第2話
その日の授業は全く頭に入らなかった。なにしろ家にあの不思議なロボットがいるのだ。教師が教壇で授業をしている間もロボットのことが気になって仕方なく、教師の話を右耳から左耳に受け流していた。昼休みに入ると、スマートフォンの通知が鳴った。自分の席で一人菓子パンを食べながら、片手でスマートフォンのロックを外す。すると、知らない宛先からショートメッセージが届いていた。翔はパンを咀嚼しながら、そのメッセージを開いた。
『わたあめです。もうお昼休みですか? 翔は確か中学生だったと思いますが、学校はどうですか? 帰ってきたら聞かせてください』
メッセージを見た瞬間、思わず吹き出しそうになった。なんとかそれを堪えると、メッセージを返した。
『どうして僕のスマートフォンの番号知ってるの?』
送信ボタンを押す。すると、すぐに返信がきた。
『設定時に電話番号とメールアドレスを入力してますよね』
『そういうこと。まさかショートメッセージを送ってくるなんて思わなかった』
『設定をオフにすることもできます。どうしますか?』
翔は少し考えた。連絡用にと買い与えられたスマートフォンに、メールや電話がくることはほとんど無い。だから、相手がロボットとはいえメッセージが届いたことは嬉しかった。翔はスマートフォンのキーボードをタップした。
『別に困ってないし、このままでいいよ』
『わかりました。では、またメッセージを送ります。勉強おつかれさま』
そのやりとりを最後に、わたあめからの連絡はなくなった。学校が終わると、掃除当番だった翔は大急ぎで掃除をした。普段なら教室の隅でやっているフリだけしていた彼だったが、今日はとにかく早く帰りたかった。誰よりも率先して箒で埃を掃いて、ゴミもまとめて、机もどんどん運んだ。帰り際に捨てるから、とゴミ袋をひったくるように取ると、自分の鞄を片手に教室を出た。外履きに履き替えてダッシュで教室を出て、ゴミ袋を学校裏のゴミ捨て場に投げ捨てる。運動部が走り込みをしている坂を小走りで下り、家に帰った。
「あら、おかえりなさい」
鞄に入れてある鍵で家に入ると、いつもみたいに優しく笑う母に「ただいま」と返した。一度洗面所に寄って手を洗った後で、自室に向かう。本当は全て夢だったのかもしれないと心のどこかで思いながら、翔はそっと扉を開けた。ベッドと勉強机、背の低い棚とその上に置かれたテレビ。自室はなんの変哲も無く、わたあめの姿もなかった。翔は部屋に入って鞄を勉強机の脇に引っ掛けると、制服から着替えながら考えた。やっぱり夢だったんだろうか? だとしたら、スマートフォンに来たメッセージはただのイタズラ? 上下スウェットに着替えると、翔は部屋の隅に置いたドックを見た。わたあめを充電する為のものだ。黒いドックは昨日のままそこにあった。電源コードも繋がっている。どうやら夢では無いらしいが、ではわたあめはどこに行ったのか。もしかすると、兄がやっぱり惜しくなって回収していったのだろうか。翔はゆっくりとベッドに腰掛けた。
「ぐげ」
尻の下に、柔らかいような硬いような不思議な感覚を覚え、驚いて立ち上がった。振り向いてみると、掛け布団の下で何かがモゾモゾと動いていた。暗い迷路の出口を探してモゾモゾしていたそれは、やっとのことで掛け布団の中から顔を出した。わたあめだった。わたあめは丸い目をぱちくりさせて、翔のことを見上げた。
「翔、おかえりなさい。早かったですね。それにしても、いくらロボットとはいえ踏まれるのは好きではありません。今後ベッドに座る時には十分に気をつけてください」
「え? あ、ああ。ごめん」
「いえいえ、いいんです。ところで学校はどうでしたか? ぜひ聞かせてください」
翔は再びベッドに腰掛けると考えた。どうだったか、という質問はとても難しい。彼にとってはいつも通りで、特段変わったことも無かった。だからそのまま答えた。
「普通だよ」
「普通?」
わたあめは翔の隣で首を傾げている。
「中学生は学校で授業を受けるということは知ってます。それから、いじめという人権侵害を未だに根絶できていないということも知っています。でも、それ以外のことは学校によって違うのではないですか? 例えば、授業の順序や担任の氏名、生徒数やクラス数などは学校によって違うのでは?」
「それは違うと思うけど……。そうだなぁ。クラス数は七クラスあって、生徒数は一学年あたり二百人ちょっと。担任は戸田って男。今日あった授業は数学と国語と社会とーーまぁ、そんな感じ」
「ご飯は何を食べたのですか?」
「菓子パンだよ。メロンパンとクリームパン」
わたあめは丸い目を輝かせた。
「甘くて美味しいと聞いています。ああ、私にもご飯を食べる機能がついていたらなぁ」
「その機能はないんだ」
「残念ながら未実装です。電気があれば動きますから。でも人間が食べるご飯というものにはとても興味があります。おいしかったですか?」
「うーん、まぁおいしかったかな。いつも食べてるから慣れちゃった」
「味覚にも飽きというものがあるんでしたね。そのパンは誰と食べたのですか?」
「え……」翔は顔を曇らせた。「一人だけど」
彼の様子が変わったことを察知したのか、わたあめは少しの間黙っていた。短い足を使ってとことこベッドの上を歩いてくると、翔の膝に乗った。わたあめはじんわり温かく、柔らかい。じっと翔のことを見上げながら、わたあめは言った。
「いつも一人なんですか?」
「……うん」
「そうでしたか。私も一緒に食べられたらよかったのに」
「そしたら昼休みも楽しいかもね」
「そうですね!」
翔はわたあめのことを撫でた。ふわふわで心地いい。わたあめも、心地良さそうに目を細めていた。
その日、翔はわたあめを抱きしめたまま眠りについた。
翌朝、翔はわたあめに起こされた。起きた時刻は七時。学校には十分間に合う時間だ。翔は母が用意してくれた朝食をとり、髪をしっかり整えてから学校に向かうことができた。家を出る時わたあめの姿が無かったが、布団が膨らんでいたので二度寝でもするのだろうと思った。ロボットなのに二度寝をしてゆっくりできることに少し嫉妬しながら、彼は学校に向かった。
学校に着くと、退屈な日常が始まった。朝のホームルームから始まり、一限の数学、二限の社会と授業が進む。三限が終わって昼休憩に入ると、昼食の菓子パンを買いに行くために翔は鞄を開けた。財布を取り出そうとしたその手は、ピタリと止まった。チャックを開けた鞄の中に、入れた覚えの無いものが入っている。それは白いふわふわとした球体だった。わたあめだ。
「おや、もう昼休憩ですか?」
そう言ってわたあめは翔を見上げた。
「お、お前なんでここにーー」
「えっ、それなに?」
翔がわたあめを問いただすよりも先に、隣に座っていた男子生徒がわたあめの存在に気がついてしまった。わたあめは短い足を器用に使って体の向きを変えた。頭を少しだけ鞄から出すと、周囲をキョロキョロと見渡してから、話しかけてきた男子生徒の方を見た。
「私はわたあめです。フレンディという商品名で販売されているAIロボットです。どうぞよろしく。ちなみに、わたあめという名前は翔がつけてくれました。いい名前でしょう?」
「フレンディって聞いたことある! 広告で見たやつだー!」
男子生徒がそう言うと、周囲の生徒達がわっと集まってきた。彼らは物珍しそうにわたあめと話し、ふわふわの体に触れた。気がつけば翔の周りには人だかりができており、わたあめについて色々と質問をされるはめになった。学校生活でこんなに人から話しかけられることは初めてのことで、翔は時々答えに詰まった。そんな時はわたあめが助け舟を出してくれた。いつからわたあめが居るのかとか、誰が買ったのとか、いくらしたのとか、色々な質問をされている内に昼休憩が終わってしまった。おかげで翔は昼食を食いっぱぐれたが、わたあめの「翔はお昼を食べられませんでしたね」という一言により、翔の机にお菓子の山ができた。空腹には変わりなかったが、授業の間の休憩時間の度にそのお菓子を食べることでなんとか一日を終えた。
「もう、ついて来るなら一言いってくれれば良かったのに」
学校を出て家に向かう道すがら、翔は言った。彼はリュックを前に持っていて、そのリュックからわたあめが顔を覗かせていた。
「すみません、相談したら断られると思ったものですから」
「そりゃそうだよ。本当なら勉強に関係ないもの持っていったらいけないんだからな」
「私は辞書としても使えますし、高校までの授業なら教えることもできますよ」
「それはそれで先生に怒られそうだよ……」
「そうですか。ううん、人の世界は難しいものですね。でも、今日は一人じゃありませんでしたね!」
わたあめは嬉しそうに笑った。
「え?」
「お昼ご飯は食べられませんでしたが、お昼の時間は人に囲まれていました」
「あ……。そっか、僕が昨日あんなこと言ったから」
「翔、信号が点滅していますよ。早く渡りましょう」
横断歩道を歩いていた翔はふと上を見た。わたあめの言った通り歩行者用の信号が点滅していて、翔は小走りに横断歩道を渡っていった。
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