が雪乃の口元を見ている。
「なに? 食べたいの? ほら」
一つしか買わなかったことを後悔いているのかと思って、彼の口元にマフィンをずいっと近づけると、その目が大きく見開かれた。
「美味しいわよ?」
さらに畳み掛けると、ようやく口を開いた朔がマフィンをかじった。
「ね?」
「う、うん……美味いね。あとは全部食べなよ」
「もういいの?」
小さく頷き視線を道路に戻した朔の頬が、うっすらと赤い気がしたが、彼が照れるようなことをした覚えのない雪乃には意味が分からなかった。
お言葉に甘えて残りのマフィンを平らげ、まだ程よく温かいコーヒーで一息つく。車内には静かなくらいの音量でしか音楽が流れていなかったが、それでも沈黙が重荷ではない。
シートに身を沈めてリラックスしながら、窓の外に視線を向けてみるが、目の前に流れていく景色に見覚えはなく、来たことのない場所で行き先はまったく分からない。
「そろそろ、ヒントをくれてもいいんじゃない?」
「そうだな……デートの定番スポットって言ったら簡単に分かっちゃいそうだな」
デートの定番スポット。
そのワードに、雪乃はワクワクしていた気持ちが萎んでいくのを感じた。
ショッピングや映画館ならマンションの近くの複合施設にあるから車で行く必要はない。
朝早くから車を出したのだから、時間的に夜景を身に行くとは思えない。
そうなると、雪乃の頭に浮かぶデートの定番スポットといえば、一つしか思い浮かばなかった。
【テーマパーク】
そんなところに連れて行こうとしているのなら、朔は自分のことを何も分かってないと雪乃はがっかりした。
昔から、テーマパークというものが苦手なのだ。
絶叫マシンに乗ってどう声を出したらいいのか分からないし、メルヘンな雰囲気にはしゃぐタイプでもない。
何より人が入っているマスコットに会ったって、何を喜べばいいのか本気で理解出来ないのだ。
人が大好きなテーマパークのお土産や食事をテレビで見ても、高くて意外と夢の国って価格じゃないなという感想しか浮かばなかった。
何より人が多く、待ち時間の多い場所は、雪乃にとって苦痛でしかない。
想像しただけで、ぐったりと疲れてしまった。
「ヒナ? どうしたの、いきなり静かになって」
信号で止まったのか朔の心配そうな声が聞こえてきて、雪乃の視界の隅に伸ばされる手が入って片手で払った。
「いますぐ帰りたい」
思わずそんな声が口から出てしまうと、朔の困惑が感じ取れたが、日曜日のテーマパークになんて行きたくない。
「その我が儘は聞けないよ、ヒナ」
「なんで? 行き先は相談すべきじゃないの? それなのに好みも聞かずにテーマパークだなんて」
「テーマパークじゃないよ。もう着いたから、外を見てご覧」
むっつりとした気分で言われた通り外に目を向けると、飛び込んできた看板の文字に落ちていた気分はどこかに飛んでいった。
「えっ! ここって動物園!」
驚きに目を見張っていると、先に車を降りた朔が助手席に回ってドアを開けてくれる。
「そうだよ。さあ、行こうか」
朔に促されて車から降りると、動物園らしく園内への入口にはライオンやキリンの大きな置物がある。
さっきまでの気分とは違いワクワクが止まらない雪乃は、お知らせの看板の横にセットされている園内の案内を手に取り開いて動物の紹介を読む。
ここには関東では珍しく、オオカミが飼育されている。
来たい来たいと思っていたが、一人では来づらいし、都会を通っての長距離の運転をしたいとも思わず、なかなか行動に移せなかった場所だ。
オオカミの展示をしている場所を探し、朔に報告しようと振り返ると、彼は微笑んでチケットを差し出してきた。
「ありがとう。代金は?」
「いらないよ。それよりも、はやく入ろう」
戸惑っている間に空いている手を取られて、入口へと引っ張られていき、係員にチケットをもぎられている間だけ手が離れた。
入口を通過すると、朔は手を差し出してくる。
彼の楽しそうな雰囲気に水を差したくなくて、雪乃は素直にその手を取った。
「動物園なんて何年振りだろ」
「イギリス時代に行ったりしなかったの? その……彼女とかと」
「うーん、行かなかったよ。行くのは、クラブばかりだったから」
薄暗く、色とりどりのライトが人々を照らし、会話もままならないほどの音楽で満たされる場所で、女の子と体を寄せ合う朔の姿は、簡単に雪乃の頭の中に浮かんできた。
むしろ、朔のビジュアルなら絵になりすぎて、海外ドラマのワンシーンのようだろう。
「ヒナは? どんな休日を過ごしてたの?」
少しだけ嫉妬が顔を覗かせたが、そんな風に考えているだなんて朔は考えていないのか、前を向いて笑っていた。
「休みの日は、卓馬と白馬でスノーシューしたり、色々な場所の自然の絶景の写真を撮りに行ったりかな」
「卓馬とね……」
「ちょっと、やめてよね。ほとんど日帰りだし」
「ほとんどってことは、泊まりもあったってことだろ?」
「部屋は別なんだからいいでしょうが!」
そんな風に話している間に、二人はアフリカ園に来ていた。
ここで雪乃が食いついたのは、チーターとサーバル、ライオンだ。
ただ動物園を見ていると、時には動物が窮屈そうに見えてしまう。追いかける獲物がないというのは、動物の本能にとってどうなのだろうかと。
もちろん、保護の観点からはいいことだとは思う。
けれど、アメリカで見た国立公園を思い出すと、ここでの動物は生き生きさにかける気がする。
のんびりと短い日照時間を最大限に活用すべく、日なたで寝そべっているチーター。近くには三頭の子供の姿があった。
その光景を見ていると、勝手に生き生きしていない、幸せではないんじゃないかという考えは間違いかもしれないと思いはじめてきた。
産まれも育ちも動物園の動物にとって、フェンスの中で決まった時間に食事が出てくる場所は安全で、多くの子供たちが育つ環境は、地上の楽園なのかもしれないと──。
雪乃は実にあっさりとフェンスに背を向けると、朔の手を引いた。
「あれ? もういいの?」
「うん。ネコ科も好きだけど、本命はオオカミだもん」
そこからは流れるように象やムフロン、フラミンゴ、チンパンジー、ゴリラと数々の雪乃にとっては興味の欠片もない動物を流し見て行き、途中の休憩スペースで少しの休憩を挟んでまた園内を周りはじめる。
最後は一番の楽しみであるオオカミだが、その前にワイルドドッグであるリカオンへのルートを歩いていく。
「ところで、なんでそんなにオオカミにハマった訳?」
「うーん……ジェイクにイエローストーンに連れていってもらった時に見たのが印象的だったからかな。美しい被毛と瞳。群れの関係と役割。強い絆と社会性が魅力的だった」
「絆?」
「そう。生涯、一匹の伴侶と群れを率いていくんだよ? それに、妊娠中や怪我をしたり、老いていたりする仲間にも食事を運んで分け与える。群れのメンバーが、産まれた子供たちの子守をしたりするし。あとは見た目かな。青々とした森を背景にしてたり、雪の中で佇む姿が美しいの。私の家に行ったら朔は驚くかもね。写真やら置物やら、とにかく色んなオオカミグッズがあるから」
そうこう話している間に、リカオンの展示スペースにたどり着いた。
中からは独特の鳴き声がしていて、ふさふさとした白いシッポを揺らしている。
大きな耳と黒っぽい顔。まだら模様の被毛を持ち、体が小さめで可愛らしい。
「この子たちは、ヒョウを追い返すことも出来るし、獲物を代わる代わる追いかけることができるんだから、凄いと思わない?」
「へえー、こんな小さな体でなんて凄いな」
朔は感心したように覗き込み笑った。
その声と重なるように、甲高いリカオンの鳴き声が重なる。
「なんか、目とかもつぶらで可愛いな」
「オオカミとは違う魅力があるでしょ? じゃあ、そろそろ本命に会いに行かないと……」
次に進もうとすると、リカオンを見ている間は離されていた手を取られ、ギュッと握られた。
少し離されている間に冷えきったお互いの手が合わさったことで、じんわりとした温もりが広がっていく。
人間観察をかねてカフェから外を眺めている時、常に手を繋いでいるカップルを見るたびに、片手をずっと塞がれていたら不便だろうし、嫌だなと思っていた雪乃だが、いざ実際に自分が経験してみると不思議な気分だった。
朔が繋いだ手が利き手じゃないからかもしれないが、不便さは感じない。
他人に触られるのが苦手だが、相手を信頼しているからか嫌悪感もない。
むしろ、雪乃は安心感を覚えていた。
「ほら、あそこがオオカミの広場みたいだよ」
頭上から声をかけられて、はっとした雪乃は示された方を見て顔を綻ばせた。
駆け寄るために手を離そうとすると、朔は手から力を抜いて彼女の手が滑り出ていくままに行かせてくれる。
覗き込むような形の広場には、山のように土を盛られたところがあり、所々に土管が埋められていてオオカミの巣穴のようになっていた。
楽しげな唸り声のする方を見ると、一本の大きな骨をオオカミたちが奪い合う遊びをしているのが目に映った。
冬のおかげで、しっかりとした冬毛が生えており、より体が大きく見える。
「オオカミはいた?」
「ほら、あそこで遊んでる。この季節でよかった」
「どうして?」
「だって、夏場のオオカミって冬毛が抜けてほっそりとしてるし、動物園にいる子たちはなかなか動かないんだよ? 暑いからしょうがないんだけどね」
「遠巻きに見てると、近所の犬が引っ張り合いしてるみたいだな」
しばらくの間、二人で遊び回るオオカミを眺めていると、朔が腕時計に視線を向けるようになった。
雪乃としてはもっと眺めていたいところだが、やはり興味のない人を付き合わせるのは悪いと思って名残惜しく思いながらオオカミに背を向けた。
「どうしたの、ヒナ?」
「そろそろ行こうかなと思って」
「どうして?」
「だって、朔は退屈でしょ? 時間気にしてるみたいだから、なにか予定でもあるのかと思って」
「えっ?」
朔は気付かれていたのかって顔をした。
「いいよ。動物園ならいつでも来られるし」
そんな心配をよそに、朔はくすっと笑うと雪乃の手を引いてガラスの前に座らせると彼はしゃがんだ。
「変な心配させてごめん。最初から言っておくべきだったな」
「なにが?」
「昨日、調べておいたんだけど、正午を告げる時計の音に合わせて、オオカミが遠吠えするらしいんだよ。もうすぐだから、それを聞かせようと思って時間を気にしてたんだ」
「嘘っ! 遠吠えが聞けるの?」
「そうだよ。あと少しだけど、冷えるから俺は温かい飲み物を買ってくるよ」
朔は立ち上がり、ここに来るまでに調べておいたのか、迷うことなく進んでいった。
その背を見送った雪乃は、鞄からカメラとスマートフォンを取り出した。
追いかけあったり、戯れあったりするオオカミの姿を何枚も写真に収め、スマートフォンはいつ遠吠えが始まってもいいようにヴォイスレコーダーの画面にしておく。
近くにある時計を見ると、あと二分ほどで正午である。
スマートフォンを手に取り、ベンチに座ってどきどきしながら待つ一分は、ひどく長く感じ緊張してきた。
一度、自身を落ち着かせるために深呼吸すると、正午を告げる音が鳴りはじめ、忘れず録音ボタンを押す。
平日という園内の静けさに、オオカミたちが奏でる美しいメロディーが流れ、ここが動物園であることを忘れそうだ。
一匹から始まった遠吠えに、次々と仲間の遠吠えが重なっていく様子は、まるでコーラスをしているようだった。
神秘的な歌声の最後の旋律が遠退く頃、朔が戻ってくるのに気がつき、雪乃は口の動きだけで喜びを伝えた。
すると、朔の目に何かが閃いた気がした。
ずんずんと距離を縮めてくる彼から目が反らせない。
まるで、初めてきちんと朔のことを本当の意味で認識したかのように。
オオカミの遠吠えの余韻が消えていき、ボイスレコーダーを止めなければと思っているのに、意識は目の前に迫る彼の顔と唇に感じる柔らかさと温かさしか分からない。
自然と、そうすることが当たり前のように重なった唇は、これまでとは違い深く貪る激しさで、舌同士が絡み合う。
周りの景色が遠退いていき、反射的に目を閉じる。
時間としたら数秒程度だろうが、数分間に感じるキスが終わり、朔の顔が離れていくと、一気に周りの景色が戻ってきた。
「ちょ、ちょっと! 公共の場所でなにしてんのよ!!」
かあーっと熱くなる顔に、わなないている雪乃とは違い冷静な表情の朔は、彼女の口元に手を伸ばして親指で唇を拭った。
「あまりにも可愛かったから、我慢できなかった」
温かいペットボトルのお茶を雪乃の手に握らせ、困ったような笑みを浮かべた。
「どこかレストランのランチに連れていくつもりだったけど、はやく二人きりになりたい。できたら、昼食は家で食べたいな」
朔の提案に小さく頷いた雪乃は、スマートフォンとカメラを鞄にしまい、ベンチから立ち上がると彼の腕に自らの腕を絡めた。
『今、手を取るということは、キスより先を受け入れるということよ?』
動物園の出口に向かう間、何度も雪乃の心の中で自分自身が囁き続けた。
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