第10話
使えるものはなんでも使って、後ろ指を指されようが、泥臭くなろうが、限られた椅子に必ず座り続けた。
全てはこのために、こうあるために社長に拾われたのだとすら思った。
社長は結局、移住なんかしなかった。
たっぷりリハビリ施設で療養した後、ほとぼりが冷めた頃にこっそり業界に戻ってきた。
世間の批判の矛先はとっくに別の話題に向かっていて、社長の芸能スクールは畳まれたが、また別のプロジェクトが始まっただけだった。
社長に頼んで、莉奈はアイドルへの道を用意してもらった。
踊りと歌のレッスンをみっちり受け、まず地固めをした。
SNSのアカウント作って広告代理店に運用させ、定期的にバズネタを飛ばしてインフルエンサーとして名を売った。
十九歳のとき、ネットテレビのアイドル発掘の超大型企画に参加した。
応募総数一万五千人の中から、デビュー確約の十二名に残った。
あとは怒涛の六年だった。
莉奈は二五歳でアイドルを辞める。
紅白歌合戦には四回出た。
配信された楽曲は一〇〇曲以上。
各種SNSのフォロワーは累計一億人を超えている。
莉奈がセンターを飾り、再生回数が一億回を超えたMVは七本だ。
ドームツアーを完遂して、誕生日ライブでは特大ケーキがステージに運び込まれた。
何千何万何十万ものファンレターが届き、六年間一度も週刊誌に炎上ネタを提供することはなかった。
映画とドラマの主演も合計七回やった。
CMには、個人とグループを合計して二〇本以上出た。
写真集を出し、冠番組も持ち、ラジオのレギュラーパーソナリティもやって、アニメ映画のゲスト声優も務めた。
夢見たことのほとんどが叶った。
そして人気絶頂を迎えたまま突然のグループ卒業、芸能界引退、謎の失踪というステップを踏みきることで、その名前を後世に残せれば完璧だ。
両親に捨てられ、親戚に育てられた不遇のヒロインの成功劇。
シンデレラストーリーがみんな大好きだ。
莉奈の半生を描いた小説まで出版されて、百万部のベストセラーになったそうだ。読んでいないが、そこそこ評判だと聞いた。
両親に捨てられたところしか本来の人生との整合性が取れていない紛い物だが、世間にウケる人生でよかった。
クルーズ船の甲板で煙草を咥えながら、莉奈は空を見上げる。
太平洋に沈む橙色のエネルギー体は、明日に向かう世界のために柔らかくも情熱的に、海と空の境をぼかしていた。
世間にウケる人生でよかった。
世間にウケる人間でいられて、本当によかった。
だから、最期に、この本を読んでみようと思った。
だけど、「莉奈を引き取った親戚からは粗末に扱われた」という一文で読むのをやめた。
こういう内容であることは分かっていたし、脚色と虚偽を了承したのも莉奈だが、やはり、この文だけは直視できなかった。
えいっ、と、先ほどまで肉を焼いていたバーベキューのコンロに本を投げ捨てる。そこに向かって、手持ち花火を点火した。
青、赤、黄と色のついた火花が、虚像に塗れた莉奈の生涯を燃やしていく。
「私にも一本ちょうだい」
船上には似つかわしくない大きなバスタブから、白い腕が伸びた。
黒い尾びれが、窮屈そうに先っぽだけ顔を出す。
はいよ、と吸いかけの煙草を差し出すと、莉奈と全く同じ顔をした人魚はぷうと頬を膨らませた。
いちいち仕草がアホっぽいのが、この人魚の玉に瑕だった。
親の顔ならぬ、育てた飼い主の顔が見てみたい――。
「違う、花火。生き物に煙草吸わせるのは動物虐待」
ばたばた手を動かす人魚に、莉奈は苦笑しながら真新しい手持ち花火を渡した。
自分の花火の火種で、先端に灯してやる。
じゅじゅ、びびび、と閃光を噴き始めた花火を、人魚はきゃっきゃと笑いながら振り回した。
洋上に他の船舶の気配はない。
波の音と、巣へ帰っていく海鳥の鳴き声が風と一緒に吹き抜けて、莉奈の髪を攫った。夕陽の眩しさに目を細める。
間もなく夜がくる。
完全な暗闇が船を覆う直前に、莉奈は海に還る。
バスタブで遊ぶ人魚と共に、海へ帰る。
「最後の晩餐も、数時間後には魚の餌かと思うと金がもったいないな」
莉奈の煙草と同じ匂いをくゆらせながら、黒髪に白髪を交じらせた男が、莉奈の横に立って海を見下ろした。
若作りな格好はすっかり卒業し、年相応に落ち着いた様相の社長は、今も未婚のままだ。
「いなくなったあとの手筈はちゃんと万全?」
「死体さえ上がってこなければな。突然のグループ卒業、芸能界引退宣言の後、宮須莉奈はSNSに謎のメッセージを残して行方不明。口座からは現金が下ろされたあと、スマホも財布も、住んでいたマンションにそのまま放置。養父は出張先の海外から急遽帰国して涙の記者会見。あとは勝手に世間が盛り立てる。日本の警察が有能すぎるのが難点だが……俺はもし捕まったら、全部話すからな」
「いいよー、そのパターンの自白動画はお姉さんの骨壺に隠してあるから。もし捕まっても、それ警察に教えればジョウリョーシャクリョーされると思うよ」
「情状酌量って言いたいのか?」
言い直されて、莉奈は咳払いした。
かっこつけたつもりだったのに台無しだ。
だけど、きっと社長が捕まることはない。
死体があがらない限り事件は起きていないのだ。
失踪に関与しているのではないかと疑われても、それだけで立件することなんて不可能だ。
莉奈は知名度からして、失踪すれば恐らく形だけは警察が動く。
だが、事件性が見当たらず本人の意思で失踪したとなれば、あとはせいぜい、「この人を探しています」程度の扱いになるだろう。
今まで、金と芸能界の政治力で伏せてきた社長との親子関係がバレても、死んでいる莉奈には関係ない。
元音楽プロデューサーかつ業界内の地位ある男が戸籍上の父親で、そのコネで売れたと陰口を言われても叩かれても、もう何も怖くない。
今頃、ライブと偽った録画配信が何万人もの視聴者に見られている。
この時間に死ぬなんて、誰も思っていない。
金で雇った複数のサクラ視聴者からのスパチャにタイミングよく礼を言い、同じように、たまに「ライブ配信詐欺」をしている元グループの子と通話しているふりをネット上で演出してもらえれば、わざわざ生配信を疑う者はいない。
世間は勝手に想像を掻き立てられて、莉奈の失踪は都市伝説として語られていく。
あの芸能人の子供が近所の〇〇病院に入院している、という手の話は全国の地方で流布したそうだ。
なぜそんな噂が流れるのか分からないが、みんなどこかで芸能人を身近に感じたいのかもしれない。
――自分の死が不確定のうちは、人々の憶測と噂が莉奈を生かし続ける。
「死体は大丈夫。ね」
「うん、ちゃんと私が見てるから」
バスタブの人魚とアイコンタクトを取る。
自分と同じ顔なのに、人魚の笑顔は幼く見えた。
社長は莉奈と人魚を交互に見てから、すっかり短くなった煙草を名残惜しそうに口から離し、シルバーの携帯灰皿に押しこんだ。
「莉奈」
「「なに?」」
社長の呼びかけに、二つの声が重なった。
「人間の方だ」
人魚の方の「リナ」は見ず、社長がこめかみを掻きながら言った。
「最後までややこしい……ペットに同じ名前をつけるなよ」
「だってこの子は私になるんだから、同じ名前じゃなきゃ」
人魚を見やって、莉奈は薄く笑った。
きょとんとしている人魚は、あずき色の瞳に太陽の面影だけを映している。
社長が言いさした言葉を取り戻すまでに、間があった。
その沈黙の中で、莉奈は数々の問答を思い出していた。
全てをやり切り、海に還って消えたいと言った莉奈に、社長は「死ななくても姿を消す方法はいくらでもある」と、何度も諭した。
道徳的に振舞う姿がなんだか意外で、「宮須が生きていたら」という仮定で説得してくる姿が滑稽だった。
だが、自分の中で明確な終わりが見えていた。
どれだけ頂点を極めたところで、下り坂は必ず訪れる。
有象無象に紛れてしまうことを考えれば、頂点に立ったところで姿を消してしまった方が痛みも苦悩もないように思えた。
それに、このまま生きていても、いつまでも人魚の死と誕生を見続けるだけになる。水槽の中に自己愛を閉じ込めるのも、もう限界だ。
何しろ、親と違って、水槽生まれ水槽育ち、プロジェクター越しのフィクションだけが友達だった人魚のリナは、大海への冒険を夢見ていた。
彼女は今年で九歳、寿命まで数年だ。既に夢の全てをやり遂げた莉奈にとって余生は長すぎて、大海の冒険という果てしない夢を抱くリナには余生が短すぎる。
「莉奈まで海に行く必要はないんじゃない?」
「飼い主には責任があるんだよ」
「だって人間は海じゃ生きられないのに。死んじゃうってことだよ?」
「私がついて行きたいんだよ、リナに」
「ふぅん。まあ、それで私がここから出られるなら別にいいけどね」
人魚の方が、はるかに物分かりがいい。
その点、社長とは折り合いがつかないままだった。
最後には「もう好きにしろ」だ。
それでいて、莉奈の失踪工作にはしっかり付き合ってくれた。
この船に乗り込んだとき、「ありがとう」という言葉を、莉奈は初めて社長に言った。
社長は身じろぎもせず、船を運転しながらぼやいた。
「俺もお前には稼がせてもらったからな。こちらこそ、独り身の老後の糧になってくれてどうもありがとう」
「あは、すごい嫌味」
事務所としての儲けは別として、莉奈個人の稼ぎは、殆どを環境慈善事業への寄付に費やしているので手元にない。
というのも、莉奈と実の母親の間には法律上はまだ親子関係が成立しているらしいので、莉奈の遺産を受けとる権利が母親にもあると聞いて一銭も残さないことに決めたのだ。
母親とは、莉奈が有名になった頃に一度コンタクトがあったが、手切れ金の数千万を事務所経由で渡して以来音信不通を貫いている。
社長曰く、生きてはいるようだ。
母親は実姉の死も知らないまま、手切れ金でのうのうと飯を食って生きている。
そんな女の手に金が行くくらいなら、いずれ海へ還るつもりだったから、死に場所を奇麗にする方がよほどいい。
しかし海の広さに比べれば莉奈の稼いだ億なんてはした金だ。
社長は寄付に熱心な莉奈をそうやって嘲っていた。
自然のデカさを舐めるなよ、と。
社長との関係性は、親子と言うには遠すぎて、仕事仲間と言うには近すぎる。
そんな社長が最後に何を言うのか、莉奈は彼の無表情をじっと見つめた。
「まあ、元気でな」
死に行く人間に、これまた途方もなく爽やかな嫌味だ。
諦観と傍観の狭間に、甘い煙草のにおいと潮風が混ざった。
こんな風に、この人は人魚を囲ったのだろう。
莉奈は、不意に襲ってきた目元の熱感から逃れるように顎を上げた。
陽が沈みゆく。
時間だ。
莉奈と社長が、バスタブからリナを引っ張り出す。
「がんばれがんばれ」と間抜けな掛け声を絶えず振られるものだから、笑って気が抜けそうになった。
もちもちした肌に指が食い込む。
やっとの思いで百キロ越えの人魚を海へ放ると、彼女は水面から顔を出し、手を叩いて喜んだ。
「思ったよりも冷たいんだけどー! やばい、さむーい! しかも水なんかまずい~」
言っていることは不満そのものなのに、はしゃいでいるようにしか聞こえない。
季節は九月の初め、逗子の海は二十七度を記録していた。
異常な海水高温とも言われる時代だ。
到底冷たくは思えないが、温室ならぬ水槽育ちの箱入り人魚には刺激が強すぎるのだろう。
そしてやはり、莉奈の微々たる金では、人魚の舌に合う海水すら品質を保てない。
呆れ返る社長の横で、莉奈は腹を抱えて笑った。
そうして一頻り笑った後、振り返ることもなく、自らも海へ飛び込んだ。
急な海水が一瞬だけ血管を収縮させる。
律儀に莉奈を抱えて海中に立たせたリナは、社長に向かって手を振った。
「じゃーねー社長。ばいばーい」
「はいはい、さよなら。人間に捕まるんじゃないぞ、お前の親みたいにな」
「大丈夫、私もうオトナの人魚だから」
「どこが大人なんだかな……」
「はい、莉奈も社長にバイバイね」
莉奈の手を持ち上げたリナは、人形の腕を操るかのごとく、彼女の手を乱暴に揺すった。
社長は軽く手を上げて、すぐに欄干の向こうへ消えてしまう。
それでよかった。
莉奈は、自分を抱える人魚に顔を向けた。
「わがまま言っていい?」
「なーに?」
「あまり苦しくならないようにしてほしいんだけど」
えー? と首を傾げたものの、説明をするなりリナは頷いた。
「深く潜って、一気に浮上すればいいんだね?」――言葉で言うのは簡単だ。
「そうすると苦しくないんだ?」
「分かんない……けど、ダイビングする人とか、それで急に気を失って死んじゃうって聞いたから」
「へぇ、死ぬ前に何が何だか分かんなくなるって私は一番イヤだけど」
「ユエも同じこと言ってた」
黒い尾びれ以外何一つ似ていない人魚も、自分を見つめながら生を全うできる喜びを語っていた。
体力が衰え、脈が落ち、水を掻くことができなくなって尚、干乾びることを厭うた彼女は水の底にゆっくりと沈んだ。
その最期を莉奈は見ることができなかった。
彼女が離席したほんの数分の間に、ユエは旅立った。
子供も、莉奈も残して。
「だけど苦しいのは嫌だ。痛いのも、怖いのも……生きている間にたくさん経験したから」
懇願するように言うと、リナは歯を見せて笑った。
分かった、というフレーズが頭に響く。
「じゃあ、目を閉じてね。いくよ。いち、に、さん――」
冷たい両手が、いつかのように莉奈の顔を包んだ。
冷たくも、心地いい愛の温度が溶けだす。
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