14.波乱の初デート

 人間の本性は生まれながらにして決まっている。

 孟子曰く、人の性は善であり、悪は物欲の心により後天的に生じるものであると。

 荀子曰く、人の性は悪であり、善は学びにより後天的に身につくものであると。

 性善説と性悪説の考え方だ。

 これらの思想は時に相反するものとして列挙されるが、実はそうではない。

 荀子の説く悪とは人間の弱い心を指しており、孟子が説いた『物欲の心に支配されて人間は悪に染まる』という考えを否定し、『人間は元々物欲に満たされた悪ではあるが、学問を修めることで善となる』と言っているのだ。

 その思想に沿うのなら、俺は断然性悪説を推す。

 人間は生まれ育った環境や周囲の人間関係、そこから生まれる自我により枝分かれして成長していく生き物であり、生まれながらにして善だ悪だと決めつけられるほど単純な動物ではない。

 そうでなければ、人間の思考はもっと短絡的で表面的なつまらないものになってしまう。

 人間には誰しも裏がある。プロのスポーツ選手だろうと、人気の俳優だろうと、友好的で明るい人物であろうと、物腰柔らかく穏やかな人間だろうと、規律正しく品行方正な人格者であろうと、その事実は変わらない。


 当然ながら、その事実は俺にも当てはまる。

 この恋情養成高等学校における俺の立ち位置は、目立たない無口な生徒だと大抵の人間が認識している。

 ……数名、俺の本当の性格を知っている生徒も居るが、それでもまだ表面的な部分を出ていない。

 俺がどんな人間なのか。過去にどのようなことが起こったのか。俺の家族構成や周囲との相関図。

 全てを知っているのは、俺自身と喜一くらいだ。

 俺の知られざる過去。何をしてでも隠さなければならない本性。

 それらを隠蔽するために、俺はこの外界から隔絶された学校に入学した。


 ところが、現実はそう甘くなかった。

 条件を満たせば校外への外出が許可されるというルール。恋人契約という制度に潜む爆弾。

 過去から逃れるためにこの学校を選んだはずが、いつの間にか自分の首を締め付け、対処を余儀なくされている。

 元を辿れば、刺激を求めて享楽を選んだ自分に責任があり、自業自得で片付く話ではある。

 自分が犯した過ちは自分で片付けなければならない。

 今、こうして突きつけられている選択もその罪に対する罰なのかもしれない。


「さあ、選べよ天沢。俺と地獄まで付き合うか、1人で地獄に落ちるか」


 俺に選択を求めた美能は、不敵に顔を歪ませていた。

 そんな彼を前に、俺は思う。

 やはり昔の思想家の教えは肝心なところで役に立たないんだなぁ、と。



※※



 怒涛の1週間が終わった土曜日。

 これまでの人生を振り返っても、この1週間ほど濃密な時間は無かったと思う。

 学校から支給された端末には連絡先が増え、ショートメールのやり取りも毎日のように行っている。

 友人が増えたと喜べないのは悲しいところだが、関係性が広がったことは嬉しくもある。

 今後の学校生活を穏便に過ごし、かつ愉快なものとするには、面白い話が流れ込んでくる情報源が必要だ。

 俺1人が周囲にアンテナを張り巡らせたところでその範囲は限られる。良くて同じ学年の情報止まりだろう。

 これが2人、3人と増えれば話は違う。学年が違えばもっと情報の幅は広がる。

 恋愛において最も重要なのは情報だ。己を知り、人を知る。

 それが恋愛成就に繋がる最大の取り組みであると恋愛未経験の俺は語る。

 つまりは、恋愛蔓延るこの学校を生き抜くための第一歩を踏み出した1週間と言えるだろう。


 これまでの情報を整理しながら端末を眺めていると、手の中で突然小さく震え出す。ショートメールの報せだ。

 遊びの誘いかとわくわくする気持ちを抱いてみたいものだが、残念ながらそうではない。


『デートの待ち合わせ、12時にアインスって店の前でいいかな?』


 これはデートの誘いだ。学校のない週末にデートなんて、響きだけなら素敵なものだ。青春だ。

 字面だけならとうとう俺にも春が来たと誰もが思う。

 まあ、これはある種の業務連絡でしかないというのが現実だけどな。

『わかりました』とだけ入力し、送信ボタンに手をかける。

 が、俺は少し考えてもう一言付け加えておくことにした。



 恋情養成高等学校には、比較的安価で食事や娯楽が楽しめる『ストリート』と、銀座をモチーフに造られた高級ブティックや料理店が並ぶ『ラグジュアリー』とで大きく2つに分けられる。

 あまりお金を持たない1,2年生には特にストリートの方が人気で、多くの3年生や職員も休日にはストリートへ足を運び、思い思いの時間を過ごしている。

 一方でラグジュアリーはどの店舗も学生では背伸びしなければ届かない高価な価格設定が成され、休日であろうと利用者は少ない。

 ラグジュアリーの存在意義は、将来を見据えた男女が大人への階段を上るための1段目であり、また一世一代の告白を目前にした生徒が渾身のアピールをする場所として利用されるからだ。

 俺は、場違いな完全アウェイの空間に突っ立っていた。

 時刻は12時を少し過ぎた頃。ラグジュアリーは夜がメインとはいえ、人の姿はちらほら見られる。

 その誰もがフォーマルな服装に身を包み、俺を横目に見てはくすりと笑う。

 俺も一応白いシャツにカッチリとしたジャケットを羽織り、持っている中では一番この場に似合う服装で来たつもりだったが、格式高い場所にそんな格好で佇んでいれば、道に迷った1年生にしか見えない。正直恥ずかしい。

 早く来てくれと願い続けること5分。ようやく彼が現れた。


「やあ。遅れてごめんね」

「本当に……いや本当の本当に勘弁してくれません?」


 へらへらとした笑みを浮かべて近付いてきた美能先輩を一目見て絶句する。

 ポロシャツに短パン、派手なピアスとネックレス。

 どこをどう取ってもこの場に相応しくない格好で現れたからだ。


「その格好は何ですか。美能先輩ほどの人ならスーツくらい買えたでしょう」

「何って、似合ってない?」

「そういう問題じゃないです。ここ、ラグジュアリーですよ。俺たちだけ異様な雰囲気なんですが」

「畏まった服は好きじゃないんだよ。制服でさえ窮屈なのに、休みの日まで服に縛られたくないんだ」


 そんなわがままな……じゃあどうしてラグジュアリーの店を選んだんだ。この人の考えていることはわからない。

 明らかに場違いな2人の男たちを盗み見るいくつもの好奇の目。

 しかし、その目は彼の姿を捉えた瞬間に逸らされる。

 生徒会の副会長だから敬遠しているのかと考えていると、「ほら、入るよ」と声をかけられ、美能先輩に視線を戻す。

 彼の進む先は俺の背後。煌びやかな文字で『EINS』と書かれた、明らかに高そうな店だった。

 何事もなく入店しそうな美能先輩を慌てて呼び止める。


「あの、ここってラウンジじゃないですか?」

「違うね。ラウンジよりももっと高い最高級クラブさ」

「俺たち未成年ってことわかってます? それに俺、あんまり金持ってないですよ」

「大丈夫大丈夫。ここは俺が奢るから」

「いやそれ以前の問題なんですけど」


 何故未成年が集う高校の敷地内にクラブがあるのか。誰が使うんだよ、ここ。

 教師や学校のお偉いさんのための場所なのか、未成年でも大人の世界を楽しむための場所なのかとその存在意義についての答えを探している間に

無理やり肩を組まれる。

「気にしない気にしない」と楽観的な美能先輩に俺は為す術なく連行された。


 薄暗い空間に数多の間接照明とミラーボールが眩く会場を照らし、最奥ではDJがテンアゲなBGMを流しながら場を盛り上げ、男も女も酒に任せて日頃の自分を忘れて踊る。

 俺の中にあるクラブのイメージだ。大人の社交場。アルコールと音楽漂う憩いの場。そんなイメージがあった。

 しかし、店内は盛り上がりなど一切ない、落ち着いた雰囲気の店だった。

 カーテンが締め切られ昼であっても薄暗いのは間違いないが、照明がほどよく店内を照らし、スピーカーからはジャズの音色が穏やかに響く。

 ホステスのような派手な女性の姿は見られるが、過度な露出はなく優しい微笑みとともに「いらっしゃいませ」と丁寧なもてなしを受けた。

 案内されたカウンターに着くと、若い男性が美能先輩に向けて軽く手を挙げた。


「久々じゃねえか、ひろ坊」

「その呼び方はやめてほしいな。後輩の前なんだからさ」

「おっとそれは悪かったな」


 裕貴だからひろ坊か。可愛いあだ名だな。似合わない。

 思わず鼻で笑うと横から鋭い視線が向けられ、咳払いで誤魔化す。


「ここって最高級クラブじゃなかったんですか? 思っていたより随分と落ち着いた雰囲気ですが」

「天沢の想像は間違ってないと思うけど、この店は少し特殊なんだよ。このマスターが物好きでさ。カフェもクラブもやりたいってことで、昼と夜で営業形態が違うんだ」

「なるほど。面白い店ですね」

「そうだろうそうだろう。君はセンスがある!」


 派手な金髪の男性はビシッと親指を立てて、それは嬉しそうに笑った。


「君、名前は?」

「天沢祈織です」

「そうかそうか。天沢くん、今日は好きなだけ飲むといい。俺が奢ってやる」

「いえ、それは悪いですよ」

「遠慮するなって。ここに連れて来たってことは裕貴のお気に入りだろ? だったら面白い奴に違いねえ」


 理由になっていないと思うんだが。

 類は友を呼ぶとはよく言ったもので、美能先輩の知り合いも俺の理解できない人種なのかもしれない。

 頭にはてなを浮かべていると、美能先輩はメニューを眺めながら口を挟む。


「あまり後輩を困らせないでほしいな。天沢、彼は諸岡もろおか穂澄ほずみさん。アインスの店長で、俺の地元の知り合いだよ」

「知り合いってなんだよ。後輩だろ? こいつってば、小学校からずっと俺の背中ばっか追いかけてよ」

「穂澄さん、俺も穂澄さんの奢りでいいよね。スペシャルランチとコーヒーフロート2つずつよろしく」

「待て待て! 俺が悪かったからお前の分は自分で払ってくれ!」


 本当に仲が良いんだな、と2人の様子を眺めながら、ちらりとメニューに視線を落とす。

 スペシャルランチは6,500円。これはタダで振る舞うには高いな。

 やんやと言い争っていた2人だったが、やがて諸岡さんが根負けして2人分のランチ代を店で持つことになったらしい。可哀想に。

 大人であっても美能先輩には敵わないんだな。いや、この2人の関係があってこそか。

 とぼとぼと裏へ下がった諸岡さんの背中を目で追っていると、今度は派手な女性が近づいてきた。

 俺たち以外に客の姿はなく、暇を持て余しているであろう彼女は、けたけたと声を上げながら美能先輩の背中を叩く。


「ヒロってホント意地悪だよねー。店長、ああ見えてナイーブだから、たまに本気で凹んでるんだよ」

「今回は俺が奢るつもりで来たんですけどね。穂澄さんが余計なことを言ったのでお仕置です」

「あははー、あれは店長も悪いねー」


 今回は、ということはいつもはタダ飯食らいなのか。

 小学校からの仲だと言うし、信頼関係あってのことなのだろうけど、毎回のように諸岡さんが言い負かされる姿は簡単に想像できる。可哀想に。

 派手な女性は美能先輩との会話もそこそこに今度は俺に近づき、わしゃわしゃと頭を撫で回した。近いな。背中に柔らかいものが当たる。

 ところで、この人はどこかで見た気がするんだが……


「ヒロの後輩ってことは祈織は1年だよね? うち、3年の木下胡桃くるみね。こんなに可愛い後輩が居るなら早く紹介してよー」

「胡桃さんに話すとすぐに手を出すでしょ。そんな危険なことさせませんよ」

「えー。全然危なくないし。ねー、祈織?」


 早速名前呼びか。対人距離も心の距離も近いな、この人。

 しかし、見覚えがあると思ったがやはり生徒だったか。全生徒の情報を確認した時に見た記憶がある。

 同意を求められても、俺は彼女のことをほとんど知らない。画面上の情報だけでは、その人柄や性格を把握することはできないからだ。


 それに、今の『危険』という言葉は、『俺が』ではなく『木下先輩が』という意味だ。

 それを示唆するように美能先輩の細い目が俺を咎めている。

 彼女には手を出すな。危険に晒すなという忠告とも取れるな。

 この店に通っている美能先輩にとって、木下先輩には好意か、それに近い感情を持っているのだろう。

 心配しなくとも俺が彼女に危害を加えることはない。

 美能先輩が俺のことをどう思っているかは知らないが、俺は基本的に平和主義だ。俺に害が及ばないなら、俺からどうこうすることはありえない。

 目線で「安心してください」と訴えていると、想いが伝わったのか美能先輩が話を変える。


「胡桃さん、彼女は休みですか?」

「ランちゃん? なら休憩中だよ」

「そうですか」


 どうやらこの店にはもう1人店員が居るらしい。

 その人も俺に紹介するつもりだろうか。そもそも、俺にこの店やここで働く人たちを紹介して何になるのか。

 その目的について思考を巡らせながら3人で軽く談笑を楽しんでいると、諸岡さんが大きなプレートを2つ抱えて姿を見せた。


「ほら、スペシャルランチだ。好きなだけ食ってくれ」

「ありがとう、穂澄さん」


 美能先輩は慣れた様子で箸を手に取り、「やっぱりこのお店のランチは美味しいね」と舌鼓を打つ。

 一方の俺は、目の前に出されたプレートのボリュームに気圧されていた。

 ハンバーグに豚カツ、そしてステーキ。その傍には付け合せのポテトとパスタ。小鉢にサラダが盛り付けられている。白米の姿は見えないが、恐らくその肉の山の下に隠れたオムライスがそうだろう。深くなっているプレートにはホワイトソースが並々注がれていた。

 トルコライスに近いそれは、明らかに1食分のボリュームを凌駕している。これ、全部入るのか?


「どうした、流石に多かったか?」

「祈織ぃー、食べないと筋肉付かないぞー」


 そう言った木下先輩に背中を叩かれ、思わず咳き込む。

 木下先輩は俺がまさかそんなに弱いとは思わなかったのか、咄嗟に手を引っ込めた。


「どうしたんですか? 胡桃さん」

「あ、いや……ちょっと強く叩きすぎたかなーって……」


 力はそこまで強くなかったが、突然のことで驚いてしまった。

 木下先輩に軽く謝って、俺も恐る恐る豚カツを口に運ぶ。


「え、美味いな」

「だろ? 穂澄さんの料理は最高なんだよ」

「この料理に免じて金は」

「払わないよ」


 いや、本当に驚いた。

 豚カツは衣があっさりしていて思っていたより重くない。ステーキも脂身が少なくしつこくない。ハンバーグから溢れる肉汁や卵に隠れていたガーリックライスが食欲をそそる。

 何よりこのホワイトソースのさっぱりとした酸味が大量の肉を前にしても飽きさせない調和をもたらしていた。

 と、饒舌に語りたくなるほどの美味しさ。

 全部は食べ切れないだろうと高を括っていたがとんでもない。

 結局俺は、コーヒーフロートも全てあっという間に平らげてしまった。


「美味しかったです。ご馳走様でした」

「そりゃよかった。天沢くんなら割引してやるからまた来いよ」

「そうですね。必ず」


 落ち着いた雰囲気に満足のいく料理。多少高い金を払ってもまた来たいと思った。

 美能先輩が俺をここに連れてきたのは、ただの気まぐれか。俺を気に入ったから、お気に入りの店を紹介しようという軽い考えだったのかもしれない。


「美能先輩、ありがとうございます」

「そう簡単に感謝なんて述べていいのか?」


 先程までの穏やかな雰囲気から一変。

 美能先輩は先日のような不気味な雰囲気を漂わせていた。


「俺は今日、お前を断罪するためにここへ呼んだんだぜ?」

「断罪? 何の話でしょうか」

「とぼけても無駄だ。お前は神条さんを探るため、様々な情報を集めた。神条さんのことや丸山くんのこと。そして、恋人契約の内容についてもな」

「それが俺の罪だと?」


 美能先輩は首肯して続ける。


「恋人契約に関する情報の中には契約を結ばなければわからない闇が含まれてる。そんなものが存在すると知れれば、契約を結ばない人が現れる可能性があるだろ? だから契約を結ぶ際、契約に関する一切を他言しないという決まりが存在するんだよ」

「なるほど」


 だからこそ罪、か。

 情報を聞き出した俺も、俺に情報を流した彼女も、学校側からすれば罰則の対象になる。

 しかし……解せないな。


「交換条件を交わした俺を断罪して、美能先輩に何の得があるんですか?」

「決まってるだろ。俺に舐めた態度を取った天沢に、どちらが上かわからせてやるんだよ。これから先、ちゃんと俺に従う犬になれるように躾けてやるよ」


 ああ、そういうことか。

 なんとも子供っぽいな。そのためだけに入念に調べてきたわけか。

 だが、そう簡単に真相にたどり着けるとは到底思えない。

 もしも体育祭の日の真実にたどり着いたなら、こんな場を設けなくとも俺は美能先輩を啓蒙する。

 俺の心の内など知らず、美能先輩はスマホの画面を付け、すぐに消す。


「もうそろそろだな」

「それは、どういう……」

「休憩戻りましたー」


 聞き覚えのある声。奥の扉から姿を見せた、俺の知っている女子生徒。

 一瞬目が合った少女──やなぎ蘭華らんかは、俺を認識して咄嗟に目を逸らす。


「さて、役者は揃った。そろそろ本題に入ろうか」


 やはりそうくるか。この人の性格の悪さは俺に勝るとも劣らない。

 にやりと笑う美能先輩に、その事実を改めて再認識した。

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