第89話 別れにはまだ早い

 勝負が終わった後、誠二郎は素直に自分の負けを認めた。こういう潔いところは昔と変わっていないようだ。


 それから、雨が降っているからと、誠二郎は俺たちに先に帰るよう促し、一人で後片付けを始めた。


 最初はそれでも手伝おうとしたが、今回の勝負の見届け人になってくれた角中さんに止められ、仕方なく帰路につくことになった。そして――


「それじゃ、俺はこっちだからよ」


 最寄り駅まで来ると、俺たちと方向が違う日高とはここで別れることになった。


「今日までありがとうな」

「はっ、前にも言ったがこれは俺のためにやったことだ」

「そうか」

「そうだよ。実際、今日も良い勝負を見れたしよ」

「ツンデレおつ」

「言ってろ……てか、どこがだよ!」


 こういうツッコミもできるのか……って。


 さっきまで緊迫した勝負をしていたのにも関わらず、こんなどうでもいいことを考えている自分に思わず驚いてしまう。


 きっと、緊張の糸が切れて、気が緩んでしまったのだ。


「まあ、また何かあったら話くらいは聞いてやる」

「ああ、その時はそう遠慮なくさせてもらうよ」

「おう、それじゃなあな」


 日高からの別れの言葉に軽く手を挙げて答えてから、隣にいる惠麗に視線を向ける。


「俺たちも帰ろうか」

「うん」


 それからホームに来た電車に乗り込み、自宅の最寄り駅まで向かう。


 その間、俺と惠麗の間に会話はなく、淡々と時間だけが過ぎていく。


 そして、それは家に着くまで変わることはなかった。


         ※※※


 翌日の朝。朝食を取り、帰り支度を済ませたところで玄関に向かう。


 すると、案の定というか妹の陽向が寂しそうに、見送りに来る。


「お兄ちゃん、もう帰るの?」

「ああ、登校日もあるしな」


 改めて戻る旨を伝えると、陽向は小さく眉を落とす。


 誠二郎の勝負のための準備で、陽向とはあまり一緒にいられなかったから、俺としても少し申し訳ない気持ちになる。


「なあ陽向、今回はあまり一緒にいられなかったけど、陽向のほうもいつでも来ていいんだからな?」

「えっ、本当!?」

「本当だ」


 もちろん、おばさんたちには許可を取らないといけいないが、あの人たちなら快く受け入れてくれるはずだ。


「だから、そんな寂しそうな顔するなよ」


 そう言って、俺はぽんとまだ寝癖の残っている陽向の頭に手を置くと、そのまま優しく何度か撫でる。すると――


「お兄ちゃん、私、絶対に遊びに行くから」

「ああ、待ってるよ。じゃあ、新幹線の時間もあるし、そろそろ出るよ。またな」

「うん、またね」


 ゆっくりと玄関の扉を開け、最後にもう一度、泣きそうになっている陽向に手を挙げてから、家を出る。


 そして、ちょうど家と最寄り駅の中間地点に差し掛かった辺りで――


「春人」


 昨日のように、後ろから惠麗に名前を呼ばれる。


 振り返ると、そこには夏らしい淡いライムグリーンのワンピースを着た惠麗の姿があった。今からどこかへ出かけるのだろうか、肩には少し大きめのトートバッグが下げられている。


「どうしたんだ?」

「陽向ちゃんから、さっき家を出たって聞いたから。一緒に駅まで行こうかなって。ダメ?」

「いや、そんなことは――」

「ありがとう!」


 最後まで答えを言う前に、笑顔で惠麗が俺の隣に並ぶ。


 昨日のことで、惠麗の中で何かが変わったのか、一瞬だけ見せたその笑みは、以前のものに近い気がする。


「ほら、何ぼさっとしてるの?」

「――っ、ああ、行こうか」


 惠麗に促されるまま最寄り駅まで移動し、東京駅へ向かう電車に乗り込む。そして――


「わざわざ、ホームまで見送りに来る必要はないぞ」

「いいの、私がそうしたいから」


 東京駅に着き、新幹線の改札口を通った後も、なぜか惠麗は俺の側を離れない。

 

 まあ、今日が終われば、次に会えるのは多分年末年始になるだろうから、ある意味自然なことかもしれないけど。


 それから10分ほどで、席を予約しておいた列車がホームにやって来る。


 そして、車内整備が終わり、扉が開くと、続々と待っていた人たちが列車の中へ入って行く。


「それじゃあな、惠麗」

「――」

「惠麗?」

「どうしたの春人、乗らないの?」

「えっ、乗らないのって……」


 さようならは言わない的なやつなのか?


 今までそれなりの年月を一緒に過ごしてきたけど、そんなことをする性格ではないんだけど――もしかして、いやまさかな。


「わかった、じゃあ乗るよ」

「うん」


 別れには少し微妙な感じを残しながらも、俺はゆっくりと列車に乗車し――


「春人!」

「――っ、惠麗!?」


 俺が列車に入ったのと同時に、後ろから思い切り惠麗が抱き着いて来る。


「ちょっと、何やってるんだ惠麗!」


 ホームにもうじき発車する旨を伝えるアナウンスが流れ始める。


 このままでは、惠麗まで乗ることになってしまう。


 そう思った矢先。


「えっ……」


 惠麗が緑色の切符を鞄から出して、俺に見せる。


「私も行くから」

「……」

 

 俺は突然の出来事に、何も言葉を返せなかった。


         ※※※


 新幹線のチケットを見せると、春人がポカンと口を開けて固まってしまう。


 きっと、私は今すごく春人を困らせているんだと思う。


 それでも、こんな状態でしばらく会えなくなるのは嫌だ。


 今から、自分の知らない春人が生まれた場所を見るまでは、きっと私は前に進めない。だから――


 別れにはまだ早い。

 


 

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