第5話 匂い

少しだけ重い気分のまま迎えたその日は、皮肉なぐらいの晴天で。そのちぐはぐさが私の胸をざわつかせた。

蒼唯さんからの、何時ごろ来るのか、というラインにも、17時ごろには、と淡々と返し、足取りも重く授業へと向かう。ただ、私の頭が恐ろしく単純にできているのか、はたまた蒼唯さんの力がすごいのか。


「期待して待ってる」


たった一言、絵文字も感嘆符も何もないそっけない文面が、私の心を一気に軽やかな気分へと変えた。つくづく、自分の身勝手さに嫌気がさす。

それなのに、放課後が待ち遠しくて、その日の授業の内容なんて半分も覚えていない。先輩が待っているのはおいしいご飯だ。それはわかっている。だけど、それでも、私なんかに待っているといってくれることが、どれだけうれしいことか。


今までで一番長く感じた講義を終え、小走りで帰宅する。シャワーを浴び、髪形を整え、メイクを丁寧にし直す。

さっきまで落ち込んでたくせに浮かれている自分が情けないし、嫌いだ。でも、気分はいい。


そのまま家を飛び出し自転車で爆走する。朝はうっとうしかった青空も、今はすんなりと心地よく思えた。


「スーパーによってから行きます」


「わかった。ありがと」


先輩に合わせて落ち着かせた文面も、だんだんと慣れてきた。この単調な返信にすら愛しいと思えるのは、きっと相手がこの人だからだ。


スーパーで食材を吟味し、いよいよ家へ。昨日のうちに送ってくれた住所のもとに向かおうとして、はたと気づいた。これが分からなとたどり着けない。


「部屋の番号何番ですか」


端的にラインをいれ、向かっているうちに気がつくだろうとスマホをカバンの中に放り込み、立ち漕ぎで自転車を走らせる。


この辺の道は入り組んでいて、ぼんやりとしていると迷い込んでしまう。慎重に進まないといけないのはわかっているけど、漕ぐ足はスピードを増すばかり。

これではいけないと思い、落ち着くためにも家についてからのシミュレーションをする。まずは部屋についてインターフォンを押して、押して…?


今更気が付いた。素面の先輩と二人になったことなんてドライブの日以来ない。実際に動きをイメージして初めて今から何が起ころうとしているのかを理解した。

ほかの人がいない状態、今までになかったということに、どうして今更気づいてしまったのだろう。


日常に、一気に加わった非日常は、焦りなど無視して加速して。それでも止まるわけにもいかない私はひたすらに足を動かし続けた。


そしてたどり着いてしまった先輩の家。部屋に向かうために、返信が返ってきているかを確認するが、きていない。

おい、さすがにはじからピンポンを押して回る訳にはいかないんですけど先輩。することもなくて途方に暮れてしまう。さっきのシミュレーションの続きでもしようか、そう、一瞬ぼんやりしてしまったのが命取りだった。


「ごめんゆあ、ライン見てなかった。

「ひぇ、先輩!?」


妙な声とともに勢いよく振り返ると、なぜかちょっと息を切らして先輩が立っていた。


「部屋番言ってなかったと思って、それにうちの位置わかりにくいから、スーパーまで迎え行こうかと思ったんだけど、ごめん、優愛のほうが早かった」


「連絡入れてくれればわかりやすいところにいたのに、すみません走らせちゃって。」


「確かに」


当たり前のことに感心したようにうなずくから、なんだか拍子抜けした。


「なんで思い浮かばなかったんですか」


「なんでだ、焦ってたからか、迷子になりそうだと思って。」


「私のこと小学生だと思ってます!?地元で迷いませんからね!?」


「そうじゃん、めちゃめちゃ地元って言ってたわ。まあ見つかったからいいよ、とりあえず入ろう」


「えぁ、はい」


驚きで一瞬吹き込んだ緊張を、急激に引き戻す言葉。固まりかけた私に気づかず、カンカンと階段を上る背中を目で追っていると、後ろに続かない足音に気が付いて先輩が振り返った。


「どうした?」


「あ、いえ!いきます」


あわてて我に返り、その背中を追いかけた。


「一応片づけたけど、別に広くはないから」


「いえ全然、むしろ片付けさせちゃって申し訳ないです」


「いいよ、一人暮らしなんて、人こないと片付かないんだから。うちなんてちょい遠くて、友達とかこないから、普段全然片付かない。」


何だろう、意外と適当なんだ、この人。先輩ってだけでなんとなくしっかりしていると思ってた。


「いや、それは片付けましょう、普通に」


「忙しいの、工学部のオタクは」


「私が来たら片付けられるぐらいの時間はあるんじゃないですか」


「さっきの『申し訳ない』の謙虚さはどこ行ったの」


わずかににやつく先輩に、生意気を言ってしまったと焦る。


「すみません」


「そんな固くならないで、冗談だって。まあ来させてるんだから片付けぐらいはするよ、後輩に部屋汚い奴だと思われたくないでしょ」


何だか適当なんだか丁寧なんだかわからない人だ。というか、そもそもこの人のことはほんとうによくわからない。そんな彼を知りたいというのが、蒼唯さんにに興味を持ってしまったきっかけなのだから、仕方がないのだけど。


「とりあえず入って、特に何もないけど」


「あ、お邪魔します…」


そうつぶやき、部屋に上がらせてもらう。そして、どうしていいかわからず、部屋の隅に荷物をそっと置いた。そのまま固まっていると


「そんな気使わないでいいよ。適当に座って」


そう、先輩が苦笑しながらいうものだから、とりあえず荷物と同じく部屋の隅っこにちょこんと座った。瞬間、ふわっと、なんだか甘く、それでいて柔らかな香りがした。


これは、だめだ。私の頭が警鐘を鳴らす。急にこんなことをいうのもなんだけど、私は人の顔だとか、ファッションだとかに興味がない。その代わりにというか、匂いだとか、声だとか、そういった感覚的なものには人一倍敏感だ。


だからこそわかる。これは、私の判断能力を鈍らせる匂いだ。何のルームフレグランス使ってるんですか先輩、好みすぎる匂いって私の理性的によくないんですよ。

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