第4話 急速に動き出す歯車
鼻をくすぐるベーコンとパンの香りに、雪乃の意識はゆっくりと浮上していく。
次第に外から聞こえるクラクションの音や肌に当たる太陽の光を感じはじめた。朝の目覚めとしては悪くない。
雪乃は寝返りを打ち、眩しいほどの光を避けるために窓に背を向けてから目を開いた。
当然だが、ベッドの隣に卓馬の姿はない。
のそりとベッドから這い出た雪乃は、ウォークインクローゼットを開けて入ると、気楽なぶかぶかなサイズのパーカーとストレートジーンズを身につけた。
まだぼんやりする頭を覚ますべく、洗面所で顔を洗い、ようやく人間らしい気分になる。
「んー」
体を思いきり伸ばしながらリビングに入っていくと、目覚めに嗅いだ匂いの他に、爽やかなオレンジの香りが室内を満たしていた。
まさに爽やかな朝という感覚に、お腹が自分以外にも聞こえたんじゃないかというほど鳴った。
「もう起きて大丈夫なのか?」
半分に切ったオレンジを搾りながら、卓馬が声をかけてきた。真面目な顔で言われて、思わず雪乃は吹き出してしまった。
「大丈夫……っていうか、別に病気じゃないんだから」
「そうか。ならいい」
じっと、雪乃の顔色をチェックするような視線を向けてきていた卓馬は、搾り終えたオレンジをごみ箱に捨てるとグラスに注いで手渡してくれる。
素直に受け取り、冷蔵庫に軽く寄り掛かりながらキッチンに立つのが当たり前という様子の卓馬を見つめた。
手際よくフライパンを操り、彩りと配列、栄養素が計算尽くされたレシピ。
こんな風な相手を嫁に欲しいというのだろうかと、どこかぼんやりと思う。
「何か手伝うことはある?」
グラスに口をつけながら言うと、卓馬は雪乃好みのカリカリに焼いたベーコンとスクランブルエッグ、ベビーリーフの盛り付けられた皿を差し出した。
「いや、出来上がったから大丈夫だ。ありがとう。こっちで食べよう」
卓馬自身は、自分の分の皿とコーヒー、パンの盛られたカゴを手にした。先に歩き出した彼が向かったのは、テレビ前のソファー。
そのソファーの真ん中を倒してテーブルを出すと、パンのカゴとコーヒーを乗せてから腰掛けた。
つづいて雪乃も反対側に座り、卓馬のコーヒーの隣にオレンジジュースを置いて、胡座をかいて座った。
「何か興味深いニュースやってる?」
パンを一つ取ってちぎりながら問いかけると、卓馬はいくつかチャンネルを変えた。
とりあえずと止めたニュースでは、可愛らしい女性アナウンサーが今はいっているニュースのラインナップを紹介している。
「あー、今あるのは芸能人の不倫問題と離婚の話と……野菜の価格高騰のニュースくらいだな」
「……つまり、ないってことね」
「そうだな、あとはビールの値段も上がるらしい。オレとしてはありがたくないな。野菜もビールもとなると、少し痛いな」
「たしかに、卓馬の仕事的には痛いね」
そんな会話の後は、テレビの音だけがする沈黙の中、フォークが皿を擦る音だけが嫌に大きく聞こえるが居心地が悪いってことはない。卓馬の隣は、昔から変わらず居心地がいい。
沈黙に耐えられないってこともなければ、何か話さなくちゃという焦りを感じることもない。
雪乃にとって、家族以外に頼るべき安息の地である。
先に食べ終わった卓馬が食器を洗いに立つと、雪乃も自分の食器を持って立ち上がった。
自然と彼が洗い、彼女が食器を拭くという役割分担が出来ていて、今日も同じようにキッチンに並んだ。
手際よく洗い物を済ませると、いつもなら二人並んで座ってリラックスタイムになるのだが、口を開いたのは雪乃だった。
「ねえ……卓馬は、朔が帰ってくるの知ってたの?」
そう切り出すと、食器を雪乃では届かない上の棚にしまっていた手を止めた。
「ああ。一ヶ月前くらいに、あいつから電話があった」
「ずっとやり取りしてたの?」
「んなわけあるかよ。店にかかってきたんだ。前に一度、雑誌の取材受けたことあるだろ? あれを見てかけてきたらしい」
「そうなんだ」
温かいお茶の用意をしながら聞いていると、隣から深いため息が聞こえてきた。
「って、一昨日の夜にも説明しただろ。覚えてないのか?」
「そ、そうだった?」
「まあ、あの日は酷く酔ってたからな。しかも、話聞いた後はさらにピッチが上がってたし」
言えなかった。酔ってよく分からないうちに、朔と一線を越えただなんて。
「そういや、あの日は一人で帰れたのか?」
心臓が一気に早鐘を打った。
どう説明すべきか分からず俯いてしまうと、タイミングよくドアベルが鳴った。
「……朝から引っ越し業者が来てたな。向かいの部屋に、誰か越して来てたから挨拶にでも来たのかもな」
応対しようと動いた卓馬だったが、タイミングよく彼のスマートフォンが着信を告げた。
「電話、出ちゃいなよ。対応には私が出とくから」
「悪い、頼む」
カウンターの上に置いてあるいまだに鳴りつづけているスマートフォンを手にすると、自室へと入って扉を閉めた。
少しだけ、雪乃はほっとした。
あの日、何があったのかは自分でも分からないのだから、卓馬にも香穂にも知られたくない。
あまり人の対応が得意なほうではないが、仕方がないと玄関に歩いていくと横の鏡で軽く身だしなみを整えてから扉を開けた。
「すみません。お待たせしました」
「いえ、こちらこそすみません。朝のお忙しい時間に……」
妙な沈黙に顔を上げて、絶句した。
ここまでの不運があるだろうか。
それとも、早い厄年でもきたか。
そう思いたいぐらい、一昨日から運気に見放されている気がしてくる。
「ヒナ……どうしてここに?」
目の前で紙袋を手に立っていたのは、見間違えようもない──朔だった。
「ここって……鞍山って、卓馬の家か?」
表札を見て相手が驚いているのと同じくらい、雪乃も驚いている。声も出ないほどに。
じっと見つめることしか出来ないでいると、後ろから声がかけられ雪乃は肩を揺らした。
「雪? どうかしたのか……って、朔?」
心配そうに雪乃の腰に手を沿えた卓馬は、昨夜以上に驚いた声を上げた。
そんな二人の様子を気にすることなく、朔は微笑んだ。
「向かいの部屋に住むことになったから、挨拶をしとこうと思って」
「お前……知ってて越してきたのか?」
「まさか。卓馬、自宅の住所なんて教えてくれなかったじゃないか。偶然だよ。会社に近いマンションがここしか無かったってだけの」
冷ややかな目になった朔に、雪乃は自分が知っている昔の彼を探そうとした。
でも、見た目、表情、言葉使い、どれを見てもかつての朔はどこにもいない気がしてくる。
これは、もはや知らない人だ。
「ところで、聞いてもいいかな?」
にっこりと微笑んで──見えるが、雪乃には目が笑っていないように感じる嘘の笑みを浮かべた。
「なんだよ」
「どうしてヒナが、卓馬の家にいるのかな? こんなに早い時間に」
「あ゛? 泊まってったからに決まってるだろ」
「ふーん……ヒナって、簡単に独身男の家に泊まるんだ?」
どこか軽蔑を込めた言い方に、雪乃は朔を睨みつけた。
なんでこんな言い方をされなければならないのかと、苛立ちが湧き上がってくる。
「何? 文句ある? 卓馬は友達であり、家族なのよ? その辺の下心しかない男たちと一緒にしないで」
朔に向かって一歩踏みだそうとしたら、後ろから腕を回されて引き戻された。
「やめとけ、雪。こんな所で立ち話もなんだから、入れよ」
ぴりぴりしたムードを打ち破ったのは、静かな卓馬の声だった。
だが、その本人は先に廊下を歩きながら、時計を気にしている。後ろからついて来る朔を気にしないように、雪乃は卓馬へと意識を集中させた。
「何かあったの?」
「ああ。ホテルで、じいさんが話があるんだと。ちっ、めんどくせぇ」
そう言いながらも、卓馬は自室に入ってウォークインクローゼットからスーツを出しはじめた。
彼の祖父は大手ホテルの経営者で、数人いる孫の中でも卓馬に継いでほしがっている。
当の卓馬は、バーだけをやりたがっているのだが、継がなければいけなくなるのも時間の問題だろう。
「どこのホテル?」
「新規オープンした北海道……もうすでに、嫌な予感しかしない」
「それだけ期待されてるってことでしょ?」
「はぁー、行きたくない」
隣に立ってネクタイを選んでやると、高い身長を屈めて雪乃の肩に顎を乗せてくる。滅多にないことだが、本気で行きたくないらしい。
「はいはい、今の季節ならこれでしょ」
手渡したのは、青から紺色へと綺麗なグラデーションが印象的な一本だ。かなりじっくり見ないと分からないが、同じ色合いで雪の結晶が刺繍されている雪国をイメージしてある。
何となくで雪乃が選んだもの。普段はネクタイとは縁遠い職業だが、年々呼び出される回数が増えてきた時に、イベントの度にプレゼントしてきた。
「悪いな」
「そうでもしないと、わざと印象が悪くなるものつけてくでしょ?」
「……いや、そんなことは」
肩から離れた卓馬は、目を泳がせている。
「言い訳は結構です。それで、いつ行くの?」
「今すぐだ。すでに空港で浅井さんが航空券を持って待ってるらしい。用意のいいことに、昼の便のチケットまであるんだとさ」
「じゃあ、はやく行かないと」
「という訳で……」
雪乃と話していたはずの卓馬は、視線を後ろへと向けた。朔が立っているであろう場所に。
「何日か、雪のことを気にかけてくれないか……朔」
「「えっ!」」
思わず二人の声が重なった。
「な、なに言ってんのよ! 別に子守とか必要ないし。自分の家に帰るし!」
「卓馬……昨日と言ってることが違う気が」
雪乃もうろたえているが、朔も困惑している。
「お前の両親はまだ帰って来ないだろ?」
「別に一人でも平気だよ」
「お前、一人だと平気で三食カップヌードルで済ませるだろ? 下手すりゃ、それすら面倒がって食べないだろ」
「ぐっ……」
反論出来なかった。正直、一人の時は作るのも買い出しに行くのもめんどくさくて、買い置きしてあるカップヌードルで済ませるのが常だ。
そこまで空腹を感じていなければ、食べなくてもいいやとも考えてしまう。
だからといって、これまで体調を崩したことはない。
「私の食生活への心配は必要ないよ。今はお弁当屋さん、飲食店、コンビニがいっぱいあるんだから」
「そう言って、めんどくさがって買いにも、食べにも行かないだろ?」
今度は雪乃が目を泳がせる番だった。
こうして、いつだってお互い面倒を見てきたのだ。
「だから、頼むぞ……朔。雪乃が大切なら、体を粗末にさせないよな?」
話を振られた朔は、訝しげな眼差しを卓馬に向けた。
「いいのか? 本当はヒナに近づかせたくないんじゃないのか?」
「オレは言っただろ? 雪を傷つけないなら邪魔しないって」
雪乃の知らないうちに交わされていた会話に、不満の声を上げたくなる。
朔から雪乃へと目を移した卓馬は、腰を屈めた。
コツンっと、軽くぶつけるように額同士を合わせて、目を反らせないようにしてくる。
「雪……昔、胸にため込んだ不満をぶつけてみたらどうだ?」
「それでどうなるの? あれから何年経ってると? いまさら、どうでもいい」
「そう言わず、試してみろよ。これも何かの運命だと思って。ずっと、気にしてただろ? 朔のこと」
記憶の中にある彼と違っていて気付かなかったのは本当だが、卓馬の言うとおりだ。
忘れたフリをどんなにしようと、心のどこかで朔を気にしている自分はいた。
どんな人だって、忘れられるはずがない。
朔は、雪乃にとって初恋だったのだから。
言葉に困って俯いていると、小さな声で名前を呼ばれた。
それも、彼だけが使う愛称でーー。
「俺にチャンスをくれないかな……ヒナ」
不安そうで、頼りなさそうに発せられた声の中に、雪乃は昔の朔を見たような気がした。
まるで、初めて会った時のようだ。
雪乃が朔に出会ったのは、幼稚園から小学校に上がろうって時。
朔の父親は、雪乃の父親が勤める会社の社長で、半年に一回開かれるガーデンパーティーの席だった。恥ずかしがり屋で、上手く喋れない朔には友達がなかなか出来ず、イジメられてはいないが孤立している状態で、小学校に進むのを心配した両親が友達候補として二人を合わせた。
初めて会った彼は、母親の後ろに隠れているような男の子だった。
妹しかいなかった雪乃にとって、同い年でも弟が出来たような感覚で、喜んで朔に手を差し出したのだ。
ガーデンパーティー中、ずっと雪乃の後について回る朔の様子に、誰もが微笑ましそうに見ていた。
パーティーが終わる頃には顔を曇らせ、小さな声で「ヒナちゃん……また会える?」と悲しそうに呟く朔に、雪乃は小学生になったらいつでも会えると笑ったものだ。
そんな昔のことを思い出してしまい、否定の言葉は喉元に張り付いてしまった。
「……食事くらいなら、一緒に行ってもいい」
気づけば、考えるより先にそんなことを口にしていた。
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