21.とある男子の想い

 祈織から残念な報せがあったのは、夏を目前にした日曜のことだった。

 午後からの部活のために身支度をしていたところでスマホが鳴った。


『神条先輩のことは諦めろ』


 何の前触れもなく、その一言だけが画面に映し出される。

 祈織のことは中学時代からよく知ってる。だからわかる。

 ああ、神条先輩は俺には相応しくない相手だったんだなって。

 あいつは意味もなく諦めろと言うやつじゃない。あいつが失敗する姿も想像できねえ。俺の恋路の邪魔をするなんて以ての外。

 こんなメッセージを送ってきたのは、あいつなりの優しさと、神条先輩と契約を結ぶべきじゃないって判断してのことだ。

 理由は知らねえ。祈織はいつも1人で全部背負い込んで、1人で全部解決しちまう。

 その祈織が諦めろって言うんだ。多分、神条先輩と何らかの接触を果たして、契約どころじゃなくなったんだろうな。

 別に驚くことじゃねえ。

 人は誰しも他人に見せられねえ裏の顔を持ってる。

 俺もそうだからわかる。裏表のない人間なんて居やしねえ。自分がそうだと豪語するやつがいたら、そいつはただの嘘つきだ。

 神条先輩にもそれがあっただけの話だ。祈織は神条先輩の抱える裏の顔を知って、危険の芽を摘んだだけ。

 俺にとっちゃありがたい話でしかない。

 悪い女に捕まらなくて済む。俺の隣に置くに相応しい女を安全に見つけられる。天沢祈織っていう面白いやつを近くで鑑賞できる。

 祈織は俺の予防線であり、俺は祈織の遊び道具の提供者。

 親友とは名ばかりの歪な関係だ。この関係がもう2年以上続いてることが不思議でしかねえ。ただ、そんだけ続けてりゃこの関係にも愛着が湧く。

 あいつは俺をどう思ってるか知らねえけど、俺はあいつを信頼してる。

 祈織が無理だって判断したなら、俺はそれに従うだけだ。

 今回が初めてってわけじゃない。前にもやめとけって忠告されることはあった。

 違うことがあるとすれば、何故か胸の中につっかえたこの割り切れないモヤモヤした気分だけだ。


「あいつがダメだって言うなら、俺は従うだけだろ」


 自分にそう言い聞かせる。

 この得体の知れない気持ち悪さを飲み込んでしまいたかった。一刻も早くスッキリしたかった。


「顔が良いから傍に置きたかった。スタイルが良いから俺のものにしたかった。有名だから皆に見せつけたやりたかった。それだけだろ」


 一人部屋の寮で誰に言うでもなく言い訳を並べる。

 祈織が言うことは全て正しい。祈織のやることに間違いはない。この学校のシステムに過小評価されるような人間じゃねえんだ、本当は。

 少なくとも俺なんかよりよっぽどできた人間だ。

 容姿は整えりゃSランクを取れる。学力や身体能力はわざと下げてる節がある。社交性や順応性だって俺よりも上だろうな。

 祈織のことを考えると、尊敬と劣等感が同居して常に競り合う。

 そのせいか。素直に納得できねえのは。

 思えばちゃんと恋愛相談をしたのは今回が初めてだったかもしれない。

 祈織が相手の情報を集めてお膳立てをする。そこまではいつものことだ。いや、お膳立てって程でもねえな。情報収集だけやってもらって、後は俺が上手くやってきた。

 これでも女の扱いは慣れてる方だ。口説き文句の1つや2つ、簡単に思いつく。

 だけど、今回は違う。

 その全てを祈織に手配してもらった。結果、俺は神条先輩と偶然出会って、偶然にも祈織の友人として再会した。

 違うな。あれは全部祈織が仕組んだことだ。俺を特別棟に呼び出したのもそのためだろうな。

 とにかく、俺は今回自分では何もしなかった。

 理由は……何でだっけ。

 Sランカー相手だから怖気付いたか? それとも確実性を上げるためだったっけ?


「本当はわかってんだよな」


 祈織に丸投げしたのも、神条先輩に本音をぶつけたのも、この飲み込めない気持ち悪さも、根底にあるのは全部同じだ。

 俺はきっと、本気だったんだ。

 そう、言わば一目惚れってやつだ。俺は神条先輩を一目見た時から本気で好きになってたんだ。

 だから嘘をついた。俺にしては珍しく。

 神条先輩に何を相談されたところで俺には解決できない。

 それでも俺は、彼女の前でかっこつけたくなった。それだけじゃない。彼女のためならできないことでもやってやるって意地を張った。

 決意みてえなもんだ。丸山のことだろうと神条先輩の裏の顔だろうと、彼女が困ってんなら俺がなんとかしてやりたいって思ったんだ。

 それがまさか、祈織に諦めろって言われるとは思わずにな。

 天沢祈織は選択を間違えない。あいつが諦めろって言うなら諦めるべきなんだ。

 あいつの過去を少しだけ知ってる俺だから言えることだ。

 大きく息を吐いて、意味もなく祈織からのメッセージに焦点を合わせる。返信するでもなく、手持ち無沙汰な指で軽く画面をフリックする。

 そうしてふと、ある一言が視界に入った。


『逃げるな。お前の気持ちはその程度じゃないだろ』


 俺は祈織に劣等感を抱いている。俺は何もできないやつだと俺が一番知っている。

 そんな俺を後押しするために送ってきた、祈織からのメッセージ。


「お前はどこまで俺のことをわかってんだろうな」


 神条先輩と話せない俺に送られてきたこのメッセージでさえ、今の俺には別の意味を持つように見える。

 俺の気持ち……か。それはどこにあるんだろうな。祈織から見える俺の本心は一体どれなんだろうな。

 俺にもそれはわからない。ただ、今の俺の気持ちに素直に従うなら──

 俺は2つのショートメールを送って、すぐに部屋を出るために支度を始めた。



※※



 日曜の校舎は部活動に励む生徒の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が活気よく木霊していた。

 もうすぐ部活が始まるってのに、俺の足は教室棟に向けて進む。

 自分の意思で部活をサボるのはこれが初めてになる。

 ずっと真面目に向き合ってきた。俺にとっては弓を引いてる時間だけが良いことも嫌なことも全部忘れて無心になれる唯一の時間だった。

 俺が弓道を続けるのは、単純に弓道が好きだってのもあるけど、そのかけがえのない時間が心地よかったってのが大きい。

 弓道をやってる時だけは、俺は自分の気持ちに向き合えてる気がしたんだ。

 人気のない教室棟の階段をゆっくりと上っていく。日曜だけあって部室もない教室棟には生徒の姿はまるでない。

 だからこそ密会の場所としてここを選んだんだけどな。

 3年1組の教室の前で足を止める。なんとなくだけど、彼女は一足先にこの中で待ってる気がした。

 鼓動が早くなる胸を抑えて、大きく深呼吸した。

 何を緊張してんだ。ガラにもねえ。相手が誰でもいつもの調子で軽く接すりゃいいだけだ。

 頭の中では理解してるはずだ。祈織の言うことに背いてもろくなことになりゃしねえ。

 俺は自分の信念に従って失敗した。一度は立場も俺を俺たらしめる尊厳も全て失った。

 祈織が救ってくれたから今の俺がある。祈織のおかげで俺は俺でいられる。

 だけど、今はどうだ?

 俺は祈織の言葉に逆らった。ここに居るのは俺の意思だ。

 これは俺が決めたこと。あいつが保障できない未知数の未来だ。

 この先に進めば、この扉を開けてしまえば、祈織は俺を助けてはくれない。今日だけじゃない。この先分岐する未来において、成功も失敗も全て俺に降りかかる。

 本当にそれでいいのかと俺が俺に問いかける。

 何を今更。ここに来た時点で俺の答えは決まってるようなもんだ。

 俺はもう一度深呼吸して、扉に手をかけた。


 スライド式の扉をゆっくりと開けると、やっぱり神条先輩はそこにいた。

 窓の外に視線を向けていた彼女が少しびっくりしたみたいにこっちを見る。

 少し苦しそうに微笑む顔が見てらんなくて視線が逃げる。

 ふと視界に入った時計は12時前を示していた。そろそろ弓道部の連中が弓道場に集まる頃だ。

 部活しか取り柄がなかった俺が遅刻したら、先輩も1年のやつらもびっくりするだろうな。

 念の為にスマホの電源は切ってある。これで邪魔するやつもいない。

 後ろ手に扉を閉めると、神条先輩は口を開く。


「岩下くんからの誘ってくれるとは思わなかった。今日は部活じゃないの?」

「そうっすね……」


 続く言葉が見つけられずに話が途切れる。

 喉が締まる感覚が酷く不愉快だ。話さなきゃいけねえのに、話したいことがあるのに、上手く言葉にできない。


「私も岩下くんに会いたいと思ってたんだ。誘ってくれて嬉しいよ」

「それは……よかったっす」


 またそこで話が終わる。いざ離そうとするとどうにも緊張しちまう。

 これはただの緊張か? いや、違うな。それだけじゃない。

 怖いんだ。この一歩を踏み出すのが。その質問を口にするのが。

 だから俺は、扉の前から動けずにいる。会話を繋げられずに黙り込む。

 自分では何も決められねえ。これが全てを祈織に頼りきってきた代償か。情けねえったらねえな。


「大事な話があるって言ってたよね。君は部活で忙しいだろうから、手短に聞こうか」


 痺れを切らしたのか、神条先輩が要件を促す。

 手短に。その一言が彼女がこの場に長居するつもりはないって言ってるように聞こえた。

 表面通りに俺を心配してのこと……とは到底思えない。彼女自身がそうしたいって言ってるようにさえ思う。

 先輩と祈織は何を話したんだ。なんで先輩を諦める話になったんだ。先輩はどうしてそんなに苦しそうなんだ。

 聞きたいことは山ほどある。けど、何よりも言っておかなきゃならないことがある。


「神条先輩。俺と付き合ってください」


 神条先輩は不意をつかれたように目を丸くした。多分俺もそうだ。

 違う。何言ってんだ俺は。俺はただ、神条先輩とこの先も仲良くできりゃいいって思っただけだ。

 先輩が俺をどう思ってんのか知りたかっただけ。祈織からのメッセージの真意を先輩から探ろうって思っただけなんだ。


「あっ……今のは違くて、その……」


 顔が熱い。触らなくてもわかる。頭がガンガンして、風邪ひいた時みてえな感覚に襲われる。


「あれっす! 先輩が元気なさそうだったから笑わそうと思って! ただの冗談ですよ!」


 自分でも無理のある誤魔化しだと思う。まともに先輩の顔が見れねえ。これじゃあ何しに来たのかさっぱりわかんねえ。

 バタバタと手を動かして必死にアピールしてみる。けど、先輩からは何の反応もない。

 怒らせたかと思って、横目でチラッと先輩の様子を見る。

 俺は唖然とした。

 神条先輩は泣いていた。ポロポロと涙を流して、呆然と俺を見ていた。


「何で……泣いてんすか」


 俺がそう声をかけるまで、先輩自身気付いてなかったらしい。

 驚いたように目元を拭って、溢れる感情を必死に拾う。


「何でだろう……私にもわからない。嬉しいのに悲しいような。複雑な気持ち」

「告白なんて慣れてると思ってたっす」

「うん……そうかもね。でも、なんだろう。変な気分なんだよ」


 俺の告白に迷惑してるって感じじゃない。そう単純な話には見えない。

 聞けるとしたら今かもしれねえ。


「先輩。祈織と何かあったんすか」


 神条先輩は少し考える素振りを見せて首を振る。


「何も無いよ」

「今日、あいつに言われたんすよ。先輩のことは諦めろって」

「諦めろ、か。そう言われたのに君は私をここに呼んだの?」


 矛盾してる。そう言いたげだ。俺もそう思う。矛盾してる。

 今までの俺ならきっと祈織の指示に従って、先輩のことはすっぱり諦めて新たな相手を探してただろう。

 だけど、俺はここにいる。神条先輩の目の前にいる。俺自身、その理由すらわからないまま。


「私からも同じことを言わせてもらうよ。私のことは諦めてほしい」


 目元を赤く腫らした先輩に突きつけられた拒否の言葉。

 これは告白を拒否されたのと同じだ。君とは付き合えない。そう言ってんだ。

 やっぱり祈織の言うことは正しい。俺は間違えたんだ。

 勝手に勘違いして勝手に暴走した。その結果、無様にも振られることになった。

 それが全てのはずだ。


「こうなるのはわかってたはずなんすけどね」


 祈織に背いたから失敗した。そうなることはわかっていたことだ。

 それなのに俺は、諦められなかった。


「昔からそうなんすよ。あいつは未来予知でもできんのかってくらい何でもわかっちまう。俺が先輩に振られることもあいつにはわかってたんすよ」

「振られるって知ってたのに、どうして君は諦めようとは思わなかったの?」


 言葉に詰まった。その質問に対する正しい答えを持っていなかったからだ。

 俺は祈織に救われてから、ずっと祈織の言いなりだった。

 脅されてたとか、痛い目に遭わされたとか、俺に都合の良い理由じゃない。

 俺がそれを望んでた。脅されるよりもよっぽど惨めな理由だ。

 そんな俺が嫌だった? 祈織におんぶにだっこの生活から抜け出したかった?

 それもある。いつまでも祈織に世話になるわけにはいかねえ。惨めな俺から脱却して、祈織に対するコンプレックスを払拭してえ。

 だけど、俺が神条先輩と話さなきゃならないと思った理由としては適切じゃない。

 もっと簡単な話なんだ。ずっと気づいてたはずなんだ。


「神条先輩が欲しい。ただそれだけっすよ」


 俺の気持ちに正直に。これも祈織が言ったことだ。

 俺は先輩が欲しい。神条先輩を傍に置きたい。これが俺を突き動かす感情だ。

 でも、それも少しだけ違う気がする。

 今度はしっかりと先輩の瞳を捉える。

 先輩もまた俺の目をじっと見ていた。


「俺は先輩が好きなんだと思います。あんたを放っておけない。困ってるなら助けたい。上級生とやり合うことになっても、祈織に背くことになっても、俺はそうしたい。ただ、それだけっす」


 この感情を恋と形容していいのかはわからない。

 苦しいのに気持ちが昂る。怖いのに止められなくなる。

 思考とは裏腹に勝手に体が動くんだ。諦めんな、お前はこの程度かって背中を押されるんだ。


「本気で人を好きになったことがない俺には、この感情が何なのかわかんねえ。けど、俺ん中に渦巻く多くの矛盾と抑えきれない感情に名前をつけるなら、恋って名前が一番しっくりくるんすよ」


 俺の選択は多分、間違ってんだと思う。

 祈織の考えせいかいに反する行動に出てんだ。本当は神条先輩に会うべきじゃなかった。祈織の言う通りに次に進むのが正しかったんだと思う。

 だけど、俺は知ってしまった。この気持ちの正体を。本気で人を好きになるってことを。


「抑えられねえんすよ。先輩のことをもっと知りたい。なんで悩んでんのか。なんで諦めなきゃなんねえのか。それだけじゃねえ。好きなもの。好きな場所。好きな歌。好きなタイプ。何でも知りてえ。そんで、もっとあんたを好きになりてえ」


 恋は盲目って聞いたことがある。

 人を好きになると何も見えなくなって、無我夢中で突っ走るみたいな意味だ。

 俺は今、まさにそれを体験している。


「祈織が俺を止めようとしても、先輩が俺に諦めろって言っても、もう無理なんすよ。制御出来ねえんすよ。先輩に会いたくて仕方ない。先輩のことを考えたら苦しくなる。傍に置いとかねえと不安になる。だから俺は諦めきれなかった」


 失敗とか間違いとか、きっかけとか関係の深さとか、そんなのどうでもいい。

 俺はただ、この感情に突き動かされてここにいる。

 理由なんてどうでもいいんだよ。この気持ちに正直に動いた。それがこの結果だ。

 感情のままに吐き出した言葉は、確かに神条先輩に届いてた。

 涙となって、複雑な表情となって、彼女の抑えきれない感情が溢れてた。

 一世一代の告白。その返事を黙って待つ。

 やがて先輩は静かに首を横に振った。


「私は、君とは付き合えない」


 締め付けられた喉から絞り出すような苦悶の声。


「やっぱり私は君に相応しくないよ。私は君が思うほど立派な人間じゃないんだよ。だから……」


 その先を口にしなかったのは彼女の優しさだ。あえて何度も断らずとも俺なら理解してくれるっていう期待でもある。

 これまでの俺ならそれで諦めたんだろう。けど、今は違う。


「立派じゃなきゃダメなんすか?」


 その理由に納得できなくて食い下がる。


「俺が先輩を好きになった理由なんて、自分でもわかってないっす。でも、先輩が勉強も運動もできる完璧な人間だから好きになったって、それだけじゃないって確信はある」


 最初は一目惚れだったと思う。顔がすげえ好みだった。彼女を選んだ理由はそれだけだ。

 だけど、それだけじゃない気がする。


「なんつーか、どこか似てる気がしたんすよ。俺と先輩って。優秀な成績を残してて顔も良い先輩と俺が似てるなんて失礼かもしれないっすけど、そう思った」

「似てないよ」


 先輩はきっぱりと言い切った。その暗い声色に思わず怯む。

 俺が怯えてるように見えたのか、先輩は気を遣って笑顔を見せる。


「私は多くの人を傷つけたんだよ。私の身勝手な行為で人の心を弄んだ。この罪は一生消えないんだよ。だから私はもう──」


 なんとなくだけど、その先は聞きたくないと思った。

 先輩を諦めなきゃならない理由。先輩が俺を拒む理由。先輩が自分自身を卑下する理由。

 それら全てが繋がって、先輩が言おうとしてることがわかったんだ。

 そのせいか。俺は自分でも驚くようなことを口走っていた。


「そんなもん、俺が一緒に背負ってやる」


 先輩がこの学校からいなくなる。そんな予感が俺の口を勝手に動かした。

 そうはさせねえ。初めて芽生えたこの恋をこんな結末で終わらせてたまるか。

 先輩のためとか、立派な理由じゃない。俺のために先輩を辞めされるわけにはいかねえ。

 こんな結果、誰も望んでねえはずだ。


「背負うって……私は自分勝手に人を傷つけたんだよ。何人もの男子と付き合ってた。それが快楽だった。私は普通じゃない。今更人の気持ちに向き合うなんて」

「そんな過去のこと、今は関係ねえだろ」


 少し強い口調になって感情が溢れる。


「先輩が言ってんのは自分に対する罪悪感でしかねえ。俺のことが嫌いって言うなら諦めもつくけど、自分は相手に相応しくないって勝手に決めつけて、勝手に振ってんじゃねえよ。そんなん、納得できるかよ」


 俺がこうも否定するとは思わなかったのか、神条先輩は目を丸くしていた。


「過去がなんだ。罪がなんだ。んなもん関係ねえよ。惚れた女が困ってんなら助ける。泣いてんなら笑わせる。道化にだってなってやる。苦しんでんなら救う。誰を敵に回しても俺だけが味方になってやる。悪いことしたんなら背負ってやる。一緒に頭下げてやる。それくらいできなきゃ嘘だろ」


 人を好きになるってのは、そう簡単なことじゃない。

 そりゃあ、ただ好きだって軽い言葉を口にするだけなら誰にでもできる。

 だけど、本気で人を好きになって、本気で向き合うのは難しい。

 祈織の後ろについて行くだけだった俺にできるとは思わねえ。

 でも、それじゃあ俺が今抱いてる感情はなんだって言うんだよ。


「俺は人を傷つける嘘はつかねえ。自分の気持ちに嘘はつかねえ。何も持たねえ俺だけど、この信念だけは揺るがねえんだ」


 ここで彼女と向き合えなきゃ俺の気持ちに嘘をつくことになる。自分の気持ちをひた隠しにして後悔しながら生きてくことになる。

 そうなるくらいなら、たとえきつく苦しい茨の道でも突き進んだ方がマシだ。


「もう一回言います。先輩のこと、もっと教えてください。傷つけた相手に俺からも謝らせてほしい。そんで、全部が清算できて、俺と向き合えるようになったら、俺と付き合ってくれませんか」


 先輩はぼろぼろと涙をこぼして、凛々しさの欠片もない顔をしていた。

 今度こそ俺の気持ちはちゃんと伝わったと思う。


「本当にいいの? 後悔しない?」

「それは……わかんねえっす。俺は先輩のこと、何も知らないっすから」


 嘘はつかない。これは本音だ。

 でも、もう1つ言えることがある。


「この先後悔するかはわかんねえっすけど、少なくとも今は後悔してないっす。先輩と会うって決めて、ちゃんと告白できて良かったって思ってます」


 そう言うと先輩は涙でいっぱいの顔で、少しだけ嬉しそうに笑った。

 俺たちは互いのことを何も知らない。

 過去のことも。裏に抱える黒い感情も。好きなものも趣味も嗜好も何も知らない。

 過去のことなんて俺たちには何もわからない。

 それと同じで、未来のこともわからないんだ。

 人は変われる。俺が祈織に甘えることを辞めたように、先輩も過去と決別して前に進めるはずだ。俺が初めて恋をしたように、先輩も俺に恋をしてくれるかもしれない。

 暗闇を抜け出した先も暗闇が続いてるだけかもしれない。この選択に後悔する日が来るかもしれない。

 だけど、一つだけはっきりわかることもある。

 それは今、俺が神条先輩に恋をして、先輩のために人生を捧げていいと思ってるってことだ。

 何も知らなくても、何もわからなくても、今この瞬間に後悔しない道を選びたい。

 それが過去の後悔を清算して、未来の後悔を生まないと信じて。

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