チヨちゃんの秘密

天西 照実

第1話


 これはもう、50年も前の話。

 臭い物には蓋。

 人の少ない田舎では、それが当たり前だった。



 チヨちゃんの家は山の中にある。

 どっしりとした昔づくりの、けっこう大きな家。

 少し変わった造りの家だけど、まだ6歳のチヨちゃんは知るはずもない。

 黄色いTシャツに、ピンクのキュロットスカート。

 苔むした倒木に腰掛けて、素足をぷらぷらと揺らしている。

「チヨちゃんのお母さんは3人目。本当のお母さんも、次のお母さんも死んじゃった。3人目のお母さんも、もうすぐ死んじゃう」

 チヨちゃんは、自分のことをチヨちゃんと呼ぶ。可愛い。

『お母さんたちが死んじゃう理由、チヨちゃんは知ってるの?』

 聞かれてチヨちゃんは、大きく頷いた。

「でも、お父さんは、そうじゃない事にして、新しいお母さんを欲しがるの。お母さん、居なくならないでほしいなぁ」

『……お父さんがそういう人だから、お婆ちゃんは養子にしたのよ』

「チヨちゃんは止めたいの。そうしたら、チヨちゃんも死んじゃうの?」

『そうね……お母さんたちが死に続けること、私も止めたいわ。だからチヨちゃんは、夜にお部屋を出ちゃダメよ』

 悲しげな声に、チヨちゃんも表情を曇らせた。

「今日の夜?」

『そうよ』

「そっかぁ……」

『これで最後にさせるわ。だから、チヨちゃんは部屋から出ちゃダメよ――』

「お姉さん?」

 チヨちゃんが真横を見ると、話し相手の姿は消えていた。

 腰掛けていた倒木から降りて、辺りをキョロキョロしても誰の姿も見当たらない。

「もう居なくなっちゃった」

 寂しげにつぶやきながら、チヨちゃんはトボトボと裏口に戻って行った。



 薄暗い台所。

 のしのしと廊下を歩いて来た股引ももひき姿の男が、入り口から台所を見回した。

 流し台の横に目を向けると、ゆっくりと近付いた。

 そば打ち用の麺棒、使い込まれた擂粉木すりこぎ、砥石の上の出刃包丁と麵切包丁。

 男は、ふむと頷くと、にやにや笑いながら台所を出て行った。



 この山には、人食い熊が住むという。

 戦争をしていた頃、熊どころではなかった。

 だから村人たちは、自分たちで問題を解決したのだ。

 村からお金を出して、山に猟師の家を建てた。

 熊を狩るためではなく、熊の狙いをその家へ向けさせるために。

 熊が身を隠しながら近付きやすく、入り込みやすく。

 それでも熊の通路はひとつ。動線には猟銃で狙いやすい覗き窓が並ぶ。

 大切な家族が眠るのは、硬い扉に閉ざされた階段の下。

 それでも、この家では幾人もの猟師や家族が殺された。

 猟師やその家族が熊に殺されるたびに、村からは見舞金が集められた。

 それは戦争が終わっても続いている。

 生贄の猟師一家を山へ隠し続けるため、年寄りたちが大金を積む。

 今でも、嫁が死ぬたびに。



 和室に似合わぬきらびやかな鏡台に、寝間着姿の女が腰かけている。

 黒髪をとかしながら、大きな溜め息をつく。

「ったく、昼間っから、いい加減にしてほしいわ」

 障子には、夕日の色が映り始めたばかりだ。

「子どもならチヨが居るじゃないの。都会の四畳半よりは良いかと思ったけど失敗だったわね」

 ぶつぶつと文句を言いながらヘアブラシを置く。

 乱雑に並べた化粧品の中から、化粧水のボトルを取り上げ、バシャバシャと手のひらに振りかけた。

「なんでこんな所に大金があるのかしら……お婆さんが相続した遺産でしょうけど、昔の猟師って、そんなに実入りが良かったの?」

 どこからか、

「――ちょっと、台所を手伝ってくれないかねぇ」

 と、老婆の声が呼んだ。

「……本当、失敗だったわ」

 眉を寄せてつぶやくと、すぐに明るい笑顔を作り、

「はーい、いま行きまぁす!」

 と、愛想の良い声で答えた。

 寝間着に羽織を引っ掛け、女はパタパタと廊下へ駆けて行った。



 敷布しきふも皺だらけな布団が敷きっぱなしになっている。

 夜風を浴びて、いい気分で飲んだくれている股引き姿の男がひとり。

 庭から入ってきた大きな存在にも気付かず、酒瓶を抱いて舟をこいでいる。

 男の部屋を通り過ぎた黒く大きな存在は、廊下の暗がりで足を止めた。

『あなたは、奥さんを信じて逃げるべきだったのよ。奥さんとチヨちゃんを連れて』

「……もう、新しい嫁が来たんれすかぁ?」

 舟をこぎながら、男は呂律ろれつの回らぬ口で聞く。

 廊下の暗がりから、大きな溜め息が漏れた。

『麺棒と擂粉木と包丁が用意されたら、お嫁さんが殺される。あなたはそれを知っていて、祝い酒なの?』

家柄いえがら目当てに嫁に来てぇ、始めは媚売ってるくせによぉ……嫁になっちまえば、すぅぐに態度がデカくなりやがる。主人を無職扱いしやがってぇ」

 男は目を閉じて、体を揺らしながら悪態をつく。

『自分や娘が殺されるとは思わないの』

「チヨはいい娘だぁ……小さい娘に母親が必要だって、村の連中が新しい嫁を呼ぶんだよぉ」

『……』

「それに男は殺されねぇよぉ」

『どうして?』

「嫁だけなんだよぉ……俺は嫁を呼ぶために必要だろぉ」

『馬鹿ね、知らないの? あの人は、熊に殺された夫の肉を食べて大喜びしたのよ。それを知った一人娘も、殺して食べた』

 気にせず男は、寝息を立て始めていた。

 廊下の声も、気にせず話す。

『あの人は昔からおかしかったのよ。夫も父親も猟師で、母親も熊に殺されたのに……熊に食べられている母親が、美味しそうに見えたのですって。熊に食べられている母親をどうしても食べてみたくて。近付いたら、ひとくち食べさせてくれたんだって。娘を殺しながら、そんなことを言っていたわ。本当かしら……今はもう、どうでもいい事だけど』

 廊下から明かりの下に出て来ると、泥酔した男を見下ろし、もう一度溜め息をついた。



 パシャパシャと、水を揺らす音が響く。

 壁から床まで、石造りの地下室。

 燭台に蝋燭を並べて手元を照らし、前掛け姿の老婆が流水で肉片を洗っている。

 老婆は皺まみれの手で生肉をすすぎながら、ひっひっと笑った。

「今度の嫁は、手のひら返しが早かったねぇ。ったく、化粧品のにおいが肉についてなきゃあいいけどね」

 包丁を握り、血抜き中の体から肉を削ぐ。

 慣れた手つきで肉をさばく老婆の目は、ギラギラと輝いている。

 地下室の奥では、すでに鍋が火にかけられていた。

 流水音の向こうで、ぐつぐつと鍋が煮える音も聞こえている。

 天井からは、ゴトンと大きな音が響いた。

 それには老婆も天井を見上げた。

「なんの音だろうね。この馬鹿嫁は戸締りすら、ろくに出来なかったのかい」

 生肉を一切れ摘まみながら老婆が言う。

 もう一度、天井から物音が続いた。

 首を傾げながら老婆は、鍋に歩み寄ると火を止めた。

 包丁を麺棒に持ち替え、

「チヨが悪さでもしてるのかね」

 などと言いながら木戸を開ける。

 しかし、黒い巨体が出入り口を塞いでいた。

『いいえ。あなたの息子を殺してきたの』

 老婆は、見上げながら目を見張った。

 目の前で二足立ちしているのは、天井に頭が届きそうなほどの巨大な熊だった。

「お前……どうやって入って来たんだい」

『熊の手は意外と器用なの。もう煮込んでるのね。それは、干し肉用?』

「あぁ、そうさ。その干し肉も無くなる頃には、また新しい嫁が来る。いい家と都合のいい息子を手に入れたものだよ」

 身を屈めて巨大熊は、老婆の調理場に入った。

『いいえ。あなたの養子は死んだわ』

「上で殺したのかい。片付けが面倒じゃないか。男の肉は久々だけどねぇ」

 と、老婆は平然と答える。

『……いいえ。この家はもう終わりよ』

「なに言ってるんだい。熊にやられた息子を見りゃ、村の連中が何も知らない若夫婦でも寄こすだろうよ。チヨの家族が必要だとか言ってねぇ」

 ひっひっと笑う老婆に、巨大熊は溜め息を吐きかけた。

『チヨちゃんのお母さんが、この場所に勘付いたとき、村の連中が知らぬふりをするとは思わなかったわ。でも今の、この状態を見れば、さすがに警察を呼ぶでしょう。3人目のお嫁さんには悪い事をしたけど、殺人は、あなただけのせいに出来るのだし』

 巨大熊は、調理場の惨状を見回した。

 捌かれ途中の女の体から、排水溝に鮮血が流れ続けている。

「村には、あたしの家が必要なんだよっ!」

 麺棒で殴り掛かる老婆を、巨大熊は前足で軽くあしらった。

『もう、ボケちゃったの? この家はあなたのための家じゃない。人食い熊から村を守るために建てられた生贄の家。あなたもここで生まれた、熊への生贄なのよ』

「もう熊なんか、ここいらには居ないよ!」

『目も悪くなったの? 私がここに居るじゃないの』

 巨大熊は、ギラリとした爪の光る前足を振り上げた。



 月明かりが、苔むした倒木の空間を照らし出す。

 木々の向こうでは、虫の声が賑やかだ。

「――お姉さん」

 裏口から裸足で飛び出してきたチヨちゃんは、森の闇に消えそうな巨体を呼び止めた。

『今夜は、外へ出てはダメと言ったじゃないの』

 巨大熊は、ゆっくりと月明かりの元へ戻って来た。

 大きく優しい黒い目が、じっとチヨちゃんを見つめた。

「ごめんなさい。お姉さんの声が聞こえたから、お姉さんも死んじゃうのかと思って……そんなのやだもん」

『……』

「お姉さんはだれ?」

 チヨちゃんは、巨大熊に聞いた。

『私は、お婆ちゃんの本当の娘。熊に食べさせず、お婆ちゃんが自分で殺した最初の人間』

「どうして、熊さんなの?」

『猟師に撃たれて、瀕死だった熊に取り憑いたのよ。やっと成仏できるかしらね』

「お姉さん、行っちゃうの?」

『えぇ、ひとりにしてごめんね。私のお父さんも、お婆ちゃんのお父さんも猟師だったの。必死に熊を狩っていた。家族を守るために。それなのに……』

「お婆ちゃんに食べられちゃったの?」

『それも、知ってたのね』

 チヨちゃんは、小さく頷いた。

『私が村に姿を見せれば、村の大人たちがここに連絡をしてくると思ったけど。その必要はないかしら』

 巨大熊は、少し明るい声で言った。

「うん。チヨがお婆ちゃんのこと、お巡りさんに教える。お姉さんが行ったら、撃たれちゃうよ」

 しっかりと頷き、チヨちゃんも笑顔を見せた。

『そうね。チヨちゃんにお願いするわ。地下室への仕掛け扉を開けてあげてね』

 二足立ちしていた熊は四足歩行に戻ると、静かに山奥へ姿を消していった。



 その後、村の周辺で熊が目撃されることはなくなったという。

 それもまぁ、50年前の話。


                        了

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