中編

僕が雪さんと出会ってから数週間が経った。僕らは確かに友人と言えるような仲になっていた。

けれど、僕はずっと逃げている。本当のことを打ち明けたら、嫌われてしまうのでは無いのか。そんな強迫観念に囚われ続けていた。


そんなことを考えていたからだろうか。酷い夢をみた。雪さんに軽蔑されて、嫌われる夢を。

ハッとして目が覚めた時には、背中が汗でびっしょりと濡れていた。肌に張り付く布の嫌な感触を覚えつつ、起き上がる。

時刻はいつも起きる時間より随分と早かった。

一度シャワーを浴びようとベッドから降りて立ち上がる。


ふらふらとした足取りで向かった脱衣所の鏡に、青い顔色の自分が映った。


「………酷い顔」


まるであの時を思い出すような、生気のない表情。転入する前の学校で起きた、あの事件のことを。

今でも鮮明に思い出してしまう。

あの目を、あの声を、あの感触を。

考えただけで、全身を恐怖が襲う。


きっといつかは告げなくてはいけない。それでも僕はまだあの時のことと向き合えないでいる。だからきっと、まだ言えない。


一体いつまで隠していられるだろうか?直ぐにバレてしまうのだろうか、なんて考えながらシャワーを浴びる。さっきの悪夢も、この堂々巡りの感情も、全てを洗い流すように。


シャワーを浴び終えて、脱衣所に戻ると、鏡に自分が映る。

そこには、女の子じゃない自分が映っている。


きっと隠し通すなんてできない。いつかは伝えなくてはいけない。

この秘密も、淡い愛も。


学校へ向かう支度を終えて、家を出る。

女の子の自分で、外に出る。それは、過去に向き合えない自分の証だった。


教室に着いたら、いつも通りの席に座る。隣人は相変わらずまだ来ない。いつも来るのはギリギリなのだ。

待っている間の暇つぶしに本を開く。

僕を呼ぶ声が、聞こえるまで。

少し待つと、僕を呼ぶ声が聞こえた。


「おはよ〜陽星」

「おはよう、雪さん。今日は随分と眠そうだね」

「まぁね、少し寝不足でさ」

「何かやることでもあったの?」

「宿題溜め込んじゃってさ、それやってたら明け方になっちゃったんだよね」

「ああ、なるほどね。じゃあ授業中寝ないように気をつけないとね」

「陽星が起こしてよ」

「気づいたらね」


いつもと同じ、なんてことの無い会話をする。

この瞬間も、僕は彼女を騙し続けている。いつかは伝えなきゃ、そう思っても自分の過去と向き合えない僕は、臆病者だ。


いつの間にか、一日が終わって帰りの時間になっていた。隣から声が聴こえた。

「陽星、帰ろ。今日はどこか寄ってく?」

「今日はまっすぐ帰る予定だけど、雪さんは寄るところとかあるの?」

「私もないからまっすぐ帰ろうか」

「分かった。今帰る準備するから少し待ってて」


そう言って荷物を纏める。帰る準備が終わり、隣に声を掛ける。


「終わったよ、雪さん。帰ろうか」

「おっけー、こっちも終わったよ」

「じゃあ、帰ろうか」


そうして二人で薄暗い廊下を歩いた後に、靴を履き替え外に出る。

外は夕陽が傾きオレンジ色に染まっていた。

薄暗い夕日が僕を、雪さんを照らしていた。


薄暗い場所は苦手だった。あの日のことを思い出してしまうから。

けれど、今は怖くない。

こんな僕でも、雪さんは呆れず傍にいてくれるから。


けれどそれも、今だけなのかもしれない。本当のことを打ち明けたのなら、もう今のような関係には戻れないのかもしれない。

そう考えると、打ち明けるのは怖かった。


「着いたね。それじゃあ、今日はもう帰ろうか」

「あ、もう着いちゃったね。あっという間だったな」


公園に着いてしまうのが、なんだか寂しく思えてしまい、つい言葉が漏れる。


「じゃあ、少しだけ時間潰してく?丁度自販機あるから飲み物でも飲みながらさ」

「いいの?雪さんがいいならそうしたいな」


まるで、もう少し共にいたいという僕の心を読んだかのように雪さんが言った。


この淡い想いが成就してほしいなんて我儘は言わない。

けれど、いつかは伝えたいと思う。秘密のことも、この想いも。

例え、それが叶わないものだとしても。



クラス替えから少し経ったある日の事だった。

放課後、同じ委員会の子と事務的な会話をしていた時に、雪さんがドアの前の廊下に立っているのが見えたから、話を切り上げて声をかけた。

けれど、雪さんはなんだか上の空で。まともに話を聞いてくれる様子には見えなかった。


僕は何か悪いことをしたのだろうか?

知らず知らずのうちに、雪さんに嫌われる程の何かをしてしまっていたのだろうか?


雪さんは、僕を嫌いになってしまったのだろうか?

不安と恐怖を綯い交ぜにした感情が僕を襲う。

嫌だ、嫌だ、嫌だ。

嫌われたくない、離れたくない。

傍に、いてほしい。


その日のその後のことは覚えていない。ただ、気がついたら自室に着いていた。

着替えも何もしないままに、ベッドに寝転んでいた。もう、何も考えられなかった。

鏡を見ると、そこに映るのは女の子の制服を着た僕。

嘘を重ねた、偽りの姿の僕だった。


ふと、前の学校でのことを思い出す。

あの日、あの時、あの場所で起きたことを。

思い出したくもない忌々しい記憶。けれど忘れられないそれを、嫌でも思い出してしまう。

あの日、無理やり欲望の捌け口にされそうになったことを。


いつか、本当のことを伝えられたのなら。そうしたらこの苦しい気持ちも楽になるのかな?

拒絶されたっていい。その方がきっと諦めもつくだろう。なんて他人事みたいに考える。


……いつまでも、逃げていては何一つ始まりも終わりもしないだろう。

深呼吸して、もう一度鏡を見る。

今はまだ、雪さんにしか伝えられる勇気がない。けれど、いつかは向き合わなくてはいけないんだ。

僕自身と向き合うためにも、ちゃんと雪さんに伝えなきゃ。


明日、全てを雪さんに伝えよう。


翌日になり、放課後まで待つ。昨日の様子だと雪さんは教室までは来てくれないかもしれない。それなら、僕が雪さんの教室に行こう。

帰りのホームルームが終わるや否や、僕は教室を飛び出した。

雪さんの教室まで向かい、ドア付近にいた人に声をかける。


「あの、すみません。御薙雪さんを呼んできて貰えませんか?」

「御薙?あいつは今日休みだよ。確か風邪だとか言ってたと思うけど」

「え、休み…?そうですか、ありがとうございます」


昨日の今日で休みなんて、やっぱり何かがおかしい気がする。それでも、向き合わなきゃいけない。

僕はその足で職員室まで向かった。何とか言い訳をつけて雪さんに会うために。

職員室へ辿り着くなり、雪さんのクラスの担任に声をかける。


「すみません、2-Bの御薙雪さんのことでお話があるんですけど」

「御薙なら今日は休みだけど、何かあったのか?」

「はい、今日のプリント類を届けようかと思って」

「おお、それは助かるな。それじゃあこれ、頼んだぞ」

「ありがとうございます」


プリントを受け取って職員室を後にする。半ば強引だけど、致し方ないだろう。

思いつく方法は、これしか無かった。

自分勝手な方法だけど。それでも、こうするしかないんだと言い聞かせて、僕は雪さんの家へ向かった。



雪さんの家に着き、インターホンを押す。

すると男性の声がインターホン越しに聞こえた。


「どちら様ですか」

「雪さんの友人の冴木陽星と申します。プリントを届けに来ました」

「おお、雪の友人か!今開けるから少し待っていてくれ」


少しして、ドアが開くと少し年上の男性が姿を現した。


「さあさあ、どうぞ上がってくれ!」

「あ、ありがとうございます…」


思ったよりもテンションが高くて少し驚いてしまう。見た目的にお兄さんとかかな、などと考えながら二人で雪さんの部屋まで向かう。

軽くノックをすると、中から声がした。


「なに、ほっといてほしいんだけど」

「何って雪、友達が来てるぞ」

「は?友達ってまさか陽星…?」

「そうだ。プリント届けに来たって」

「………そう」


それだけ言うと、カチャリとドアの鍵が開けられる。そしてそっと顔を覗かせて言った。


「プリント、ありがとう。それじゃ、風邪移したくないから」

「ま、まってよ!確かにプリントを届けに来たけど、それだけじゃないというか……」

「そうだぞー雪。だいたいお前風邪じゃないだろ、単に学校行きたくないからって言って……」

「あーもう、お兄ちゃんは黙ってて!」


そう言うと雪さんはまた部屋に篭ってしまった。プリントまだ渡せてないんだけどな、と、考えていると部屋から声が聞こえた。


「……片付けるから、少し待ってて。」

「じゃあおもてなししておくな!」

「でもお兄ちゃんどうせ余計なこと言うでしょ、変なこと言わないでよね」

「わかったよ。それじゃあリビングまで案内するな」

「あ、ありがとうございます…」


雪さんってお兄さんにはあんな感じなんだ。初めて見たな。

リビングに着くと、お兄さんが紅茶を淹れてくれた。


「紅茶、嫌いじゃなければ」

「ありがとうございます。いただきます」


テーブルに置かれた暖かい紅茶の入ったカップを手に取る。暖かくて美味しかった。

ふと、お兄さんが口を開いた。


「雪の友達が家に来るなんて初めてだからびっくりしたよ。昔から孤立してばっかりだったからな」

「そうなんですか?僕にはとてもそうは見えなかったですけど…」

「まぁ、昔のこと引き摺ってんのはあるだろうな。昔のことって聞いてるんだっけ?」

「昔、アイスだったせいで嫌な思いをしたってことなら」

「それもあるし、うちって親がいないからさ。それもあって上手く馴染めなかったんだよな」

「え……?」

「元々母子家庭でさ。でも母さんもあいつが8歳の時に事故で亡くなってるんだよ」


お兄さんは紅茶を飲みながら話を続ける。


「雪にとって母さんは心の支えみたいなもんだったんだけど、それさえも失って。一時期はずっと塞ぎ込んでたんだよ」

「そんなことがあったんですか…」

「まぁでも、最近は楽しそうにしてたから良かったけどさ。それも多分君のお陰なんだろうな、これからも仲良くしてくれると俺も嬉しいよ」

「それは勿論です、こちらこそありがとうございます」

「部屋、片付け終わったよ」


丁度一段落着いたところで、雪さんがリビングのドアを開けた。


「余計なこと、言ってないよね?」

「いーや、なんにも?」

「嘘くさいけど…まぁいいや。とりあえず部屋片付けたから、陽星はこっち来て」

「あ、うん。わかった」


先を歩む雪さんに続いて、部屋に入る。

雪さんの部屋はシンブルな部屋だった。所謂ミニマリストとでも言うところだろうか。

早速、雪さんが声を掛ける。


「で、わざわざ家まで来たのは何かあるからじゃないの?」

「やっぱり見透かされてるよね。そうだよ、大事な話があって」

「それは、本当に聞かなきゃだめ?」


目を伏せて、少し寂しげに雪さんは言う。

本当は逃げてしまいたいけれど。でも、もう逃げないって決めたから。僕は話を切り出した。


「うん、雪さんには聞いて欲しいんだ。もう、騙したくないから」

「騙すとかはよく分からないけど、重要なのは分かったよ。真剣に考えてくれたんだって、分かるしさ」

「ありがとう、雪さん」


そして、僕は漸く雪さんに、自分に、向き合うための第一歩を踏み出した。


「ずっと黙っててごめん。僕は、本当は女の子じゃないんだ」

「……え?」


雪さんは目を丸くした。驚くのは当然だろう、ここまでは想定内だった。

この後は、何も予想なんてついていない。けれど、僕は話を続ける。


「昔から、女の子みたいだってからかわれ続けてて、そこまではまだ良かったんだ。でも、前の学校で……」


思い出したくなくて、言葉が詰まる。向き合うって、決めたのに。こんなんじゃダメだって分かってるのに。


「いいよ、ゆっくりで。急かしたりなんてしないから」


そう雪さんが言った。僕の心境を読んだかのような言葉に、安堵を覚える。

少しずつ、言葉を紡ぐ。


「ごめん。それで、前の学校で、僕は……、女の子みたいだからってからかわれて、それがエスカレートして、襲われかけたんだ」

「うん」

「怖くて、怖くて。なんとか逃げたけど、もう外に出られなくなって。それで、転校してきたんだ」

「うん」


雪さんは肯定も否定もせずに話を聞いてくれていた。

本当は、もう終わりにしたい。思い出したくない記憶も、向き合いたくない想いからも逃げてしまいたい。けれど、逃げないって僕は決めたから。だから、話を続ける。


「またからかわれて、同じ目に合うのが怖くって。それで、女の子の格好をすることで逃げてたんだ。でも、ずっとそれじゃダメなんだって、雪さんが気づかせてくれたから」

「私が……?」

「うん。ここまでの話で既にいっぱいいっぱいだと思うけど、もう一つだけ聞いて欲しいことがあるんだ」


深呼吸して、一泊置いて、話を切り出す。


「僕は、友人としてじゃなく、一人の男として、雪さんのことが好きです。ずっと騙していたのに、今更ずるいって分かってるけど。それでも伝えたかったんだ」

「……嘘じゃ、ないの?」

「嘘なんかじゃない。全部、本当のことだよ」


雪さんは顔を伏せて、か細い声で言った。表情は伺えない。

一瞬にも、永遠にも思える間の後、雪さんは言った。


「少し、考えさせて。まだ、整理しきれてないから」

「分かった。考えてくれて、ありがとう。それじゃあ、僕は帰るね」

「うん、また今度」


僕はプリントを机に置いて部屋を後にした。

途中でお兄さんに会って、紅茶のお礼を伝えて雪さんの家を後にした。


次は、いつになるのか分からない。

けれど、きっと雪さんは答えを出してくれる。

それが、どんなものであっても構わない。僕の想いは全て伝えられたから。



陽星が帰ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。

まだ、話を理解しきれていないけれど。でも、私に都合の良い解釈をするのであれば。

彼女、いや彼は、男の子で。そして私のことが恋愛的な意味で好きでいてくれている。それは、私が何よりも望んだことに近かった。

私も、彼のことが好きだ。好きだからこそ、叶わないと思った。だから、距離を置いたのに。結局は、叶ってしまった。


それは、喜ばしいことだけれども。一つだけ懸念点がある。

それは、彼がジュースではないかということ。もしもそうなら、私が好きだと伝えれば私が溶けて消えてしまう。そうしたらきっと彼は悲しむし、自分のことを責めるだろう。

それならば、嘘でも嫌いだと突き放すのが正解なのだろうか?けれど確証がない以上、それはただお互い傷つくだけになる可能性だってある。


考えても、考えても。結論は出なかった。

私は、どうするのが正解なんだろう?

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