第74話 的場丈一郎は諦めない
「わあ、すごくお洒落なお店ですね!」
店に入ると、落ち着いた大人の空間といった感じの店内の様子に、京子が感嘆の声をあげる。
丈一郎が京子を連れてきたのは、普段よく接待などで使う洋食屋。
結構な人気店で当日予約は基本的にできないため、丈一郎もその例にもれることなく、三日前には予約していた。
つまり、最初から京子を誘うつもりでいた。
ちなみに、断られた時は昇でも連れて、振られたことへの嘆きを聞いてもらうつもりでいたのだが……
(残念だったな日高……いや、この場合はよかったなと言った方がいいのか? まあ、いいか)
今は京子を少しでも楽しませることに集中するべきだ。
店員に席に案内され、向かい合って座ると、さっそく京子はメニュー表を眺め始める。
「うわー、どれも美味しそう! 的場先生、おすすめとかありますか?」
「基本的にここのはどれも美味しいですが、強いて言うなら煮込みハンバーグか、ビーフシチューですね」
「うう、迷うな~」
かわいらしくメニュー表と睨めっこする京子を愛おしく思いながら、丈一郎は提案する。
「よろしければ、私は岩辺先生が頼んでいないほうを頼みますよ。そうすれば、シェアできますから」
「えっ、いいんですか!?」
「はい」
「それなら、お言葉に甘えて……」
頼むものが決まったところで、丈一郎は店員を呼び、注文を済ませる。ちなみに、京子がビーフシチューで、丈一郎が煮込みハンバーグだ。
「頼んだものが来るまで時間もありますし、今日の練習の感想を聞かせてもらってもいいですか?」
「あっ、はい! 私なんかのものでもよろしければ」
楽しそうにメニュー表を見ていた年相応の表情から、かしこまった態度に変えて、京子は続ける。
「一番印象に残ったというか、意外だったのは基礎練習の量ですね。強豪校だと、やっぱり発展的な練習が多いイメージがあったので」
「なるほど。確かに岩辺先生のイメージ通り、強豪校の中には基礎より応用を重点的に行っているチームはあります」
丈一郎が率いる青栄学院がインターハイで敗れた、東聖学園がまさしくそのタイプのチームだ。
「では、どうして的場先生は基礎を重点的に? やっぱり、基礎が大事だからですか?」
「もちろん、基礎を疎かにしてはならないというのが前提にありますが、基礎をとことん突き詰めるというのが、うちのチームカラーなんです」
「チームカラー?」
「はい、チームを作っていくうえでの軸といった感じです。岩辺先生のところはそういった軸はおありで?」
「いえ、うちは……」
そう言って、落ち込んだ素振りを見せる京子に、慌てて丈一郎はフォローする。
「すみません。岩辺先生は指導を始めてまだ数か月でしたね。そんな状況で軸を持てというほうが無理がある。配慮が足りなくてすみません」
「――っ、い、いえ! 私としても指導のヒントをもらえた気がするので、むしろそこを指摘して頂けてよかったです!」
(くっ、私としたことが……)
明るく取り繕う京子を見て、丈一郎は思わず内心で苦虫を噛む。
そして、そんな心境が表情に出てしまっていたのか、京子が明るい調子を保ったまま、尋ねる。
「ちなみに、基礎を突き詰めるといった軸をもった理由を聞かせてもらえませんか?」
「ああ、それはですね――」
それから丈一郎は、自分が選手だった頃、慢心から、基礎を疎かにしていたせいで試合に負けてしまった経験を語り、そんな思いを選手にさせたくないという考えから、今の方針に至ったと伝える。
そしてさらに、インターハイでの敗戦をきっかけに、そんな自分の指導方針に疑問を抱いているということも。
「すみません。最後のほうに弱音を吐いてしまって。今日は岩辺先生の相談に乗るために来ていただいたのに」
「いえ、そんなことは……むしろ、的場先生でもそんな風に悩むんだと思って、失礼な話かもしれませんけど、少し安心しちゃいました」
「はは、そう言ってもらえると助かります」
「それでですね……こんな私が的場先生に助言するのも、おこがましいかもしれないんですけど」
そう言って、少し恥ずかしそうにしながら京子は告げた。
「一人で抱え込まないで、もっと、まわりを頼ってもいいんじゃないかって思います」
「まわりを頼る……」
「はい、的場先生が今、指導の方針で迷っているのなら、素直にそれをコーチの岡田さんや部員の子たちに話すんです。それで、今の指導方針について率直な意見を聞く。そこでもし変えた方がいいと言われれば変えればいいし、このままがいいと言われればみんなを信じて今の方針を貫けばいいと思います」
それは、丈一郎の中にはない考えだった――否、忘れていたことだった。
ここ数年で実績を積み重ね、それを信頼して今のメンバーは自分について来てくれている。そんな自分が、そう易々とみんなに弱音を吐いてはいけない。
知らないうちにできていた、そんな固定観念が、その選択肢を自然と排除していた。
どうして今まで気づけなかったのだろうか。
思い返せば、新米の頃はいつもそうだったはずなのに。
「あの……的場先生?」
何も言葉を返さず黙っていた丈一郎に、京子が不安そうに見つめてくる。
そんな京子に、丈一郎は感謝を告げるように、優しい笑みを浮かべながら答える。
「岩辺先生のおかげで、大切なことを思い出せました。ありがとうございます」
「えっ?」
「明日から、岩辺先生の言う通り、もっと周りに頼って見ようと思います」
「そ、そうですか……」
「はい……おっ、料理が運ばれてきましたよ」
話がひと段落したところで、店員が料理を丈一郎と京子の前に運んでくる。
京子の前には、レタスやトマトといったシンプルな野菜で盛り付けられたサラダにバゲットが数枚、そしてメインのビーフシチュー。
丈一郎の前には、京子と同じサラダと、お皿に盛り付けられたライスにメインの煮込みハンバーグの乗った鉄板がそれぞれ置かれる。
「お、美味しそう……」
「それじゃ、さっそく食べましょうか」
それから二人で料理を堪能し、食後にコーヒーを飲んでから、丈一郎たちは店を出る。
「あの……本当にごちそうになってよかったんですか?」
「私が誘ったんですから、これくらい当然です」
「で、ですけど……」
「いいんです。というより、これくらいかっこつけさせてください」
「うっ……わかりました。なら、遠慮なく。ごちそうまさです」
小さく頭を下げた京子を見て、満足げに丈一郎は頷くと、尋ねる。
「それで岩辺先生は電車でしたよね?」
「はい」
「なら、駅まで送りますよ」
そう言うと、また京子が遠慮しようとする素振りを見せるも、今度は素直にもう一度ゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございます。何から何まで」
「いえ、お気になさらず。車を取って来ます」
そう言って丈一郎は車を駐車場から取ってくると、京子を助手席に乗せて、駅へ向かって走り出す。そして――
「あの、岩辺先生」
丈一郎は、真剣な声色で京子の名前を呼ぶ。
さっき、大切なことを思い出させてもらった瞬間、丈一郎は改めて京子のことが好きだと思った。
そして、その気持ちを伝えるには、今しかないとも。
勇気を出して、丈一郎は尋ねる。
「以前、好きな人がいると仰っていましたよね」
「――っ、あ、あれは凛先輩が勝手に……」
「本当ですか?」
「うっ……」
上手く取り繕えない様子に、小さな笑みが零れる。
こういう性格も、本当に愛おしい。
「その彼とは、どうなんですか?」
「ど、どうしてそんなことを?」
「いいから、教えてもらえませんか?」
「うっ……べ、別に、何にもないですよ!」
「ちなみに、勝算は?」
「そ、それはまだ何とも……いや、たぶん、ないです」
京子がそう言った瞬間、丈一郎は車を道路わきに止める。
「えっ、急にどうしたんですか!?」
驚く京子の手を、丈一郎は両手で握る。
「岩辺先生」
「は、はい」
「私では、ダメ、ですか?」
「えっ……それはどういう」
「私は岩辺先生――いや、岩辺京子さん、あなたのことが好きです。人としてという意味ではなく、異性としてという意味で」
「――っ」
丈一郎が好意を伝えた瞬間、京子の頬が僅かに紅潮する。
「そ、その、急にそんな、冗談ですよね――」
「――私は真剣です!」
「――っ」
「京子さんさえよろしければ、結婚を前提に真剣にお付き合いしたいと考えています」
「そ、そんな……私……」
困惑する京子。
彼女はまだ若い、そんな真剣に迫られても、すぐに答えが出せるわけがない。
それは、丈一郎もわかっている。
だが、一度走り出したこの告白を、今さら止めることなどできない。
「真剣に、考えてもらえませんか?」
京子の手を握る力が、少しだけ強くなる。そして――
「ごめんなさい」
「……」
「今は仕事で手一杯なので、恋愛とか、そういうのはちょっと……」
返ってきた答えは、拒絶。
そして、その声色には、はっきりとした申し訳なさや、心苦しさが含まれていて。
「わかりました。答えていただき、ありがとうございます」
丈一郎には、そう答えるしかできなかった。
「急に止めてしまってすみません。駅まではもう少しですので」
そう言って、再び運転を再開して数分で、駅のロータリーにたどり着く。
「それでは岩辺先生、今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。本当に勉強になりました」
「よろしければ、また何かあったときはいつでも相談してくれて構いませんので」
「はい、その時はよろしくお願いします。では」
最初に会った時の元気はすっかりなりを潜め、気落ちすら感じる調子で京子が丈一郎の車から出て、ゆっくりと駅の中へと向かって行く。
そして、その背中を見ながら、丈一郎は思う。
このまま終わっていいのか。
もし、ここで何もしなかったら、もう二度と京子とこうして会えなくなってしまうのではないか。
(それはダメだ……っ!)
気づいたとき、丈一郎は運転席から外へ飛び出し、叫んでいた。
「京子さん!」
力強く名前を呼ばれ、京子は肩をビクッとさせて、その場に立ち止まる。そして――
「私は、京子さんのこと、諦めませんから!!!」
丈一郎は今の率直な気持ちを、京子にぶつける。
すると、京子は何も言わず、そのまま駅構内へと走り出す。
(これで、いい)
的場丈一郎は諦めないという今の気持ちを、ちゃんと伝えることができたから。
蜘蛛の糸のような、ほんのわずかな希望ながらも、それを残せたことを誇りに思いながら、丈一郎は帰路についた。
※※※
夏休みだというのに、あまり人が乗っていない帰りの電車の中で私は考える。
的場先生に対して言った、今は恋愛をする余裕がないというのは、本当だ。
今は、目の前にある仕事に精一杯取り組むことしかできないし、私としても、そうしたい。
だけど、本当は別の理由もある。
「私は一体、彼とどうしたいんだろう」
私は教師で、彼は生徒。
きっと、その関係は彼が卒業してからも変わらない。
彼の中ではずっと、私は教師だ。
そんな彼と、私はどうなりたいのだろうか。
少なくとも、その答えが出るまでは、彼氏は作らない。
改めて、私はそう思うのだった。
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