第8話 新たな一面
朔と一日を過ごしてから、二日。
雪乃は久々に一人きりの時間を満喫していた。
というのも、次の日から朔は会社に出勤しはじめたから、朝は忙しそうで、夜は遅くまで会社にいるのか、まったくというほど顔を合わせることがなくなった。
どんな服を着て、どんな会社に行くのかさえ雪乃は知らない。
たった二日間、一緒にいただけなのに少しだけ寂しい気持ちになっている自分に驚く。
これまで、十年間も離れていられたのに、朔のことを考えずにはいられない。
高くなった身長、低くなった声、大人びた表情、嫉妬や情熱が浮かぶ瞳。
雪乃にだけ向けるようになった優しさは、昔はなかったものだ。
かつての朔は、八方美人という言葉が似合うような人間で、とにかく敵は作らず、上手く立ち回るタイプで、雪乃はそんな朔を疲れないのかなと思ってしまうほどだった。
今の朔は全く違う。
昨日のカフェでの態度をみるからに、意見や嫌悪をはっきりと示すようになっている。
正直、雪乃にとっては頼もしいと感じるほどに。
相変わらず卓馬の家のソファーで寛いでいると、スマートフォンから音楽が流れはじめた。
「もしもし?」
「ヒナ? 今って大丈夫?」
「うん、大丈夫だけど? 朔と違って、ソファーで寛いでるんで」
「ははっ、そうか。ならよかった。今夜って、空いてる?」
交換したばかりの電話番号に、初めてかかってきた朔からの電話は、思いがけないほど胸をときめかせた。
直接話している時とは違う声の聞こえかたに、息遣いまで聞こえてくるようでくすぐったい。
「特に用はないけど?」
「なら、どこかでディナーでもどうかな?」
「えっ……」
ディナーという言葉に、ドレスコードのある面倒なレストランが思い浮かび雪乃の顔は引き攣った。
テーブルマナーは一通り身につけているが、ルールの煩いレストランに着て行く服もなければ、そういう服は大嫌いでもある。体の線が出る服も、肩や腕を出さなければならない服も嫌いだ。
「ごめん。そんなに構えないで。ただの夕食を一緒に食べようって誘いなだけだよ。外が嫌なら、俺が帰ってから作ってもいいし」
電話越しでも朔は雪乃の困惑を感じ取ったのか、そう付け加えた。
彼の自然な思いやりに、胸の奥がキュッとなった。
「あ、あのさ。家でもいいなら、私が夕飯作ろうか?」
朔の思いやりに、何かを返したかった。
けれど、他に何も思い浮かばず、気付けばそう口にしていた。たいしたレパートリーはないし、味だって普通だろう。むしろ、デパートでお惣菜を買ってくるか、デリバリーで頼んだ方が美味しいに決まってる。
思い直して、別の提案をしようと口を開くと、電話の向こうから小さく息を吐く音が聞こえてきた。
「本当に俺のために作ってくれるの?」
「え? そんなに驚くこと?」
不安に思っていたこととは違うコメントが出て、雪乃は拍子抜けしてしまった。
一体、自分はどういう人間に思われていたのだろうかと疑問が浮かぶ。
たしかに和人が言うように料理するのをめんどくさがるが、それは自分一人で食べる時だけであって、誰かの為に作って一緒に食べるのを雪乃は好んでいるせいだ。
時には、卓馬に作って共に食べたりもしていた。
「ただし、過度に期待しないでよ? あんたが食べてきたみたいな豪華な料理じゃないからね? 一般的に家庭料理と呼ばれるものだから」
「なんでも嬉しいよ。ヒナが俺の為だけに作ってくれるだなんて考えただけで」
「べ、別に、言ってくれればいつでも作るし……」
「ありがとう、ヒナ。できたら、俺の部屋で食べたいんだけどいいかな?」
「分かった。帰ったら、チャイム鳴らして。こっちで作って持ってくから」
「たぶん、二十時くらいに着くと思う。じゃあ、後で」
「うん、後でね」
無機質な電話の切れた途端、部屋の中の静けさが嫌になるほど耳につく。
朔が帰るまで残り時間は多い。
雪乃は冷蔵庫に近づくと、扉を開けて中を覗き込んだ。
この部屋に泊まることが分かると、卓馬は定期的に食材が届くようにしてくれるから、中身は豊富に入っている。 雪乃は、朔が昔なにが好きだったかを思い出そうとした。仲良く過ごしていた時に一緒に食事をしたことはあった。
時には、家庭科の授業で習ったばかりの料理を振る舞ったこともある。
いつも通りでいいかと考え直し、手始めにキュウリを取り出して、麻の袋からジャガイモを取り出してポテトサラダの準備をはじめた。
★ ★ ★ ★ ★
料理を終えた雪乃は、ずっと立ち仕事をしていた疲れからソファーでまどろんでいた。
そんな彼女の耳に、チャイムの音が聞こえてくる。
何か聞こえる気がするとぼんやりとした頭では考えられず、ようやく目が覚めたのは二度目のチャイムが鳴った時だった。
「ヤバッ!」
慌てて起き上がり壁掛け時計に目を向けると、時刻は午後八時五十九分を指し示していた。
玄関に急ぎ、鍵を開けて扉を開くと、目の前には困り顔でスマートフォンを耳に当てる朔の姿があった。
「よかった。チャイムを鳴らしても出てくれないから、やっぱり一緒に食事をしたくなくて姿を消したのかと思ったよ」
雪乃の顔を見ると、ほっとした表情を浮かべて電話を下ろした。
敵前逃亡したのかもしれないと遠回しに言われているのに、いつもなら噛み付いているはずの雪乃はただただ朔を見つめていた。
そうなってしまったのも仕方がない。
目の前にいる彼の姿は、これまでとは違うかっちりとした濃いグレーのスリーピーススーツに身を包んだ姿をしている。背が高く、程よく筋肉のついた朔は、まるで雑誌から飛び出してきたように輝いていた。
卓馬のスーツ姿で見慣れているはずなのに、朔が身に纏うと全く別ものだ。
それもそのはず、卓馬のスーツ姿は成人式の時から見慣れたものであり、そのワンクッションが朔にはない。
人によって、こうまで違うとは今まで思いもしなかった。
「ヒナ? 大丈夫?」
少し屈み込んで雪乃の顔を覗き込んできた朔に、はっとして扉を開いたまま半歩下がった。
「だ、大丈夫。時間通りだね」
「うん。楽しみだから、仕事がはかどったよ。服を着替えてから料理を運ぶの手伝うから、扉は開けといて。こっちも開けたままにしとくから」
朔はにっこりと子供の頃のように微笑むと、自宅の鍵を開けて扉を開けたまま奥へと入っていった。
雪乃もそれにならって扉を開けたままにして、せっせと料理を運び始める。手伝うと言っていたが、仕事で疲れているであろう彼に手伝わせようとは思っていない。
次々と皿と料理を運び込み、とりあえずコの字型の広いキッチンに置いて、卓馬の家の施錠をしてから朔の家の扉も閉めた。
初めて入る朔の家。
作りはまったく卓馬の家と同じなのに、匂いが違う。
彼が近づくたび、軽く香る爽やかな香りが室内でも漂っている。
「あれ? 全部、一人で運んじゃったの?」
勝手に部屋を見回すわけにはいかないとキッチンで俯いていると、そんな声をかけられた。
少しほっとして顔を上げると、キッチンの入り口でジーンズに白いTシャツの上にカーディガンという服装に着替えた朔が目を丸くしていた。
「たいした量じゃなかったから」
抱く気持ちが変わっただけで、こうまで違うのかと思うほど朔を直視していられず、料理に向き直ってサランラップを外しはじめる。
「うわー、すごく美味しそう。ありがとう」
「何が好きかわからないから、普段通りのものにしちゃったけど」
洗礼されたスーツ姿の朔を見た後では、こんな子供っぽい料理でいいのか自身がなくなってきていた。
雪乃が作ったのは、ハンバーグとポテトサラダ、グラタンと手作りコーンパン。
大人の口にいれるようなものじゃない。
「どうしたの、ヒナ。食べよう?」
「あ、うん。でも、グラタンの仕上げだけしちゃうから、座って待ってて」
「じゃあ、ポテトサラダとパンは向こうのダイニングテーブルに運んどくね」
「ありがとう」
ポテトサラダの入ったボウルとパンを盛ったかごを手渡し、雪乃はハンバーグを電子レンジに、グラタンをオーブンに入れて時間をセットすると、食器棚を開けた。
「朔? グラスってどこに入ってるの?」
「それなら一番上だよ」
まさかすぐ近くにいるとは思わず、後ろに立たれて頭に朔の着ているシャツが触り、心臓が一気に鼓動を速めて全身を熱くさせた。
(朔はただグラスを取ってくれているだけ!)
何も疚しい気持ちなんてない。ただの親切心だ。
そう思おうと奮闘しても、一度速まった鼓動はなかなか落ち着きはしない。
「はい。これでいい?」
後ろからグラスを二つ差し出され、喋るたびに息が耳元を掠めていく。
背中にはシャツ越しなのに熱まで感じる。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。アルコールはどうする?」
「やめとく。飲みたければ、朔は飲んだらいいし」
「俺もいいよ。じゃあ、烏龍茶を持っていっておくね」
冷蔵庫に朔が移動したことで、背中から熱が離れていって雪乃は知らずに止めていた息を吐き出した。
これまでの知らない相手に対する時の緊張や動悸とは違う。
朔に対するのは、忘れていた感情を思い出させる恥ずかしさからくるものだ。
今までの自分を取り戻すべく深呼吸を繰り返していると、電子レンジが鳴った。取り出した皿をダイニングテーブルに運び戻ると、今度はオーブンがグラタンの焼き上がりを告げた。
持ち込んだミトンで耐熱皿を取り出し、木製の鍋敷きに乗せて運んだところで、パントリーケースを部屋に置いてきたのに気がついた。
「フォークとかナイフを置いてきたから少し待っててくれる?」
「いや、わざわざ取りに行くことないよ。家にもあるから」
椅子から立ち上がった朔は、慣れた様子で引き出しからナイフとフォークを持ってきてくれた。
一人暮らしの男の部屋に、二人分のセットがあるということは、少し女性の影を感じてしまう。
もしかしたら、同棲していたこともあるんじゃないかと心の片隅で思ってしまったからか、さっきまでの感情は冷えて冷静に考えられるようになった。
「じゃあ、食べようか」
ナイフとフォークを受け取り、朔の向かい側に座る。
「「いただきます」」
チャイムが鳴る十分ほど前に焼けたばかりだったコーンパンは、まだほんのりと温かい。
ちぎりながら口に運び、上手くできていることに胸を撫で下ろした。
「全部、ヒナが一人で作ったの?」
「そりゃもちろん。当たり前でしょが。他に誰と作るのよ。香穂はカナダだし、卓馬は北海道でしょ」
「いや……あの担当の男でも呼んだのかと」
気まずそうにパンを口にする朔は目を泳がせている。
和人の名前すら口にしたくない様子に、数日前とは違い雪乃の心には苛立ちではなく微笑ましさが沸き上がってきた。
「まさか。和人くんは卓馬のマンションの場所は知らないし、さすがに勝手に誰かを上げたりしないよ。朔だって知ってるでしょ? 卓馬の縄張り意識の強さ」
懐に入れた相手に対しては優しい彼だが、初対面や信用できない相手に対してはかなり高圧的な態度をとる時もある。
一度、雪乃の自宅で和人とかち合った時には、かなりの不機嫌オーラを放ち、質問というなら可愛いが誰がどう見ても尋問に思える威圧感で話し始めたほどだ。
「ってことは、卓馬にとってヒナは特別ってことだろ? ライバルは結局……卓馬か。それって手強すぎる」
ハンバーグを頬張りながら、深いシワを刻む朔に雪乃は小さく笑った。
こうして見ると、全く彼が変わっていないことに気がついた。もちろん、男らしくなった点は別だが、今でも表情の意味が分かることが嬉しくなってくる。
「なにが可笑しいのさ、ヒナ。俺がどんなに心を悩ませていても、そうやって余裕だよね」
「ごめん、ごめん。卓馬と私の仲をそんなに悩む必要ないんだもん。卓馬には、百合ちゃんって想い人がいるんだから」
「へっ?」
背が高く、とても柔らかな美しさを持つ、人気のトリマーである。
雪乃も会ったことがあるが、短く切られた爪と香水をつけていないところに好感をもった。
保護団体のために、ボランティアでシャンプーやカットもしている優しい性格で、卓馬が引かれるのも無理もない。
「だから、私もそろそろ卓馬離れをしないと」
「へー、あの卓馬に想い人ねえ。じゃあさ、卓馬離れの練習だと思ってコレを受け取ってよ」
机の上を滑らせるように差し出されたのは、このマンションのカードキーだった。
「寛いだり、泊まったりは俺の家でしてよ」
カードキーが朔の家のものだというのに、雪乃は遅れて気がついた。
「それで、そのまま俺を受け入れて」
素直に頷くことも、受け取ることも出来なかった。
雪乃の中にある朔に対する印象は、昔から持っている羊だったはずなのに、目の前にいる彼からは獲物を前にしたオオカミのような印象を受ける。
簡単に答えてはいけない。
雪乃の中にある危険を感知する部分が、警告を発している。
朔が口にした「受け入れて」という言葉の中には、カードキーと想いの他に、性的な意味も含まれているニュアンスだった。
どうするべきか分からないでいると、ふっと表情を和らげた朔はカードキーを机の端に寄せた。
「……考えておいて」
猶予期間を与えられ、また食事を再開させながら頭の片隅ではさっきの言葉が何度も再生されている。
卓馬に提案された時には即決できたのに、朔相手だと難しい。
卓馬に家族愛以外の感情を一度も抱いたことが無かったが、朔には違う。
初恋の相手だ。
今も昔も、朔以上に好きになれる相手はいなかった。
そう話すと、香穂は「小鳥の刷り込みみたい。男はあいつ一人じゃないんだから、もっと合う相手がいるかもよ?」なんて言われたものだ。
その時は、子供の頃の天使面に騙されて好きだと思い込んでいたのかもしれないと結論づけたが、大学に行っても作家になった後も好きだと少しでも思える相手に会うことは出来なかった。
もう二度と会うことはないだろうと思っていた相手に会うと、こんな気持ちになるとは──。
今はどう見ても天使じゃない。
ふわふわの巻き毛は漆黒の髪に変わり、まっすぐに見つめてくる瞳は青から灰色に変わっている。
「ところで、あんたって天使みたいな栗色の巻き毛で、青い瞳じゃなかった? 初めて会った時、お母さんに天使がいるって言ったのを覚えてるんだけど?」
「よく覚えてるね。でも、あれは母親が俺にカツラを被せて、カラーコンタクトをつけさせられていただけの偽物だよ。目が灰色でイジメられるから、似合うように装いなさいってさ。でも、コンタクトをつけたのは、その一回だけだよ」
次々と料理を平らげていく中で、なんでもないことのように呟いた。
「でも、それって小さい頃の話でしょ? 中学も高校もそのままだったのはなんで?」
「うーん、馴染みすぎてカミングアウトの機会を失ったから、そのままになったんだよ」
「モテたかったからじゃなく?」
そう言ってやれば、朔はゴホッとむせて烏龍茶で飲み下した。
「そんなわけないじゃん!? 俺が好意をもたれたいのはヒナにだけなんだから。まったく、ヒナは酷いよね」
そんな会話をその後も続け、リラックスした食事タイムとなった。
外での食事では、周りの視線や声で落ち着かずこうはいかなかっただろう。
余ったものにラップをかけ、洗い物を重ねて卓馬の家のシンクに運んでいると、朔が持ちきれなかった食器を運んできてくれる。
「ご馳走様でした。すごく美味しかったよ」
「それならよかっ……」
言葉にこもる思いは本物で、喜んでくれたことが嬉しくて朔の方を向くと、頬と言うには唇の端に近すぎる場所に彼の唇が軽く辺り、驚く間もなく今度は反対の唇の端にも押し付けられた。
「な、な、なんで」
朔の顔が離れていき、どうにか雪乃が声を絞り出すと、彼は首を傾げた。
「え? 挨拶だよ。ヒナも留学してたんだから、したことあるでしょ?」
「あるわけないでしょ! 私が留学してたのはアメリカだから!」
わなわなと震える手の甲で口元を隠して猛抗議すれば、平然とした顔で軽く自身の唇を舐めた。
「それに、ヨーロッパのキスの挨拶って、エアーキスで実際は触れないんじゃないの?」
アメリカの大学に留学していた時に、ヨーロッパの友人もいたがリップ音なだけで唇が当たったことはなかった。
「そりゃ、赤の他人やなんとも思ってない相手にはしないよ。でも、ヒナだからね」
ゾクリッとするほど、熱のこもった目で見られて体の深くが脈打つ。朔が一歩進めば、それに合わせて雪乃も下がるがキッチンに逃げ場はない。
すぐに作業台に腰がぶつかり、前屈みになった朔が囲い込むように手をついて体を寄せてくる。
「ねえ、さっきの話だけどさ。ヒナは昔の俺の方が好き?」
「はあ?」
「ヒナが好きなら、髪を染めたってパーマをしたっていいよ」
「な、何を馬鹿なこと言ってんの。そのままのあんたでいいに決まってんでしょ!」
期待に答えなければ見てもらえない、相手にされないと思っているような不安そうな顔に、雪乃は両手で朔の頬を包み込んだ。
髪の色が違おうが、瞳の色が違おうが、朔は朔である。
「んー、やっぱりヒナはいいな」
「ひゃっ!」
囲いのようにされていた手が離れていったのはよかったが、代わりに頬を包んでいた手を取られて、手の平にキスされた。
柔らかな唇の感触と初めての体験に、顔に熱が集まっていく。
「こうされるの気持ち悪い?」
唇から離されたと思えば、ぎゅっと手を握りこまれた。
聞かれて今更ながら思い出したが、こんなに逃げ場のない状況で手を掴まれているというのに、嫌な気分にならない。
「ううん、平気。ただ、緊張する」
心臓はこれまで止まっていたんじゃないかってくらい、激しく鼓動を刻んでいて耳の中で聞こえてくる気がしてくる。
苦しいような、切ないような、不思議な感覚に、これまで書いてきたヒロインたちが思い浮かんだ。
人の話や雑誌の特集なんかを参考にして書いてきたが、実際の体験をするのでは全く違うことに気がついた。
「なら、許して」
言葉の意味を理解するよりはやく、朔はぐっと顔を近づけてくる。
一転歩遅く、雪乃は自分の唇に手の平に感じたのと同じ感触が押し付けられていることに気がついた。
驚いて息を吸うために薄く口を開けば、その隙を逃すまいとするかのように腰に腕を回して引き寄せると、唇を深く合わせて開いた隙間から舌を滑り込ませた。
熱い舌が逃げる雪乃の舌を追いかけて絡ませ、どちらのものか分からない唾液が唇を濡らす。
キスすら初めてなのに、ディープキスをされて、雪乃の膝から力が抜けた。
「おっと……大丈夫?」
ずるずると床に座り込むと、しゃがみ込んだ朔が覗きこんできた。その顔に悪びれた様子はない。
それどころか、数秒前までディープキスをしていたようには見えない。
羞恥心と動揺で涙ぐむ彼女とは違い、慣れた様子で手を伸ばしてきた朔は雪乃の唇の端を指で拭った。
「だい……大丈夫なわけ……ないでしょ」
最後の方には言葉が小さくなっていく。自然と唇に視線がいってしまい、自分の唇を手の甲で押さえた。
「ごめんね。あまりにも嬉しくて、我慢できなかった」
「こ、こ、こういうことは……恋人同士がするものであって……」
「うん。だから、俺はヒナとそういう関係になりたいってこと。ヒナのすべてが欲しいんだよ。覚えておいて」
邪気のない笑顔を浮かべた彼は、ポケットから取り出したカードキーを雪乃に握らせると、すくっと立ち上がった。
「じゃあ、いろいろとご馳走さま。明日は、一緒に朝食を食べよう? 走りに行った時にパンとか買ってくるから、七時くらいにそのカードキーで部屋に入っててよ」
『誰が行くか』
そう言いたかったのに、言葉が出てこなかった。
ただただ、後ろ姿を見ていることしかできない。
羊がオオカミに。
天使が堕天使になって帰ってきた。
昔とは違う面に、雪乃の心と頭は処理しきれない情報に爆発寸前にまで追い込まれていた。
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