第7話 過ぎ去りし年月

「はー、最高だった」


 足を休めるために入ったカフェで、カフェモカを一口飲んだ雪乃は、感嘆のため息を漏らした。

 都内で一番の書籍量を誇る書店は、まさに彼女の心を癒してくれた。

 すでに七冊の本を買った。中には辞書のような厚さのものもあり、朔の存在はありがたい。


「目当ての本があって良かったね」


「うん、ありがとう。明日から仕事なのに、このあと空港にまで付き合ってもらって大丈夫?」


 自分は運転しないが、いろいろと気を使って大変だろうことは分かる。

 ましてや、本屋にも二時間以上付き合わせているのだから、悪い気がしてきた。


「大丈夫だよ。運転は好きだし、何よりヒナと一緒にいられて嬉しい」


「なっ!」


 さらりと言われて、言われなれていない雪乃は俯いた。

 すると、彼女の耳に店内にいる女性たちの声が聞こえてきた。


「ちょっ、あの人かっこよくない? スタイルもいいし、センスもいい」


「ほんとだ。しかも、お金持ちっぽそう」


 あの声量で、こそこそ話している気になっているのだろうか?

 それとも、女性というのは注目して欲しかったり、気づいて欲しいから聞こえるような声で話すのだろうか。

 静かにコーヒーを口に運ぶ朔を、こっそり盗み見た。

 確かに、見栄えのいい男だとは雪乃も思う。ただ、昔の印象と違いすぎて、彼女の中では戸惑いが大きい。

 始めて出会った時の朔は、細くて背も小さかった。人見知りで、いつだって雪乃の後ろに隠れているような男の子だった。

 変わったのは、高校三年になってから。

 年々、背が伸び、外国の血が混じった外見に磨きがかかりはじめ、朔は女子生徒の視線を集めるようになっていた。

 それと平行するように、雪乃は女子に呼び出され「あんたは朔くんに似合わない」だとか「近づくな」なんていうことを言われるようになった。

 陰口なんて気にしなかったが、それが本格的に暴力に近いものになった時、雪乃はさすがに距離を置くようにした。

 だから、進学する大学も知らなかったし、次第に朔の周りには別の友人が増えていき、だれだれと付き合っているだとか、セックスが上手いだとかいう噂が目立つようになった。

 幼い頃からの恋心は、不特定多数と関係を持っているいるという事実に軽蔑した。

 そんなことを雪乃が考えていると、悪意のこもった声が聞こえてきた。


「向かいにいるのって、彼女?」


「まさか! あんなダサいブスが彼女のはずないでしょ。相手にするはずないわよ」


 小さな声で繰り広げられる中傷を含む会話に、頬がカッと熱くなる。ここから早く出たい。

 普段、カフェになんて立ち寄らないのに、朔に誘われるがまま来たのが間違いだった。

 早く飲み終えて、ここから逃げなくちゃと無理矢理カフェモカを喉に流し込んでいると、ガタッと椅子が鳴った。


「自分の何が偉いと思ってんのか知らないけど、人を値踏みして馬鹿にしたりしてる暇があったら、中身を磨きなよ。それに、せっかく休憩してるのに、香水が臭くてかなわない。人の迷惑考えたら?」


 淡々っと彼女達を見下ろし言い放つ朔に驚いていると、彼は雪乃の手を引いて立たせた。


「不愉快だから店を変えよう」


「あっ、うん」


 引っ張られるまま立ち上がり、朔の長い足に追いつくように速足でついていく。

 全身から不機嫌さを発する様子に、声がかけられない。

 ようやく歩みを緩めてくれたのは、エレベーターについてからだった。

 ここまで無理に速足で歩いたせいで、エレベーターを待っている間、雪乃は息を乱していた。


「あ、ごめん……ヒナ」


「だ、だいじょう……ぶ。ただの運動不足だから」


「でも、ごめん」


 今気づいたといわんばかりに、朔は雪乃の手首から手を離した。


「ううん、むしろありがとう。あの場から連れ出してくれて」


 何度か深呼吸を続けると、ようやく呼吸が落ち着いてきた。あのまま、飲み終えるまでいたら、もっと酷い動悸に襲われて、空港に行くなんて出来ないほど精神的に消耗していただろう。

 

「お礼なんて言わないでくれよ。ここに誘ったのは俺だ。こんな所に寄らなければ、ヒナに嫌な思いをさせなかった。テイクアウトすることだって出来たんだから」


 いまだ開かないエレベーターの扉を睨みつけながら、朔は顎を強張らせながら呟いた。

 雪乃が知っている朔は、男らしいという言葉とは無縁だった。

 いつだって背に隠れ、言い返すことも、喧嘩を売るみたいな行為もしない。

 寧ろ、昔なら何か言われて食ってかかるのは、雪乃の方だ。

 十年という月日は、二人を全く違うものへと変えたらしい。


「さあ、エレベーターが来たよ」


 誰も乗っていないエレベーターにほっとしながら乗り込んだが、扉が閉まりそうなところでまた開いて、カップルやベビーカーを押す母親、遅い昼食を取りにきたサラリーマンたちが入ってきて一気に込み合ってきた。

 自然と雪乃はエレベーターの奥へと引っ込み俯いた。

 動悸が激しくなり、嫌な汗が額に浮かんでくると、目の前に背中を向けた朔が立った。

 程よいスペースを残し、楽に立っていられる。

 記憶にあるのとは違う高い背と広い背中に守られ、激しい鼓動は治まりはじめたが代わりにほっとして、涙が頬を流れた。

 思わず朔の背中に額を触れさせると、僅かに強張たが、すぐに力が抜けて無言の優しさが伝わってくる。

 エレベーターが止まるたびに、少しづつ人が降りていき、呼吸がしやすくなってきた。

 朔の車が停まっている地下に近づく頃には、エレベーターの中には朔と雪乃の二人だけ。

 彼の背中が離れて行くのに合わせて顔を上げると、反対側の壁に背中をつけた朔が雪乃を見つめてくる。

 姿は変わっても、その目の強さだけは変わらない。

 昔からこの目が好きだった。

 澄んでいて、真っ直ぐで、強い意思を秘めた瞳。

 二人の関係は、案外あっさりと修復出来るんじゃないかと思いそうになった時、エレベーターは地下駐車場に辿り着いたのを告げた。

 はっとして、小さく咳ばらいをしてから開いた扉から外に出た。


「ヒナ……まだ時間もあることだし、昼でも食べに行く?」


「そうね。お腹は少し空いてきたかも」


 けれど、さっきの後では朔と店に入るのが良い考えだとは思えなくて、雪乃は返事に困ってしまった。

 ランチ時で混み合っているレストランに入れば、自ずと朔は女性の視線を集めるだろう。そうすれば、自然と雪乃も値踏みされる。

 楽しい食事になるとは思えず、断ろうと口を開こうとしたら、彼が先に口を開いた。

 

「レストランは、俺に任せてもらってもいいかな?」


「えっ?」


「大丈夫だよ。落ち着ける場所だから」


 そう言われては断ることも出来ず、雪乃は小さく頷いた。

 ほっと笑みを零した朔は、雪乃を助手席に座らせ、弾む足取りで車の前を回って運転席に乗り込むと、上機嫌でエンジンをかけた。

 滑らかに車を走らせ、地下駐車場から地上に出る。

 改めて視線を向ければ、正面を見据え運転に集中している横顔が目に入った。

 マイペースで、運動音痴で、怖がりだった姿はどこにもない。

 今まで、思い返したことがないとは言わないが、雪乃の中の朔はいつまでも後ろをついて歩く大人しい男のままだった。

 卓馬を見ていれば分かるが、男性の成長というものは幼い少年を頼もしい大人の男へと変える。

 それでも、朔がこんな男に成長するとは一度も考えたことはなかった。

 運転免許を取ることも、主導権を握ることも──。


「どうしたの、ヒナ。俺と二人は不安?」


「ううん、違う。ただ、外車に乗る印象がなかったから不思議で」


「なら、俺は何に乗りそうな印象?」


「うーん……軽自動車とか?」


「ふはっ! 俺ってそんなイメージなんだ」


「笑わなくてもいいでしょ。じゃあ、どうしてこの車にしたの?」


「ヒナのためだよ」


 そんな答えがかえってくるとは思っていなかった雪乃は、言葉を失った。

 じっと見つめていると、赤信号で車を停めた朔が顔を向けてきた。

 

「前は、速さが自慢のスポーツカーに乗ってたよ。けど、日本に帰国が決まって、その車は友人に譲った。代わりに大切なヒナを乗せても安全な車……っていう思いで選んだんだよ」


「な、なんで?」


「なんで? なんて言わないでくれ。俺はずっと、この日のために毎日を送っていたんだから」


 何と返すべきなのか分からずにいると、朔は前に視線を戻してしまい車がスムーズに動き出した。

 流れる景色をただぼんやりと眺め、この辛くはない沈黙の中で考える。

 きちんと別れの挨拶と、帰ってくるという約束があったら、関係は違っただろうかと──。

 雪乃は、はっとした。

 考え事を中断させる着信音が、鞄の中で鳴っていた。

 着信音で電話だということが分かって朔に目を向けると「出たら?」という短い了承が出たため、雪乃は通話ボタンを押した。

 

「もしもし、和人くん? どうしたの?」


「あ、雪乃さん。お休みの期間にすみません。次回作の資料は見つかりましたか?」


 電話の相手は二歳年下の──相馬和人。

 雪乃の担当の一人で、いつも気にかけてくれる料理男子だ。そんな彼は、時々こんな風に用がある振りをして生存確認の電話を寄越す。卓馬と似た感じがすることから、雪乃もあまり緊張することなく付き合える貴重な存在である。


「大丈夫だよ。今日も書店でいくつか見つかったし」


「そうですか。ならよかったです。ところで、食事はきちんと摂っていますか?」


「執筆期間中とは違って、三食ちゃんと食べてますよ」


「そう言いますけど、雪乃さんのちゃんとは当てにならないんですよ。カップ麺ばかりじゃなく、ちゃんとした料理を食べてくださいよ?」


「はいはい、わかりました。でも、そのうち和人くんの手料理が食べたくなるかも」


「その時は電話でもメールでもいいので、連絡下さい。雪乃さんのためならいくらでも作りますから」


 軽い挨拶を終えて電話を切ると、隣から小さなため息が聞こえてきた。

 

「和人って誰?」

 

 険しい顔で吐き捨てるように言った朔は、ウインカーを出すと細い道へと入っていく。

 彼の放つ雰囲気が気になるものの、雪乃の興味は車の入っていった道に注がれていた。


「あれっ! ここって」


 車は思った通りの場所へと入っていく。


「昼食って、ここで食べるの?」


「そうだよ。ヒナ、好きでしょ?」


 朔が連れて来てくれたのは、ハーブショップ〈アロマティカ〉だった。

 このハーブショップは、ハーブティーやオイル、ポプリを売る工房と、種類豊富なハーブ園がある。

 なにより有名なのは、自家製ハーブを使った料理を出すレストラン〈スイートフェンネル〉と、そのシェフがクールなイケメンだということだ。

 雑誌にも取り上げられていて、味も確かな店である。

 駐車場に車が停まると、さっさと降りた雪乃は大きく深呼吸をした。


「はー、やっぱりここは良いわ」


 土と花、木々に囲まれたこの場所は、都会でありながらまるで自然豊かな避暑地に来たような気分にさせてくれる。

 レストランの方からは焼きたてのパンの香りが漂って来るし、ハーブガーデンからは摘まれたばかりのバジルの匂いがしてきた。どちらも食欲を刺激する匂いだ。


「雪乃ちゃん?」


 躊躇いがちに声をかけられ、その方向に顔を向ければ一人の長身の女性が立っていた。


「秋葉さん!」


 工房から出て来たのは、ハーブガーデンと工房を管理する#水戸秋葉__みとあきは__#である。

 雪乃の趣味はハーブを育てることや、ハーブティーを飲むことで、秘密のコテージの周りに植えるハーブや使用方法なんかの相談役でたびたびお世話になり仲良くなった。

 執筆中は訪れることができず、かれこれ四ヶ月ぶりである。

 その間にハーブガーデンは華やかになっていた。


「お久しぶりです、秋葉さん」


「お仕事、一段落ついたのね? 会えて嬉しいわ」


 柔らかい微笑みと、彼女の持つ温かな雰囲気に、雪乃の心も穏やかになっていく。


「あら? 彼は、初めてよね?」


「はい。小、中、高と同級生なんです」


 そう言って後ろを振り返れば、静かに佇んでいた朔は雪乃の隣に並んで軽く頭を下げた。


「ようこそ。わたしは、ここのオーナーの水戸秋葉です。雪乃ちゃんとは仲良くさせてもらってます」


「はじめまして、大上朔です」


 いつもの雪乃に向ける笑顔はどこにもなく、胡散臭そうな笑顔で秋葉の差し出した手を握り返す朔に違和感を覚えていると、後ろから咳ばらいが聞こえてきた。

 全員がそろってそちらの方向を向くと、背の高い一人の男が立っていた。

 少し長めの黒髪を後ろで結び、誰がどう見てもシェフだと分かる服に身を包んでいる。


「あっ! 西條さん」


「よお、アサヒ。今日の予約客ってお前か?」


 レストラン〈スイートフェンネル〉のシェフである#西條隼人__さいじょうはやと__#もまた、秋葉と同じように雪乃と親しくしてくれている人の一人だ。

 定休日ではない時に隼人と喋っていると、彼のファンである女性達に突き刺さるような視線を向けられるため、大抵は閉店後に秋葉の工房で一緒にお茶する程度のものだが、時には秘密のコテージに寄ってくれたりする。

 もちろん、その時は秋葉も一緒だ。

 隼人は卓馬とも親しく、時々卓馬のホテルの食事の相談にのったりしている。

 彼もまた、朔と同じように誰も呼ばない呼び名で呼ぶ。

 

「そうなの?」


 朔が予約したのかと様子を伺った雪乃だったが、当の本人は隼人を見据えていてこちらを見ない。


「ああ、俺だよ。予約をしたのはね」


「へー、卓馬以外と来るなんて珍しいな。まあいい、ちょうど開けるところだったんだ」


 朔に値踏みするような視線を向けた隼人は、レストランの看板を「OPEN」に変えに行った。


「さあ、どうぞ」


「ゆっくりしていってね」

 

 先に歩き出した隼人に促され、笑顔の秋葉に見送られながらレストランの中に入ると、まだ誰もいない店内は静まり返っていて広く感じる。

 隼人が案内してくれた席は、広大なハーブガーデンを見渡せる窓際の席。

 朔が動くよりはやく、隼人が引いてくれた椅子に腰掛けると、自分で引いて座った朔の顔には見覚えのある表情が浮かんでいた。

 まだ三人で仲良く遊んでいた頃、卓馬に対して向けていた。

 

「注文は事前に受けているから、すぐに用意を始めるよ」


 そう言って厨房へと隼人が姿を消すと、朔はにっこりと微笑んだ。


「ねえ、ヒナ。さっきの質問に答えてもらってないんだけど」


「質問? もしかして和人君のこと?」


 名前を口にした途端、朔の微笑みが冷たいものに変わった。

 すでに口元は笑っていても、目が笑っていない。

 

「そう……その和人って、一体誰なわけ?」


「か……和人くんは、私の担当の一人よ」


「仕事の相手にしては、ずいぶんと親しげだったけど?」


 刺々しい言い方に、雪乃はむっとした。


「悪い? 彼は世話焼きだから、自然と懐にはいってくるのよ」


「卓馬といい、さっきのシェフといい、その和人って男といい……簡単に気を許し過ぎじゃないの?」


 目の前で、誰もがカッコイイというであろう男の目が細まる。

 こんな表情もするのかと、再会してから雪乃は初めて見る朔に興味津々だ。


「ねえ、何が可笑しいの?」


「いやー、朔が嫉妬でもしてるのかと思って」


 表情と男の名前を口にするときの刺々しさ。

 どこをとっても、嫉妬以外にありえない。

 

「それのどこが可笑しいのさ。俺はいつだって、ヒナの隣に卓馬がいるのでさえ気に入らないのに」


「なんで? 朔にとっても親友でしょ?」


「親友? 違うよ。卓馬はいつだって俺のライバルであって、親友じゃない」


 意外な答えに、雪乃はぽかんとしてしまった。

 離れていた期間を除いて、一緒にいる期間は、二人がなくてはならない親友同士だと思っていた。

 三人はつねに一緒で、卓馬と朔は学年一位と二位を争い、切磋琢磨するのに不可欠な存在。

 雪乃は、そんな二人を見るのが好きだった。

 なのに、朔は違うと言う。

 昔を思い出していると、目の前にサラダが置かれた。


「大丈夫か、アサヒ」


 はっとして顔を上げると、隼人が心配そうな顔で覗き込んでくる。

 痛いほどの視線に正面をちらりと見ると、ぎゅっと眉間にシワを寄せて窓へと顔を背ける朔の姿が目に入った。


「なんでもないです。今回のメニューは何かなって考えていただけです」


「そうか……それならいいけどよ」


 少なからず納得がいっていない様子ながらも、隼人は次の料理を運ぶためにテーブルを離れて行った。

 雪乃は木製のカトラリーケースから二人分のフォークを出して彼に一つを差し出した。


「ほら……いつまでも拗ねてるつもり? そんな態度でいられると、せっかくの食事がまずくなるんだけど」


 隼人が作る大好きな料理を、嫌な気分で食べたくない。

 そう口にすると、朔は弾かれたように窓から視線を離し、雪乃に顔を向けるとばつが悪そうな顔でフォークを受け取った。


「ごめん。そんなつもりじゃないんだ」


 小さく零された謝罪を素直に受け入れ、雪乃はサラダを口に運ぶ。

 レタスもベビーリーフもシャキッとしていてみずみずしい。

 どちらも隼人自身が水耕栽培で育てているもので、この後出てくるケーキの飾りに使われているポリジもハーブガーデンで育てられたものだ。

 ぱくぱくと口に運んでいると、居心地が悪くなるほど視線を感じて顔を上げた。


「ねえ、食べにくいんだけど。言いたいことがあるなら言ったら?」


 どうしてこう可愛いげのない言い方しかできないのだろうかと、いつも思うがどうにも治らない。もちろん、赤の他人相手にはここまでではないが、相手にはきつく聞こえるらしく、昔からあまり好かれたことはなかった。


「ああ、ごめん。いや……珍しいなと思って」


「珍しい?」


 朔が気にしていないことにほっとしつつ首を傾げると、彼はスマートフォンを掲げてみせた。


「女の子って、インスタ映えとかいって、華やかな料理を前にすると、食事そっちのけで写真を撮りはじめるじゃん。ヒナはしないの?」


「ソーシャルネットワーク系はやりません」


「やらないの?」


「やらない。載せてどうする訳? 紹介? 自慢? リア充アピール? そんなことどうでもいいし」


 雪乃にとってスマートフォンは連絡のツールでしかない。

 今はサイバー犯罪だの、詐欺だの危険が多過ぎる。

 好き好んで危険に自らを晒すような真似を、雪乃はしたいとは思わないし、流行に乗らないからといって困ることも死ぬこともない。


「自分の好きな場所を載せて、興味を持たれてこれ以上混む店になられたら困るし」


「そりゃどうも」


 話聞いていたのか、コーンスープとローズマリーのフォッカッチャを置いた隼人は、やれやれと首を振った。

 

「たいして混んでないだろ?」


「今日は私たちが一番乗りなだけで、このあと混んでくるでしょうが」


「まあな」


 厨房に戻っていく隼人に、雪乃は焼きたてのフォッカッチャの皿を引き寄せ、パン切りナイフで切り分けた。

 すぐに戻ってきた隼人は、テーブルにディルを乗せたカルパッチョと塩レモンバジルチキンを置くと「ごゆっくりお召しあがりください」と言って離れていった。

 あつあつのフォッカッチャとスープは、まさに雪乃の好きなメニューで、どんどん進んでしまう。


「ねえ、この間のフレンチやらイタリアンといい、さっきのインスタ映えの話といい。誰と比べてるの? これまで付き合った人?」


 そう口にしてみて、朔が他の女性と一緒にいるという考え方に、胸の辺りがチクリッと痛んだ。

 朔に嫉妬しているのかと笑ったが、雪乃も嫉妬しているのかもしれない。


「別に誰かと比べた訳じゃないよ。知り合いに聞いただけ……でも、だからといってこれまで誰とも付き合ったことがない訳じゃない」


「へ……へぇ、そうなんだ」


 このビジュアルなのだから、女性経験がゼロだとは思っていなかったが、本人の口から聞くと少しショックのようなものを感じた。

 けれど、ずっと想っていたような口振りとしているのに、そんな経験をしているのは不誠実ではないかと雪乃には思えてしまう。


「俺はヒナには嘘も隠し事もしないよ」


「人間……経験が大事だもんね」


「経験が大事ねぇ……じゃあ、ヒナも経験済みってことかな? あんなエッチな小説を書いてるんだから」


 ギクリとした。

 たしかに雪乃の小説には、細かなセックスシーンがある。

 周りからは、経験豊富だと思われがちだが、本当の雪乃は──ヴァージンだ。

 知識は本や映画から得て、想像から作りあげたもの。

 逆に本当の体験を知らない分、甘くてよりエロティックに書ける。

 けれど、それをわざわざ白状する気はない。


「だとしたら、どうだって言うの?」


「……渡英を押し付けてきた親父をぶん殴りに行きたいね」


 そう口にした朔の微笑んだ顔は、美しく、そして危険なほど冷たいものだった。

 張り詰めた空気の中、スマートフォンのバイブ音が嫌に大きく聞こえた。

 でも正直、今の雪乃には邪魔をしてくれてありがとうと言いたい。

 鞄からスマートフォンを取り出し画面を見ると、香穂からメールが入っていた。


「どうした?」


「香穂からメールがきたみたいで……えっ!」


 メールを開いた雪乃は、無意識に大きな声を出していた。


「彼女は何て?」


「……子供が熱出したって旦那さんから連絡があったみたいで、早めの便に変更してもらえたからもう乗るところだって」


「それじゃあ、間に合うわけないな」


「それについては、メールで謝ってる。だから、気にしないでって返しとくね」


「仕方ないさ、離れた地にいて、子供が熱出したって連絡がきて気にしない親はいないだろ」


「う、うん。そうだよね」


 食事に戻った朔から目を反らし、スマートフォンの画面に目を戻し、彼に気付かれないようにため息を吐いた。

 香穂からのメールの文章の中身は、早めの帰国と謝罪だけではなかった。


【連絡遅くなってごめん! エイデンからソフィアが熱出したって連絡きたから、早めの便に変えて帰るね。せっかく見送りにきてくれようとしたのにホントごめん。腹立つけど、朔にも言っておいて。あと、こんなこと言うことになるとは思わなかったけど、朔と少し話して距離を縮めることを雪乃も考えてみたら? 彼の気持ちは本気みたいだし】


『香穂さん……まさに今、距離を縮めてる最中ですよ。それに、なんで卓馬と同じこと言うかな』


 心の中で呟きながら、その部分に触れないようなメールを返してスマートフォンを鞄にしまい、雪乃も食事を再開したが、正面に座り静かに綺麗な所作で食事を進める朔が気になって、上手く食事が飲み込めない。

 胸の奥底では、忘れられずにいた初恋が疼き出していた。


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