10.踏み出した一歩
緊張って言葉は、俺には全く似合わないもんだと思ってた。
楽観的でおチャラけた性格。周りの連中も俺自身も自分をそう評価してたからだ。
祈織には緊張するからって理由で神条先輩と2人になることを断ったけど、実際にはそうならないと思ってた。
俺なら普段通りでいられる。だけど、祈織が手伝ってくれりゃ神条先輩と付き合うのも楽になる。
そんな軽い気持ちで相談を持ちかけた。
祈織はああ見えて冴えるやつだ。
現に神条先輩とカフェで会って話せる状況をセッティングして上手く会話を持たせてくれたし、神条先輩も少しだけど俺に好意を持ってくれたって感じた。
多分、さっきの会話と同じで、ここ数日に祈織が色々と根回ししたんだろうな。
そんな祈織の努力は2つのきっかけで台無しになりつつある。
1つは、丸山とかいうメガネ野郎の接触。
あいつは神条先輩と親しげだった。いや、親しく接してたのはあいつの方だけだったか。
神条先輩はメガネ野郎が現れた瞬間からずっと怖がってるように見えた。
2人の間には何かがあって、神条先輩はあいつに恐怖するようになったんだって、何も知らない俺でも気づいた。
さっきはテンパってて全くわかんなかったけど、冷静になれば見えてくる。
多分、神条先輩が進級のために恋人契約を結んだのがあのメガネ野郎なんだ。
そして、その契約期間に何かがあった。
もしかしたら、その何かをネタに神条先輩は脅されてるのかもしれねえ。
ただの妄想だ。だけど、そう思い始めるとそうとしか思えなくなる。
あいつは、神条先輩に近付けちゃいけねえやつだ。それだけは間違いないと思ってる。
そしてもう1つのきっかけ。それは俺自身だ。
手足が上手く動かない。言葉が思ったように出てこない。
俺の体が、まるで俺の体じゃないみたいに言うことを聞かない。
この緊張と何を話していいかわからねえ行き場のない気持ちが、祈織の計画をダメにする。
さっきだってそうだ。
本当なら俺が神条先輩を庇わなきゃならなかった。先輩だろうと元彼だろうと関係ねえ。
神条先輩のことが本気で好きなら、かっこいいとこを見せなきゃならなかったんだ。
それなのに、実際に神条先輩を助けたのは祈織だった。
神条先輩が何を考えてんのか聞くこともできなかった俺の代わりに、祈織があのメガネ野郎を追い払った。
俺はただ見てることしかできなかった。
俺なら上手くやれる。俺なら神条先輩とだって付き合える。
今までも好きになった女とは全員付き合ってきた。
俺はモテるんだ。何でもそつなくこなして、飄々としてる自分を想像して、信じて疑わなかった。
そんな勘違いが全てを台無しにした。
祈織はやることがあるとか言ってたけど、多分半分は嘘だ。
祈織は祈織で何かやることがあるんだろう。それと同時に、俺と先輩を2人きりにするためについた嘘なんだと思う。
親友がそこまでお膳立てしてくれてんのに、俺は何もできてねえ。
今だって、隣にいる先輩にどう声をかけていいのかわからずにいる。
神条先輩はぼーっと空を眺めながら狭い歩幅でゆっくり歩く。
俺も彼女に合わせて速度を落としてるけど、そのせいで寮までの道のりがやけに遠く感じる。
もう30分くらい歩いたんじゃないかって勘違いするくらいの長い時間。いや、実際には10分も経ってないのかもしれねえ。そんくらい長くて苦しい時間だ。気まずいなんてもんじゃない。
神条先輩はずっと何かを考え込んでる。あの男のことだろうってことは想像できる。
でも、何も知らない俺にはその何かがさっぱりわからねえ。
(ああ、クソ)
もどかしい感情が頭の中でぐるぐる回って、上手く言葉にならない。
やるせない気持ちと行き場のない感情が吐き出し口を見失って、俺の中に溜まり続ける。
そんな時、ピロンと沈黙に不釣り合いな軽快な音が響いた。
神条先輩のスマホが鳴ったらしい。さっきまで亀みたいにのんびりしてた神条先輩は慌てて画面を確認した。
数秒の沈黙。たった数秒でさえ、永遠に続く苦痛に感じた。
スマホを仕舞った神条先輩は、顔を上げずに言う。
「岩下くん、先に帰っていいよ」
暗い声色で、たった一言。
きっとあのメガネ野郎だ。そう直感した。
神条先輩の陰りのある落ち込んだ表情がそう言ってる。
やっぱりあいつとの間に何かあることは間違いない。
間違いないんだ。
俺は確認しなきゃならねえ。神条先輩が困ってんなら助けなきゃならねえ。
でも、出てこねえんだ。
あいつのことを聞けば神条先輩が傷つくかもしれねえ。いや、俺が嫌われるかもしれねえ。
それがどうしようもなく怖いんだ。
このままの関係なら少なくとも嫌われることはない。好かれることはなくても、神条先輩と普通の友達として過ごしていくことはできると思う。
でも、嫌われたらそれまでだ。神条先輩に振られる。今まで積み上げてきた何でもそつなくこなす俺が否定される。
彼女のことが好きだって気持ちを否定されるのが怖くて仕方ない。
神条先輩は、俺を振ったとしてもそれを言いふらすような人じゃない。
それでも俺のプライドは傷つく。他人なんて関係ねえ。俺が積み上げてきた俺という存在が壊れる。その事実がどうしようもなく嫌なんだ。
そうだ。俺はそういうやつだった。
神条先輩のことは好きだけど、それ以上に俺は、俺のことが大好きなんだ。
祈織に手を貸すように頼んだのも、俺が必死になって女のケツを追いかけるような真似をしたくなかったからだ。
俺が苦労せず付き合いたい。神条先輩から俺を好きになるならさらに好都合だ。
俺が愛する俺という存在が、他人からも評価される。学校が決めたステータスなんざあっという間にひっくり返る。
神条先輩はそのためのアクセサリーでしかない。俺の価値を高めるための道具でしかない。
容姿Sランクの女を狙った理由はたったそれだけだ。別に神条先輩じゃなくてもよかった。中でも一際注目を集めそうだったのが先輩だったってだけの話。
祈織が俺に神条先輩のどこが好きなのか確認してきたのも、俺のこの真意を確かめるためだと思う。
祈織には全部筒抜けだったらしいけどな。
俺は俺が好きだ。クズだ何だと言われようと、俺の意思は揺らがない。俺という人間の価値だけが全てだ。
だから、神条先輩に関わることで『何でも上手くやれる自分』が崩れることが嫌なんだ。
そうなるくらいならいっそ……。
わかりました。
そう答えようと口を開いた時、今度はバイブ設定にしてた俺のスマホが震えた。
神条先輩に軽く許可を取ってスマホの画面に目を落とす。
『逃げるな。お前の気持ちはその程度じゃないだろ』
誰からの連絡か、確認しなくてもわかる。周囲を確認しても祈織の姿はない。
ほんと、どこまで見えてんだろうな。
祈織は昔からそうだ。同い年とは思えないくらい周りが見えてる。いや、未来が見えてるようにすら感じる。
長らく親友として隣に居たからこそわかる。
口下手で友達が少なくて、何考えてんのかわかんねえから近寄りにくいって言われ続けてた。
その評価は間違ってない。俺も最初は同じだった。
比較対象としてパッとしない引き立て役を置いておくだけのつもりで近づいたっけ。
だけど、俺の選択は間違っていて、それと同じくらい親友でよかったとも思う。
祈織のことを知れば知るほど、あいつの嫌な部分は目につく。
本当は頭が良いのにそれを隠す。運動ができるのに手を抜く。本気で努力して頑張ってるやつをバカにしてるように見えて仕方ない。まあ、それは俺も同じか。
1つ違うのは、祈織は俺よりも余程出来るやつだってことだ。
俺が積み上げてきた『余力を残して何でも飄々とこなす俺』はあいつに叩きのめされた。
長く親友を続けてる俺でさえ底が見えない。手の内が読めない。何を考えているのかさっぱりわかんねえ。
それでもあいつは、自分の好奇心のためなら全てを犠牲にして心を満たそうとする。そして、あいつの思惑は全て思い通りになる。
俺はそんな祈織が心底ムカつくんだよ。
でも、祈織は誰よりも俺のことを理解してくれてた。
俺という自己肯定感の塊みたいな人間の本質を見抜いて、それでも変わらずに接してくれた。
言いふらすことも俺を従えることもなく、俺の腰巾着みてえな残念な立ち位置で俺の傍に居続け、常に俺を引き立て続けた。
だからあいつには感謝してる。誰よりも信頼してる。
神条先輩と付き合いたいなんて相談を持ちかけられたのもそのおかげだ。
なあ、祈織。わかってんだろ?
俺が逃げようとしてた理由も。お前の言う俺の気持ちってやつも。
ああ、そうだよ。
俺は自分のために神条先輩と付き合いたかった。
神条先輩っていう最高の彼女を隣に置くことで自分を誇示したかった。
顔もスタイルも内面も最高の彼女。そんな神条先輩が欲しかったんだって知ってたんだよな。
「この程度じゃない、か」
そう呟いてみると、神条先輩は不思議そうに俺を見た。
ああ、やっぱ美人だな。苦しそうな表情だとしても最高の顔をしていると思う。
(俺の気持ち……)
俺は彼女が欲しい。神条先輩が欲しい。
あのメガネ野郎に取られるのはごめんだ。他のやつに取られるのももちろん嫌だ。
そうだ。動機はクズみたいでしょうもないけど、神条先輩と付き合いたい、全生徒に俺の存在を知らしめたいって気持ちは誰にも負けねえ。
その未来のためなら、多少プライドが傷つくことくらい我慢する。必死にだってなってやる。
それが俺の譲れない気持ちだからだ。
俺は深く深呼吸して、神条先輩の手を掴んだ。
逃げるように引っ込めようとするその手を俺は決して離さない。
「さっきの話、断るっす」
「岩下くん……?」
神条先輩は困惑してるような、ちょっと怯えてるみたいな顔をしている。
流石に強引過ぎたかもしれない。だけど、ここで折れるわけにはいかない。
少女漫画みてえな恋愛に憧れてるって話が真実かなんてどうでもいい。
ただ、俺が神条先輩を助けたい。白馬の王子様みたいな存在になって、神条先輩を救いたい。
神条先輩と付き合えるか、なんてこともこの際どうでもいい。
このまま引き下がって逃げる俺は、俺が理想とする俺じゃない。
俺のわがままだろうと関係ない。ちっぽけなプライドのためだろうといいだろ。これは俺の恋愛なんだから。
これが自分に正直に生きることしか取り柄がない俺にできる唯一の方法なんだ。
「神条先輩、正直に話します。俺には先輩が悩んでるように見るんす」
「そんなこと」
「申し訳ねえっすけど、それは信じられないっす。さっきのメガネ先輩に会った後から、ずっと様子がおかしいっすよ」
相手が否定するなら俺にできることは何もない。そうやって自分に言い訳をして俺は逃げた。
あれは逃げだ。本当に神条先輩の言うことを信じたわけじゃねえ。
でも今は違う。俺は逃げねえ。
人の目も気にせず、神条先輩の細い腕をしっかりと掴み直す。
「今の連絡って、あのメガネ先輩からじゃないんすか? あいつが先輩の元恋人なんじゃないっすか?」
「……違うよ」
「安心しろとは言わないっす。会って数時間の他人に全部さらけ出せるなんて思ってないっすから。でも俺は、先輩を助けたい。それだけは信じてほしいっす」
神条先輩は静かに下唇を噛んだ。きっと彼女も悩んでるんだ。
理由は俺とは違う。本気で何か困ったことがあって、悩んで、足掻こうとしてる。
でも、根本は俺と同じだ。
自分と向き合って、このままではダメだって理解して、殻を破ろうと必死になってるんだ。
俺から逃れようとした力が抜けていく。
ここしかねえと確信して、俺はもう一押しする。
「神条先輩に好かれるためなら、神条先輩と付き合うためなら、俺はなんだってやるつもりっす。誰に嫌われようと、他のやつがどんな目に遭おうと、俺は神条先輩の味方になります」
隠し事はもう終わりだ。
俺は親友のお膳立てに応える。自分の本心に応える。
祈織にはない、俺の唯一の長所だ。
神条先輩の腕を握る手に違和感があって、視線を落とす。
神条先輩は空いた手で俺の手を包み込んでいた。
ビックリして視線を上げる。
先輩は苦しそうに眉根を寄せて、じっと俺を見ていた。
「君は、どうしてそこまでするの?」
「好きだから……って言いたいところっすけど、それは少し違います。俺はただ、神条先輩を他のやつに取られたくないだけです」
身勝手な理由で神条先輩は軽蔑するだろうか。ふざけんなって怒るだろうか。
結果はそのどっちでもなかった。
何故か嬉しそうに小さく笑っていた。
おもちゃを欲しがる子供みたいなわがままをバカにするでもなく、本当に嬉しそうに笑ってたんだ。
不思議な感覚だ。
笑った顔が一番可愛い。美人には笑顔も似合うな。
もちろん、そんな感想もあった。
だけど、それ以上に俺の中で燻る感情があった。
この気持ちは何だ?
ふわふわと宙に浮いてるみたいな、浮き足立った気分。
夢見心地のような、ぼんやりと思考が鈍っていく感覚。
そして同時に押し寄せる罪悪感と嫌悪感。
そうだ。俺は謝らなきゃならねえことがあったんだ。
「先輩、1ついいっすか」
「どうしたの、急に改まって」
モヤモヤした感覚から今すぐ抜け出したい。
そのために俺は、罪悪感をこの場で清算しようと決めた。
「俺、本当は数日前に先輩と会ってたんすよ。覚えてますか? 2日前の昼休み、教室棟と特別棟の渡り廊下でぶつかったやつのこと」
今日の神条先輩を見てると、俺のことなんて覚えてないみたいだった。
衝撃的な出会いを果たしたって喜んでたけど、覚えてないなら俺が勝手に舞い上がってたことになる。
覚えてたとしても、あんな失礼なことをしたやつに良い印象は持たねえだろうな。
あの時の俺は、そうやって自分のことばっか考えてた。
今もそんなに変わってねえけど、神条先輩がどう感じたか、何を考えてるかをちゃんと考えることにした。
だからこそ罪悪感を抱くんだ。無神経だった俺の過ちに。神条先輩のことを考えてなかった俺の愚かさに。
神条先輩は薄く口角を上げると、小さく頷いた。
「覚えてるよ。天沢くんが親友を紹介すると言って君が現れた時、内心驚いた。それと同時に、少し嫌だと思ってしまったから」
「それは」
「大丈夫。今はそんなこと微塵も思っていないよ」
違う、そうじゃねえんだ。
神条先輩の俺に対するイメージが変わったとしても、先輩に嫌な思いをさせた事実が消えたわけじゃねえ。
それに、神条先輩の心を変えてくれたのは俺じゃなくて祈織だ。あいつが居なきゃ、俺は嫌われて終わっていたはずだ。
だからこそ、今度は自分で何とかしなきゃなんねえ。
祈織に頼ってばっかじゃなくて、自分の力で神条先輩を振り向かせたい。
そうじゃなきゃ嘘だろ。俺の中に芽吹いた気持ちに嘘をつくことになるだろ。
プライドも恥じらいも全部捨てて、神条先輩から手を離して、誠心誠意頭を下げた。
「あの時は本当にすみませんでした。ほんとはあの時にちゃんと謝らなきゃいけなかったのに、今になって悪いと思ってます」
「い、岩下くん?」
「何を今更って思うかもしれないです。俺への心象が変わったから都合良くって思うかもしれないです。けど、ちゃんと謝らせてください」
「岩下くん」
俺を呼ぶ彼女の声は、咎める教師のような威圧感も卑下する連中のような冷たさもない。
優しくて穏やかで、落ち着くような声。何度も聞きたくなる温かい声だった。
「君は、私が少女漫画が好きだって知ってるのかな」
脈絡のない質問に思わず顔を上げる。
神条先輩が少女漫画みたいな恋愛に憧れてるって話は有名だ。2、3年生はもちろん、神条先輩を狙う1年生の間にも知れ渡ってる。
「それは、まあ。結構有名な話らしいっすから……」
「私が初めて少女漫画に触れたのは6歳の頃だった。恋愛のれの字も知らない幼い私は、恋愛のドキドキする感覚や胸が苦しくなるような想いの全てを少女漫画から学んだんだ。そしていつの間にか、少女漫画のような恋愛に憧れを抱いた」
ぽつりぽつりと語られる神条先輩の過去。
俺は驚きのあまり腰を低くしたまま固まって、彼女の声に耳を傾けていた。
「特に好きだったのは、偶然に出会った男女が恋に落ちる展開だった。お互いにずっと好きで、どう転んでも成就してしまう恋愛のような、最初から結末が決まっている恋愛なんてつまらないでしょ? 2人の気持ちが二転三転して、それでも2人で苦難を乗り越えてようやく結ばれるような、ハラハラする物語が好きなんだよ、私は」
神条先輩が何を言っているのか、俺にはさっぱりわからなかった。
いや、そういう話があるってことはわかる。でも、なんで今その話をしてんのか、それがよくわかんねえ。
ついていけない俺なんてお構い無しに先輩は続けた。
「だけど、大きくなるにつれて諦めるようになった。家族も友達も、そんなのフィクションだって笑うだけ。最初こそムキになって否定したけど、高校生にもなればわかるよ。ああ、現実に奇跡は起こらないんだって。奇跡を願っても、救いを望んでも、そう都合良くいかないんだってね」
そう言った神条先輩は笑っていたけど、どこか悲しそうだった。
諦めたらそれこそおしまいだ。願い続けなきゃ、信じ続けなきゃ叶うものも叶わねえ。
そう言ってやりたかったけど、それこそ夢物語だ。
野球選手になりたいって願い続けて、そのために必死に努力したって、全員がプロとしてやっていけるわけじゃない。
現実にはいつだって限界がある。神条先輩はその限界を知って諦めた。
彼女のことを何も知らない俺が気休めの言葉をかけたところで何も変わらねえ。
だけど、悲しそうに見えた神条先輩は、今度は柔らかく顔を綻ばせた。
「けれど、心のどこかでは求めていたんだ。少女漫画のような衝撃的な出会いを望んでいた。人知の及ばない偶然の出会いから、私を救ってくれる王子様が現れてくれることを願っていた。そして、その出会いが起こったんだ。私と──」
神条先輩は胸が苦しくなるほど優しく微笑み、人差し指をそっと俺に向けた。
「──君との間に」
心臓がけたたましく胸を叩く。喜びと緊張と苦しさと……ああもう、よくわかんねえ。
いろんな感情が俺の中を目まぐるしく駆け回る。血液に乗って全身に広がって、脳に達して頭がパンクする。
理解が追いつかない状況に呆気に取られていると、神条先輩はくすりと笑った。
「諦めかけていたはずなんだよ。でも、実際に起こってしまえば奇跡だって信じたくなる。曲がり角で偶然ぶつかって、第一印象は悪かったはずなのに、相手のことを知るにつれて印象が一転する。そんな奇跡だってあると思いたくなってしまうんだ」
「先輩は、その……何から救われたいんすか?」
ずっと気になっていた質問を口にする。
彼女は眉をひそめて困ったように笑うと、人差し指を自分の口元に近づける。
「それはまだ話せないかな。君が私を救ってくれる時が来たらわかることだから」
神条先輩はそう言って「ごめんね」と続けた。
彼女を困らせているのは、あのメガネ野郎だってことは俺にもわかる。わかった気になってるとかじゃなくて、先輩の表情を見てりゃ伝わってくる。
あいつと何があったのかは知らねえけど、俺にはまだ話せない。当たり前だよな。まだ俺たちの間には何もねえんだから。
偶然出会って、偶然話す機会があっただけ。
もしかしたら、偶然だと思ってる全てが必然なのかも……考えすぎか。
いや、そんなのどっちだっていいんだ。
神条先輩は誰かに救ってほしくて、俺は神条先輩を救いたいと思ってる。
この関係は、俺たち2人の間に生まれたものだから。
俺は、神条先輩の拒否の言葉を素直に受け入れた。
ゆっくりと身を引いて、神条先輩と距離を置く。
「連絡先だけ交換してくれませんか? 何かあれば必ず駆けつけますから」
できるだけ柔らかく、優しい笑顔を向けた。
神条先輩はこくりと頷いてスマホを取り出す。
数秒で連絡先を交換し終えて、俺は彼女に背中を向ける。
「じゃあ、今日のところは先に帰ります。今度は2人で食事でも誘っていいっすか?」
「……うん。楽しみにしてるよ」
神条先輩のことはまだわかんねえことばっかで、今の返事も本心なのか俺にはわからなかった。
ただ、本心からそう思えるようにしたい。先輩ともっとたくさん話して、心の底から楽しいって思えるようにしてやりたい。
この決意だけは本物だ。
返事を聞いて俺は足を踏み出す。
今の俺にはこれが限界だ。
俺にしては頑張ってると思うぜ? 神条先輩本人から、救いを求める声を聞けたんだからな。
でも、あいつなら──祈織ならもっと上手くやったのかもしれない。
神条先輩から悩みを聞き出して、神条先輩を救うための方法だって思いついたかもしれない。
「ああ、やっぱムカつくな、ほんと」
その姿が簡単に想像できる。
やっぱり俺の祈織に対する劣等感は消えない。
俺はあいつをムカつくほど羨ましいと思っている。
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