7
帰るなり、父は書斎に籠り、リモートワークに没頭してしまった。
窓の外では雨粒が玻璃戸を叩いている音が聞こえ、私は静かなリビングで積まれた宿題の山と父の仕事の声に包まれていた。
孤独な時間がゆっくりと流れていき、私は耐え難いほどの暇を感じていた。
そのとき、病院での出来事が蘇った。
見取り記者が差し出した名刺。手元にあるか確認すると、ポケットにしまってあった。
記載された連絡先をまじまじと見て、思い切って電話をかけることに決めた。
しかし、電話をするにも一苦労だ。キャビネットに置かれた電話機は見るからに届きそうにない。
父を呼べば解決することだけど、お金のためだとは知られたくない。
もし、知られたら、絶対に許さないだろう。なら、一人で解決するしかない。
目の前の宿題をほっぽり、電話機の下まで歩み寄る。
宿題の山は知らず知らずのうちに崩れ落ち、床に散らばった紙と向き合いながら、私は考え込んだ。目の前の電話機への到達方法を模索しながら、心は不安でいっぱいだった。
もし、この電話がつながって、見取り記者が来てくれることができたら……
そんな可能性が浮かぶと、不安だけでなく期待も胸に広がっていく。
蜘蛛のように壁に張り付いて降りられないか試してみよう。
両手を使って慎重に頭を下ろし、腕の力で下がる。
しかし、電話機までは遠すぎる。どうすればいいのか、ひとしきり考え込む。
重しをつけても下がらない身体だけれど、人の力は不思議と及ぶもの。
廊下の壁を使えば両手、両足を広げて下まで降りられるのではないか。
そんな力場の特性を考えるなら、廊下の壁を使えば、両手両足を広げて下まで降りられそうだ。
早速、試すためにスライドドアを開き、廊下へ出る。
父にばれないように静かに両足を壁につけ、蹴り上げるように床へ登る。
考え通り、てっぺんまで登り切ることができた。問題はここからだ。
どうやって、キャビネットまでたどり着こう。
床を見渡し、掴めそうなものは絨毯に机か。しかし、掴んだとしても浮き上がるのではないか?
どうすればいい……そんなとき、物音が煩かったのか、父が部屋から出てきてしまった。
「仕事中だ。静かになさい」
「ごめんなさい」
「また怪我したら最悪だ。大人しく宿題してなさい」
黙ってしまう私。手を取られ、リビングへ連れ戻される。
父の足音は大きく、機嫌の悪さに胸が重くなった。
机の上に放され、天井に足をつける。
父は、床に崩れた宿題へ手を伸ばす。そのとき、彼の態度が一変した。
「紬、宿題をとりたかっただけだよな……父さんが悪かった」
私はあっけらかんとした態度を取ったが、内心では悪知恵が働いていた。
「気づいてくれて嬉しい……あと、宿題のことで友達にも電話したいんだけど、いいかな? 」
「いいに決まってるだろ! すぐにかけてやるからな!」
そそくさと電話機の方へ向かい、誰にかけたいのかを聞いてくる。
好奇に乗じて、クラスメイトと偽って記者の連絡先を伝える。
父は手早く番号を入力し受話器を差し出す。
受話器を耳に当てながら、書斎に駆け込む父の後ろ姿を見送った。
数回の呼び出しの後、記者が応じた。
「もしもし、極日新聞社の見取です」
「あの、私、糸重紬です」
私は簡潔に自己紹介をすると、思い切って頼み込んだ。取材をしてくれないか、と。
「ちょっとお話があるんです」
記者の興味津々な声が聞こえてきた。そして、私は病院での出来事、小鹿のこと、そして逆転した世界での障害を話し始めた。話が進むにつれ、彼の興味は高まり、思いがけず心の内を打ち明けてしまった。
「それは大変でしたね……是非、お会いしましょう」
私の胸には安堵感が広がり、会話が終わると、外で降りしきる雨音が少しやわらいだように聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます