第6話 過去に立ち向かう時
徐々に窓の外が白むのを、ベッドに横になりながら眺めていた。
一睡も出来なかった。
頭の中は、朔が言っていた「手紙」のことで一杯だ。
けれど、どんなに思いだそうとしても、郵便物の中でも目立つであろう海外からのエアメールを見た記憶がない。
雪乃は頭の横に置いていたスマートフォンに視線だけを向けた。昨夜の内に、母親に朔からの手紙について問うメールを送ったのに、未だに返信は来ていない。
もともと小まめにメールをチェックするタイプではない母なのだから仕方がないと思うのだが、今回は答えを知りたくて気持ちが急いてしまう。
ごろごろしていても、一行に眠気は襲ってこないと判断した雪乃は、ベッドから出てクローゼットに近づいた。
今日にも両親は帰ってくるし、実家に戻るのだから使った寝具を洗って軽く掃除をしてしまおう。
楽な服装に着替え、ベッドカバーと枕カバー、毛布を回収してランドリールームで洗濯機に突っ込んだ。
洗濯機を回している間に掃除機をかければちょうどいいと廊下に出ると──。
「わっ!」
危うくロボット掃除機に躓くところだった。
思えば、数週間前にショッピングモールの抽選会でロボット掃除機が当たったとメールが来ていたのを思い出す。さらにそんなロボット掃除機に「ジェイソン」と名付けたとも。
全くもってネーミングセンスが悪い。
その行き先を目で追っていると、開けたままにしている雪乃の部屋にも入って行った。
器用に椅子や棚を避けていく様子は、なんだか可愛い。
ちょこまかと動く様子を眺めていると、唐突にスマートフォンから音楽が流れ始めた。
足元を動き回る「ジェイソン」を避けながらベッドに近づき、スマートフォンを手に取った。音で電話であることは分かっていたが、表示されていたのは卓馬の名前で、期待していた相手ではない。
「もしもし?」
「おはよう、雪。もしかして、起こしちまったか?」
けっこう早めの時間だというのに、卓馬の声に寝起きの影はない。夜のバーで働いているくせして、朝型人間でもやっていけるようだ。
「ううん、起きてた」
「そうか、ならよかった。昨日はちゃんと食べたのか?」
「食べたよ。朔と」
「ならいい」
何がいいのか、雪乃にはさっぱり分からなかったが、部屋の掃除を終えて出て行く「ジェイソン」に合わせて、リビングへと移動した。
一つ仕事が減ったことだし、早めの朝食を摂ろうと冷蔵庫を開けると、すかさず卓馬に釘を刺された。
「朝食の材料は昨日ので最後だ。食べるなら、朔と一緒にカフェに行ってこいよ」
「ちょっとそれは」
気まずい。その言葉に尽きる。
昨夜の様子から見て、何もなかったかのように顔を突き合わせて食事が出来るわけがない。
そんなメンタルの強さを、雪乃は持ち合わせていないのだから。
返事に困って適当にパントリーを漁るが、コンフレークもホットケーキミックスもない。
「一食抜いたくらいで、死にはしないと思う。最近は食べすぎている気がするし、ダイエットにもいいでしょ。夕食には親も帰ってくるから、一緒に外で食べれば」
「ダメだ。例えダイエット中だとしても、朝食を抜くのはオススメしない。それと言いにくいんだが……こっちは大雪で飛行機も飛んでない。お前の両親から連絡なかったか?」
「えっ! メールすらないけど!」
なんでそんな大事なことすら連絡しないのかと、苛立ちよりも呆れてしまう。
「多分、一日か二日は無理だろな。宿泊の手配は追加でしてあるから、心配しなくてもいい」
北海道旅行が夢だった両親が泊まっているのは、今卓馬が行っているホテルだ。なかなか予約が取れないのだが、彼に頼んで部屋を確保してもらった。
タイミング良く卓馬が居てくれて、甘えていると思われるかもしれないが、ほっとしている。
「いつもありがとう」
「気にするな。オレが好きでやってるんだ。それじゃあ、きちんと食事は摂るんだぞ? まぁ、そろそろ届くだろうからな」
「は? 何が」
可笑しそうな卓馬の笑い声と軽い別れの挨拶を交わすと、玄関のチャイムが鳴った。『届く』という言葉に嫌な予感を覚えながら、扉を開くと予感は的中した。
「おはよう、ヒナ。走ってたら卓馬から朝食がないって連絡があったから、途中のベーカリーに寄ったんだ」
手渡されたのは、マンションのすぐ近くにある通勤客のために平日は早朝から店を開けているベーカリーの紙袋だった。
重さと温かさから、出来立てのパンが入っているのが分かる。
朔の手にも同じものがあるが、彼は「それじゃあ」と言って、自宅の方へと足を向けてしまう。
その背中は、少し寂しそうに見えた。
「あの……朔っ」
気がつけば、雪乃は呼び止めていた。
「あのさ、よかったら一緒に食べない?」
雪乃の発言がよほど意外だったのか、ランニングウェアに身を包み、まさに日課ですというように腕にスマートフォンを装着した朔は驚いた顔をしている。
「あと、ありがと……買ってきてくれて」
自分でも思いがけない行動に戸惑いながら俯くと、朔の分の紙袋が渡された。
「走って汗かいてるから、さっとシャワーを浴びてきてもいいかな?」
「う、うん。玄関の鍵は開けておくから、勝手に入ってきて」
雪乃が受け取ると、気のせいかもしれないが頬を上気させて朔は部屋に戻って行った。
その背中を見送り、二つの紙袋を手にリビングに戻りテーブルに置いた後、両手に顔を埋めていた。
自分はどうしてしまったのか──。
考えても仕方がないことに頭を悩ませるのは、自分らしくない。
気を取り直して、準備をしよう。
男性のシャワー時間の平均は知らないが、卓馬を参考にするともうそろそろ来るかもしれない。
雪乃は食器棚から二枚の皿とマグカップを二つ取り出して、トングを使って皿の上に並べはじめた。
朔の紙袋には惣菜パンが入っていて、雪乃の紙袋にはクロワッサンやごまパンが入っている。
卓馬に聞いたのかは分からないが、まさに雪乃の好みど真ん中だ。
鼻歌を歌いたくなるほど上機嫌な雪乃は、好みのコーヒーが飲めるコーヒーマシーンにポーションをセットすると、カップをセットしてボタンを押した。
出来上がったコーヒーがカップに注がれるのを見ながら、朔は何を飲むだろうかと思いを馳せる。
かつては苦いから飲めないと、ココアばかりを飲んでいた彼だが、もういい大人だ。好みが変わっている可能性もある。
ココアのポーションを手にはしていたが、勝手に用意しないで聞いてからにしようと一つずつ持っていると、玄関の扉が開く音がした。
「ごめん、お待たせ」
その言葉に顔をあげると、まだしっとりと髪を濡らしたままの朔が入ってきた。
いつも卓馬といる空間に、もはや知らない人レベルの朔がいる違和感がすごい。そもそも、恋人でもない異性と二人きりというのはどうなんだろうと、今更ながら考えている雪乃の前で足を止めた朔は、彼女が持っている物を目にして柔らかく微笑んだ。
「覚えていてくれたんだ」
「えっ?」
「ココア。俺が好きだったの」
「あ……でも、今は違うなら他にも何種類かっ」
他のポーションを出そうと朔に背中を向けると、首元に昔とは比べものにならないほど筋肉のついた腕が回された。背中の温もりで、自分は後ろか抱きしめられているのだと猛烈に意識する。
動きを制限するうえ、雪乃の嫌う逃げられない状況だというのに、嫌悪感も緊張感も感じない。
ただ、ひたすら胸の鼓動がうるさいだけだ。
「ごめん。触られるのが嫌なのは分かってるけど、嬉しくて……」
「う、嬉しい?」
腕から解放され、振り返ると朔は片手で顔を覆っていた。ほんのりと頬が赤い。
「あんな昔のことを覚えていてくれたから」
「そりゃ、そのくらい覚えているでしょ。今も好きかどうかは知らないけど」
「好きだよ。会社では、さすがにコーヒーを飲むけど、ブラックじゃないよ」
治まる様子のない暴れる鼓動を気付かれないように、コーヒーメーカーにココアのポーションをセットしてボタンを押した。ココアが作られ、カップに注ぎ入れられる音で、少しだけ冷静な心を取り戻す。
カップとパンを乗せた皿を手渡し、自分の分を手にテレビの前のソファーに移動すると、朔はカウンターを選んだ。
「今日……会社は?」
雪乃は作家であり、今は次の長編の参考にする資料集め中で、三週間の充電期間を満喫しているところである。
けれど、朔は帰国したばかりというくらいだから、何か仕事のために日本にいるのだろう。
「休みだよ。明日から行くんだ。そういうヒナの今日の予定は?」
「夕方、香穂の見送りに空港に行くから、午前中は大型の書店に行こうかと思ってる」
「なら、車を出すよ」
まだ一緒の時間を過ごさないといけないのかと思って、雪乃は顔をしかめた。
「いいよ……悪いから」
「平気だよ。もしも本を買ったら重いんじゃない? 空港も、行くと疲れるでしょ?」
雪乃は、ぐっと黙るしかなかった。普段は卓馬が車を出してくれるから、気に入った本を全て買うことができた。
けれど、一人で公共の交通機関を使う時は、選んで少量しか買えなくなる。
それに、空港までの人混みを想像しただけで喉の辺りが苦しくなる気がした。
「……その通りです。よろしくお願いします」
「それじゃあ、食べ終わったら行こうか」
柔らかく笑う朔があまりにも眩しくて、雪乃はテレビに顔を向けてクロワッサンを頬張った。
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