8

 介助のために行き先を示せない。げっそりしている私を他所にリブは気ままに校内を回る。

時折、私の方を見上げては嬉しそうに尻尾を振るのだ。その様子を見て私は思わず微笑んでしまうのだった。

「瀬戸さんはなんであんなこと言うんだろうね」と私が言うと、リブはワン!と答えるように鳴いた。まるで同意するかのように。

「私もね、思うんだ」と私は続けた。「やっぱり天引現象って怖いものだよね」と言うと、リブも小さく頷いたように見えたのだ。

「君は怖くないの?」と尋ねると、彼も同じ気持ちだと言うかのようにワン!と返事をした。

「リブは強いんだね」と言うと、彼は誇らしげに胸を張ったように見えた。

介助されるうちに、理科準備室の前を通りかかる。すると、ビターで香ばしい匂いが漂っていた。

「あれ、この匂い」と私が言うと、臭いの元へ駆けるリヴ。

理科準備室の扉は開いており、中を覗き込むと星守先生がコーヒーを淹れているところだった。

「先生、何してるんですか?」と私が聞くと、先生は驚いた様子でこちらを振り返る。

そして私に気づくと優しく微笑んだ。

「ああ、糸重か」と言うと、彼は手招きをする。私は恐る恐る中に入った。

すると星守先生はカップを二つ持ってこちらにやってくる。一つは私に手渡してくれたのでありがたく受け取るが、逆さまの私は飲むことは難しかった。

「ありがとうございます」とお礼を言うと、先生は苦笑いしながら言った。「不便だな」と。

少し恥ずかしくなってしまったが、星守先生は気にする素振りも見せず続けたのだった。

「瀬戸がまた何か言ったのか?」

私は小さく頷く。すると先生は深いため息をついたのだった。

「気にするな。瀬戸は天引現象を怖がっているだけだ」

私は思わず首を傾げた。天引現象が怖いってどういうことだろう? そんな私の疑問を見透かしたように先生は言った。

「力場障害は人類にとって未知の存在だ。だから、人々は恐怖するんだよ」と彼は言う。そして続けたのだ。

「重力の方向が変わることは恐ろしいことだと思わないか?」と聞かれるも、いまいちピンとこない。

「えっと、どういうことでしょうか?」と聞き返すと、先生は少し困った顔をして言った。「そうだな」と言い直すように続ける。

 先生は棚に歩み寄り、地球儀を持ってくると、私に見せた。

「地球が自転しているように、天引現象も物理が伴っている」と彼は言う。そして続けたのだ。

「惑星には遠心力という力が働く。これは重力とは逆方向だ」と。

私は思わず首を傾げるが、先生は気にせず続けたのだ。

「この力は自転にともなって生じるものだ。だから、天引現象もそれに伴った反作用なんだ」と彼は言う。

「あくまで仮説だよ。これが正しければ地球そのものの質量や重力に比例するはずなんだけどね」

だとしたら、私たちに掛かる力は一定になるはずでは?」と尋ねると、先生は頭を掻きむしる。

「そこが不思議なんだ。奇跡としか言いようがない……ニュートン力学では、反作用は一定だと考えられていたがね」

「ニュートンさんがそう言ってたの?」と尋ねると、先生は苦笑いして言った。

「さぁな。ただ、ニュートン力学というのは数学的に説明できる奇跡なんだよ」と彼は言う。私は首を傾げたまま話を聞いていた。

「アインシュタインの相対性理論によれば、我々の宇宙は一つの粒子が加速運動を行い、動いているとされるんだ。これはビックバン理論で裏付けられた事実だが、この加速運動には粒子同士の引力だけでは説明できない点がある」と彼は続ける。私は聞き入っていたのだが、その言葉はまるで呪文のようだった。日本語として聞き取れても意味を理解できないのだ。

私が困り果てていると星守先生は笑うのだ。そしてコーヒーを一口飲むと続けたのである。

「その加速運動を生じさせる原因物質は何か、という疑問にアインシュタインは一つの仮説を立てた。それが重力崩壊と呼ばれるものだ」と彼は言った。「これは一説ではブラックホールがその要因だとする者もいるんだよ」

私は思わず息を呑んだ。ブラックホールってあの黒い穴のことだよね? 星守先生は私の表情を見ると、さらに続けるのだ。「ブラックホールのような質量を持った存在がこの宇宙に存在するのならば、それは我々の宇宙の物理法則そのものを変えてしまうのかもしれないね」と彼は言うのである。私にはその言葉の意味がよくわからなかったけれども、なんだかすごい話だなと思ったのだった。

「先生って本当に物知りですよね」

すると彼は照れ臭そうに笑うのだった。「そんなことはないさ」と謙遜する様子を見せるも、まんざらでもない様子だった。

リブは先生と私の間を行ったり来たり。

ふと時計を見ると、随分と時間が経っていることに気がつく。

私は思わず先生の顔を見た。彼も同じ気持ちなのか、時計をじっと見つめていた。

「もっと勉強してみます」と言うと、先生は嬉しそうに笑う。そしてコーヒーを飲み干すと、立ち上がる。

「そろそろ戻りなさい」と促されたので、慌てて立ち上がった。

「あの、ありがとうございました」と言うと、先生はまた笑ってくれた。

「また明日な」と言って理科準備室を追い出されるようにして後にする。理科準備室を出たところで振り返ると、手を振っているのが見えたので私も小さく手を振ったのだった。



屋外プールに戻れば、授業はとっくに終了していた。皆が帰る準備をしている。

そんな中、瀬戸さんが私のもとにやってきた。

「あんた、なんのつもりなの?」と開口一番に彼女はそう言ったのだ。私は彼女の言葉の意味を理解できなかったけれど、それでも何か嫌なものを感じたのは確かだった。

「なんのつもりって?」と聞き返すが、彼女は苛立った様子を見せるだけだった。

「とぼけないでよ!私、すっごく恥ずかしかったんだから」

「えっと、ごめんなさい」と私は謝るが、彼女は納得していない様子だった。

「謝ったら済む問題じゃないでしょ!」とさらに怒る瀬戸さん。私が困っていると、リブが吠えた。

 すると、瀬戸さんは振り返ってリブを睨みつける。

「犬っころは黙ってろ!」

 私は驚いて、思わずリブのリードを引っ張る。瀬戸さんはリブから私に視線を移して言った。

「犬なんかを大事そうに扱ってさ、バッカみたい」

 思わず黙り込んでしまう。でも、それでも何か言わなきゃと思って、口を開いたその時だった。

星守先生がやってきて私たちの間に割って入ったのだ。

彼は私と瀬戸さんを引き剥がすなり言ったのである。

「喧嘩はやめなさい」と彼にしては珍しく厳しい口調で言うのだった。

 瀬戸さんも先生の登場に驚いたのか、目を丸くしていたもののすぐに目を逸らして去っていったのだ。

私は去っていく瀬戸さんの後ろ姿を見つめながら、ホッと胸を撫で下ろしたのだった。

星守先生はため息をつきながら、私を見下ろし言ったのである。

「あれは瀬戸の八つ当たりだ。気にするなよ」と言って慰めてくれる彼だが、私は内心穏やかではなかった。なぜ彼女が辛く当たるのかがわからないからだ。だからだろうか、思わず口に出してしまったのだ。

「どうして私に当たるんでしょう?」と尋ねると、彼は困ったように笑っていた。そして言うのだった。

「そうだな、お前が悪いわけじゃないんだ」と言って慰めてくれたものの、納得できない。

 だって、原因がわからないのだから当然である。ただ単に私が気に食わないだけなのかもしれないし、何か他に理由があるのかもしれない。気づくとリードに爪を立てていた。

 しばらく、握りながら考えたが、やはり答えは出ないままだった。

星守先生は私の肩を叩いて言ったのだ。「とりあえず、そろそろ帰ろう」と。私は頷くと、リブと後をついていったのだった。

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