明日は明日の風が吹く

芳乃しう 

歩いても、そのどこかに行けない。このどこかに行ける。だから、立ち止まる。

真っ白な部屋の中にいた。だだっ広いくせに、物は一つも置いていなくて、クリーム色のフローリングとおしゃれな青いドア、高―い天井の窓からは溢れんばかりの日光が降り注いでいた。そんな部屋のど真ん中で、あぐらをかいて座る私。絵になるだろうな、と思った。決して私が美人であるとかそう言うわけではない。ただ、これだけ抽象化された部屋に、現実そのものである人間が座っていれば、それはもう絵になるだろう。私の感性の問題ではなく、人類はそういう風に感じるのだ。硬いフローリングには埃ひとつなく、日光でポカポカ暖かい。頬を床にぷにっとさせればジンジン温まってくる。そこまでして気づいたが、どうやら私の体は冷えていたらしい。反対側の頬は少しひんやりとしていて。まあ、どうでもいいや。私は立ち上がって、部屋をぐるぐる歩いてみた。靴下だからか少し滑りやすい。ちょっと思いっきり滑ってみた。危うく転けそうになった。けど床は暖かいし、フローリングはクリーム色で、こけてもいいなって思えた。青色のドアは全然開かない。押しても引いてもびくともしない。オブジェクトのような、きっとどこにも繋がらない。そして私がこの部屋を後にすれば、一生ここで時間のない世界でドアとしてあり続けるのだろう。私がいないとドアは、このクリーム色の部屋は、ないのと同じなんだ。けれど、それでいい。むしろそうあるべきで、そしてこの部屋はポカポカとふわふわと、モダンでシンプルでお洒落で、私の頬を温かくする。なんて素敵なんだろう。透明の窓から注ぐ日光。届きやしないよ、私の2、3倍はあるのだから。奥に続く長方形の穴が空いていた。ドアを開けなくても、先に進めたなんて、思いもしなかった。私は何も言わずにクリーム色の部屋から出ていった。だって、怖いんだもん。綺麗すぎて、整然すぎて、抽象的すぎて、ここでは生きていけない。だから私は工場にいた。灰色の工場、ベージュ柄で茶色の汚れがついた、加工工場。ベルトコンベアの前で作業着姿の私が立っていて、お菓子と書かれた何かが流れてきたらボタンを押す。押す、押す、押す。こんなに広いのに私だけ。ベルトコンベアは100個ある。同じように何かが流れるけど、全部加工されずに落ちていく。だったら私もってそうはいかない。私の周りには10人の何かがいる。顔に管理って書いてあって、私を監視している。実は何かを加工するのをうっかりしても、彼らは何も言わない。ただずっと私を見ている。紙を手持ちのボードに貼り付けて、ペンで何かを書き綴る。私の周りで、加工されたものも見ずに、ただ私を監視する。どうして、訳がわからない、いつまでやるの? ボタンを押す。押す、押す、おす、おす、おす。作業着がどんどん汚れていく。くたびれていく。いつの間にか私もくたびれていく、目線が落ちていく。管理人もくたびれていく。けれども管理の一人がボードとペンを投げ捨てた。

「ああ! 幸せだったなぁ! うん! うん! カスが」

 走って走って、コンベアを1つ、1つ、なかったことにする。1人、1人、どっか行っちゃう。最後に、くたびれ果てた誰かがそれでも私を監視する。監視して、満足。じゃあ、バイバイ。あの人はずっと私を監視してた。私をずっと見ていた。私をずっと監視してみていたことを誰かから見られるために私を見ていた。自分が誰かわからなくなった時でも見ていた。私を見ていた。それであの工場にずっとそのまま、灰色でベージュ柄に汚れがついてくたびれた工場に、私を見ていた管理が1人。幸せが向かってくる。工場を破壊しながら主張が回ってくる。ああ、どうでもいい。私は帽子を脱いで、作業着を私の番号が書いてあるロッカーにしまって、少しカジュアルな服に着替えて、タイムカードを押す。勤務時間はきっかり8時間。明日も私は10人に監視される。何かを作るためにボタンを押す。バチバチと、顔が乾燥する。薪を投げるとぼうぼう火の粉をあげる。サファイアとアメジストと夜が混ざったような星空の下で。私と2人が焚き火を囲む。例の如く頭には箱を被っていた。前向き、と後ろ向き。そんな文字。けれども腕を絡ませ肘をつく。皆が見る先は焚き火の炎。前向きが持っていたショルダーバックを燃やした。本とか、ペンとか、時計とか、パーカーとか。そして少し伸びをした。私、前向きのこういうところが嫌いなんだけど。言えるはずないから心の中で呟くだけなんだけどね。それで前向きはどっかに言ってしまった。星も見ずに、薪もくべずにショルダーバックを燃やして、背筋を正しく、暗いどこかへ消えてしまった。後ろ向きが燃えたバックを拾う。腕が燃える。火が後ろ向きを焦がす。

「これでいいんだ。彼は燃やしてしまったけど、きっといつかの私がそれを必要とするんだから。ところで君はどう思うんだい。誰が悪い? いやきっと誰も悪くないさ。けど、誰だってエンジンが必要だとは思わないか? キャンプ道具だけでキャンプをするわけでもないだろう。私はそろそろ落ちる時間だ。いいかい、他者なんてそんなもんさ。前向き、後ろ向き。箱を被った僕たちは、二本足で驚くほど人間らしく歩くんだ。暗闇に消えた彼は、実はそこで眠ったりするんだ。後ろ向きの僕は、どうすればいい? なぁ! ここまで言ったんだ。何もないはずないだろう。早く、教えろ。教えろ、なぁ。はぁ。あーあ」

「あっちに、足湯がありましたよ。全身で入るタイプの」

「何言っってんだか。あっそ、じゃあね」

 焚き火に焼かれて、私と後ろ向きのその後は知らない。消えかけの電球が、ログハウスのバルコニーをチカチカ照らす。カエルとか、虫が鳴いている。Mp4で鳴いている。私はココアを飲んでいた。底に少し丸くコーヒー色はついた家庭用の飲み物用食器。寒くないのに外周をさする。粉っぽいココア、ちょびちょびと、飲む。丸太がお尻を少し痛くして、ああ、全然楽しくないじゃん。呟く。

「ふかふかしなよ」

「ふかふかしなよ」

「ふかふかしなよ」

「よふかししなよ」

「コーヒー、コーヒー。ココア、虫。カエル」

 私は手編みのピンクの手袋を身に付けていた。誰の手袋かわからない。だって、そういう家庭的なものなんだもん。手袋は。生ぬるい暖かさを持って、手袋も、粉っぽいココアも、ログハウスも、黒い点々がついた白い、夜の灰色バルコニー。カマキリでも置こうよ、その辺から取ってきて。そしたら全部私のものって言えるんだから。ピンクの手編み手袋も、粉っぽいココアも、コーヒーの円がついたマグカップもさ。そしたらふかふかしなくてもいいんだもん。ふかふかなんて、しなくていいんだもん。けれども最後に1つだけ。




 人は誰しも夢を見る。これだけ覚えておけばって私は思うんだけどね。

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明日は明日の風が吹く 芳乃しう  @hikagenon

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