第5話 知らない時間

 

 ジュウジュウと音を立てる鉄板を前に、正面に立つ朔を盗み見る。

 思い返すこと二時間前──雪乃は、朔の車で空港まで卓馬を送った後、何の疑問もなく出口に向かおうとした。

 その理由は、さっさとこの場から去るためだ。

 それなのに。


「どこ行くの?」

 

 問いかけられて縮み上がった。少し冷たい声での問いかけに、ぎくりとして一つの言葉しか思い浮かばない。

 

「ちょっとお手洗いに……」


「うん、行っておいで。俺はそっちで待ってるから」


 彼が指差したのは、トイレから距離のある時計台。

 

 雪乃は、心の中で「チャンス!」と叫んでいたが、顔には出さずに朔に頷いてみせた。平日とはいえ、かなりの人がいる中なら、気付かれることなく立ち去れそうだと思った。

 けど、思い出したように振り返った朔に、唾を飲み込んだ。


「コート……車にあるの忘れないでね」


 にっこりと微笑まれて、ぎくりとした。

 そして「しまった!」とも雪乃は思ったのだ。

 数十分前、『中は温かいだろうから、コートは車に置いておくといいよ』と朔に言われるがまま、コートを置いてきたのが間違いだった。

ただの上着としての役割だったなら、なんてことはない顔で忘れ物として取りに行けただろう。

 しかし、あれはただの上着ではない。

 帰ろうにも、スマートフォンも財布もコートのポケットだということに気がついて──。

 鞄を持つことを面倒がった自分を呪いたくなる。

 結果、逃げようとしていたなんて言えるはずもなく、さっさとトイレを済ませると朔の元に行って一緒に駐車場に戻ることになった。

 そうすれば、車に乗らないわけにもいかず、座ってシートベルトをつけると滑らかな動作で車は駐車場を後にした。

 走りはじめて数分後、上機嫌な朔の声が雪乃の耳に届いた。

 

「何食べたい? やっぱりヒナも、フレンチとかイタリアンがいいかな?」


 飛び出した提案に、雪乃はぎょっとした。あんな堅苦しくて、味の分からない店に連れてかれたら確実に精神が擦り減る。

 皿の上に少ししかない料理もムードのある店も願い下げだ。

 雪乃は進行方向に立ち並ぶ店に目を凝らした。

 とにかく人の並んでいない、ムードも何もないチェーン店を探した。

 そして──遠くに輝いて見える看板を見つけた。 


「あそこのグラム指定できるステーキ屋に行って」


 その選択に、一瞬だけ朔は困惑したように見えたけど文句は言わなかった。

 何より雪乃が気になったのは──『やっぱりヒナも』という言葉だ。一体、誰と比べているのだろうか。

 突然の別れから十年。これほどのルックスをした男が、誰とも付き合わずにいたと思うほど、雪乃も無知ではない。

 それでも、これまでどれくらいの女性と付き合ってきたのかと想像すると、心が鈍く痛んだ。

 ゆっくりと、ステーキを口に運びながら思い返していると、向かい側にいる朔と目が合った。


「ん? どうかした?」


「別になんでもない」

 

「嘘だね。そういう時のヒナは、本当は何か言いたいって思ってる」


 かちゃりと、フォークとナイフが立てる音が嫌に大きく聞こえる。

 胸の奥がひやりとして、喉が締め付けられた。


「知ったように言うのね。昔の私はそうだったかもしれないけど、今は変わったかもしれないわよ? 十年分の私のことを知りもしないくせに」


 雪乃は吐き捨てるように言うと、朔が手を止めてこちらを見ていた気がしたけど、無視して食事に集中した。

 立ち食いスタイルの食事は、あっという間に終わった。

 元気な店員の声に見送られ外に出ると、すでにどこかで飲んできたのか上機嫌なサラリーマンとすれ違う。

 鼻を掠めるアルコールとタバコの匂いに顔をしかめていると、後から出てきた朔が横に並んだ。

 これほど近い距離にいても、彼からはタバコや香水の匂いがしないことに気がついた。


「タバコ吸わないの?」


 自然とそんな質問が口から出ていた。


「吸わないよ。ついでに言うと、酒も付き合い程度でしか飲まないし、今のところ醜態をさらしたことも一度もないよ」


「ふーん、そうなんだ」


「ヒナは?」


 歩き出すとともに始まった質問に、雪乃は朔を横目で見た。


「嫌味? お酒はたまに飲むけど、をさらしたのは、あの日がはじめてです。見合いに連れてかれて、イライラしてたんだからしょうがないでしょ! ついでに言わせてもらえば、酔って次の日……ホテルで目覚めたのだって初めてだかんね」


 まくし立てるように言うと、ずんずんとコイン駐車場へと歩いた。

 腹の立つことに、大股で雪乃が歩いても彼は涼しい顔でついてくる。そんな彼を心の中で罵りながら、思い出してしまった男らしい上半身に頬が熱くなった。

 助手席側に立ち、鍵が開くのを待っている間、記憶を消したくて懸命に別のことを考えようとしていると、手首を掴まれて後ろに引かれた。

 突然のことに文句の一つでも言ってやろうとしたけど、振り返った先にあった冷たい表情に声すら奪われてしまった。


「見合い? ヒナ……結婚相手を探してるの?」


「えっと……」


 探してなんかいない。結婚願望なんてないし、伯母にセッティングされただけだ。


『何より、あんたには関係ないでしょ?』


 言ってやりたい言葉はたくさんあるのに、喉の辺りでつかえて出てこない。 

 じりじりと間を詰められ、一歩下がっただけで車のドアに背中がぶつかった。


「ねえ、答えてよ」


 不穏な光を目に浮かべながら、雪乃の顔の両側に手をついて逃げられないように退路を断たれた。

 ドアにつかれた手から腕へ、腕から肩へと視線で辿っていくと、すぐ近くに朔の顔があった。身長差はあるが、体勢的に前屈みになるから仕方がないのかもしれないが、目の前に綺麗だという表現がピッタリの顔があると戸惑わずにいられない。


「ちょ、離れてよ」


「いいから、答えてよ……ヒナ」


 迫力のある顔に迫られ、雪乃は焦ったように口を開いた。


「考えてない! 考えてないったら……結婚なんて!」


 一息に言うと、朔はほっと息を吐いた。あまりの近さに、吐息が前髪を揺らした。

 妙な緊張を強いられている雪乃の気持ちを知ってか知らずか、力を抜いた彼が肩に額をつけた。

 まるで恋人に甘えるような動作にどきりとしたが、若者のばか笑いが聞こえてきて、唐突にここが外であることを強烈に意識した。


「ちょっと! 離れて」


 油断していたからか、両手で朔の胸板を押すとあっさりと離れていった。


「ごめん。落ち着いて話せる所に行こう」


 ドアのボタンに手を伸ばし押すと、助手席のドアを開いて乗るように促した。

 有無を言わせぬ行動に、雪乃は逆らうことなく乗り込むと、運転席側に回る朔を目で追った。

 さっさとシートベルトを着けていた雪乃は、彼が乗り込む頃には窓の外に目を向けて、無言で話すことはないと抗議した。

 実際、話すことなんてない。

 食事を一緒に摂ることには同意したけど、昔話をするのに同意した覚えはないのだから。

 ラジオの音楽だけが流れる素っ気ない空間に座りながら眺める外では、恋人たちが楽しそう笑い、小さな子供を連れた男女や同性のカップルが幸せそうにしている姿が目に入る。

 何度も恋人同士の話を書いてきたけど、それは雪乃の想像と妄想でしかない。気持ちを想像できても、そんな気持ちになったのは遥か昔過ぎて自分の経験は名残すらなくなってしまった。

 甘酸っぱかった?

 どきどきした?

 幸せだった?

 朔にどんな気持ちを抱いていた?

 ぼんやりと物思いに耽りながら眺めていると、車が地下駐車場へと入って行き薄暗くなった。

 車が駐車されたのは、見慣れた卓馬の駐車スペースの隣。長らく空いていたスペース。

 シートベルトを外して降りると、心許ない面持ちでエレベーターの前に立っていた。


「来て」


 突っぱねたかった。あんたに用はないと言いたかった。

 でも、その半面──彼の言い分が聞きたい自分もいる。

 雪乃は呼ばれるがまま、扉の開いたエレベーターに乗った。

 小さな箱の中には、重い沈黙が流れている。普段ならリラックスしそうなエレベーター内のメロディーも、今日は物悲しく聞こえる。

 こんなに、卓馬のフロアまで長かったかと思うほど、雪乃は緊張していた。

 ただ話をするだけだと思っていても、もはや見知らぬ人に近い男と二人きりで話すかと考えただけで、嫌な汗が出てきた。

 狭い箱の中で、もう堪えられないと感じはじめるのと、エレベーターが到着して扉が開くのは同時だった。

 慌てて外に出た雪乃は、深く深呼吸をして自分を落ち着けようとした。


「ヒナ、大丈夫?」


 相手が手を伸ばしてきた気配を察した雪乃は、片手で制した。


「大丈夫だから」


 ぐっと体を引いた動作に彼が、傷ついたような気がしたから、余裕がないにも関わらず自然と口から言葉が零れていた。


「違うの。あなただから嫌だとか、そういうことじゃないの。家族とか親しい人以外と狭い空間とか逃げ場のない場所にいるのが堪えられないだけだから気にしないで」

 

 一息に言ってから、上着のポケットを漁ってカードキーを取り出し、卓馬の家の玄関を開けた。


「話なら、こっちの部屋にして」


 中に入ってリビングに進みながら明かりを点けていくと、後ろからため息が聞こえてきた。


「とりあえず、そっちで待ってて。部屋にコート置いて来るから」


「ここに部屋!?」


 横を通り過ぎようとしたら、手にしていたコートを掴まれた。今までも、誰もが同じ反応を見せた。

 もちろん、最初に卓馬に自分の部屋を用意したと言われた時には、さすがの雪乃も驚いた。

 断りもしたが「しんどいことがあった時の避難所だと思えばいい」という言葉に、甘えてしまったのだ。

 

「そうだけど……それがなに?」


「もしかして、卓馬と結婚してる?」


 がくり、と一気に力が抜けてしまった。交際してるのかと問われたことはあっても、結婚しているのかと言われたことはない。

 呆れながら振り返り、朔を睨みつけてやったが、冗談ではなく真面目な顔をしていた。

 だから、雪乃は彼の目の前に左手を突きつけた。


「この手に指輪が見える?」


「……見えない」


「なら、見合いうんぬんの話を忘れたの? 結婚してたら、そんな話がくる訳無いでしょ? 馬鹿なこと言うんだったら、話なんて聞かないから帰って」


「ごめん、悪かったよ。君のこととなると俺……」


 苛立ちの種を植付けられた気分だ。

 百パーセントありえないが、卓馬と結婚していたら見合いなんて苦痛を受けずにすんで、やけ酒の末にホテルのベッドで目覚めるなんてこともなかったのに──。

 腹立たしげにソファーにコートを投げると、朔が立っている場所から離れているバーカウンターのスツールに腰掛けた。


「時間の節約をしましょ。コートなんて後で片せばいいし。それで? 話って何? したいんだったさっさと話せばいいじゃない」


 ぞんざいに言い放つと、コートの投げつけられたソファーに座った彼は諦めたように前屈みになって膝に腕をついた。


「今日はやめたほうがいいかもしれない。怒らせてしまったし、冷静に話が聞けるとも思えない」


「だったら、帰れば?」


 腕を組んで視線を窓に向けながら言えば、静かな室内にソファーのスプリングの音が嫌に響いた。

 小さく聞こえてくる溜息と歩き出す気配が物悲しい。

 

「ただし、今帰ったら……二度と話は聞かないし、もう二度と会うこともないわね」


 ぴたりと足音が止まった。

 どうせ、弱虫だった朔が何か言い返せるはずがないと思って言った言葉だったけど、足早に近づいて来る足音に、雪乃は驚いて反応出来なかった。


 バンッ!


 カウンターに手をついた彼は、ぐっと身を乗り出してきた。その瞳は、怒りに燃えている。


「ねえ、ヒナは……俺を手の平の上で転がして楽しんでるの?」


 見たこともない目の強さに、雪乃は動けなくなってしまった。


(こんな朔を、私は知らない)


 混乱していると、頭を下げてきた朔の額と雪乃の額が触れ合った。


「それって作戦? 俺がヒナを忘れられないようにする。十年前に手紙を返してくれなかったのも作戦だとしたら、成功だよ。俺はずっと……ヒナの事を考えていたんだから」


「えっ?」

 

『手紙』という言葉に、眉間にシワを寄せた。貰った覚えなんて一度もない。


「イギリスに行った後、それこそ毎日ヒナに手紙を書いて送ったじゃないか。いつも返事を楽しみにしていたのに、君から一度も返事はもらえなかったけど、君は怒っているんだろうな何も言わずに渡英したことを……そう思って、出すだけで満足していた。それなのに、俺の心は届かなかった?」


 体を離した朔は、前髪に片手をさしいれた。邪魔そうにかきあげた髪から覗いた顔には、悲しみが広がっていた。


「違う……」


 なんて貰っていないと言おうとしたのに、朔は片手を上げて制した。


「あの頃、親父に言われたんだよ。俺はヒナの後ろに隠れるだけで、後継ぎとして相応しくない。それどころか、ヒナの相手としても相応しくないって。だから少しずつ距離をもって、成長しようと思った。将来のために、祖父のいるイギリスに行って大学を卒業した後に会社で学んでいたっていうのに」


 傷ついた日々に考えていた理由とは違いすぎて、言葉を失ってしまった。

 かける言葉が見つからない。

 テレビのついていない部屋では、壁に掛けられた時計の秒針の音が、まるでカウントダウンみたいに聞こえる。

 何も言えないでいると、髪をギュッと握りしめた朔が諦めたようにため息を吐いた。 


「俺が離れたのは、ヒナを失うためじゃない。胸を張って、隣に立つためだ」


 その言葉に雪乃は顔を上げたけど、その頃には彼が背を向けるところで、見えた横顔ではどんな表情をしているのか分からなかった。

 雪乃には、足早に去っていく朔を見送ることしか出来ない。

 遠ざかるスリッパの足音が靴に変わり、一人きりになったリビングに静かな閉まり方のはずなのに、玄関の閉まる音が二度と開かない重い扉のように響いた気がした。



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