第9話

 メスしかいない人魚の生殖は基本的に単為で行われ、その子は99.9パーセントの遺伝子が親と一致する。


 だが、単為生殖は、多様性に欠けるという最大の欠点を持つ。

 環境の変化に弱く、特定の病気にかかりやすい、細胞が変異しやすいなどが分かりやすい例だ。

 だから、簡単に絶滅しかねない。

 しかし、そもそも人魚はメスしかいない。

 有性生殖による遺伝子の混合は見込めないのではないか?


 ところがどっこい、人魚は驚くべきことに、粘膜接触(主に唾液)によって他の人魚の遺伝子を取り込み、次世代の人魚に継承させることができるのだ!


 その説明を受けて、莉奈は仰天した。

 つまり、キスで子供ができちゃうという小学生みたいな発想が実現するのである。

 だが、莉奈は人魚ではない。

 人間だ。


「だけどもしかしたら混ざるかもしれないだろう?」


「混ざる……」


 そんな適当クッキングみたいに言わないでほしい。

 だけどユエの方はすっかり乗り気らしく、今までにない爛々とした瞳で莉奈を見つめてきた。どうしてそんなに生き生きしているんだろう、と不思議に思う。


「でも、生まれてもさ……ユエは死んじゃうんでしょ」


「まあな。もっと早くに産んでもよかったが、この水槽の中に二匹は狭いし、どうせ産むなら死ぬ前にとでも思っていたんだ。この中なら天敵もいないし、世話する人間もいるから、私が死んでも子供は十分生きていける」


「……それは、ユエが……」


 莉奈は口を閉ざした。

 世話をし、管理をしていたのは、ユエがお姉さんに似ているからだ。

 死んだお姉さんの面影をこの人魚に見るために、社長は人魚を飼っていた。

 だけど、遺伝子上はほぼ同一の存在と言っても、ユエの子供まで面倒を見るかは分からない。

 ユエがあと一年もしないうちに死を迎えるならば、どうやっても、子供は親の姿を模倣することはできないのだ。

 お姉さんの面影は、この一代で消える。

 社長は人知れず買ったのだから、人知れず手放すかもしれない――。

 それこそ、水槽生まれの無垢な人形魚を、海に捨てることだって否定はできない。


 だが、曇りのないユエの瞳は、自分の子が蔑ろにされるなんて露ほど思っていなかった。

 目は口程に物を言う――国語のテストにこの前出た。まさにこのことだ。


「どうして、人魚の子供が私のためになるの?」


 躊躇いながら発した疑問は、思った以上に小声となった。

 反対に、ユエの声は水槽いっぱいに反響するくらい堂々としている。


「誰が何と言おうと、そこに代わりの愛が存在しないからだ」


 ピンとこない莉奈に、ユエは続けた。


「私が死んだら、この水槽を介して、子供に最も近い存在は誰だ?」


「たぶん私……」


「ということは、幼体が脱皮するときに模倣するのは?」


「それも私……?」


「人魚とはどういう生き物だ?」


「自己愛のかたまり……」


「それはつまり、莉奈に代わって、人魚が莉奈自身を愛するってことになるだろう?」


「…………なる……のかな……? だって結局違う生き物じゃん……」


「でもお前たちは、私を晶の代わりにしたじゃないか。姿形を模倣したただの人魚なのに」


 ユエは喉を震わせて笑った。白い首筋には青い血管が薄っすら見える。


「あとは、そうだな。莉奈のことが好きだから、代わりはいないと分かってほしくて」


「うん……?」


 またもやピンとこない莉奈に、ユエはわざとらしく肩をすくめた。


「環境の変化に適応する必要のない水槽で、自分一人で子を産める人魚の私が。わざわざ他の、しかも人間の遺伝子を取り込んで残そうとするなんて、一世一代の愛の告白に他ならないと思うんだが」


 その言葉に、莉奈は体温が上がるのを感じた。

 そのせいで、張りついた服が温度差で余計にべとべとして気持ち悪い。

 脱いでしまいたくなって、でも人魚とはいえユエに裸を晒すのも恥ずかしくて、もじもじする。

 その姿を見て、ユエはふっと息を漏らした。


「莉奈。晶とのアイドルごっこは楽しかったか?」


 他人が聞けば、嘲りとも取れる発言だった。

 だけど、莉奈の心は凪いだまま、素直に返事をする。

 ユエにからかう意図がないことは、問わなくても分かった。


「私が死んだら晶とのごっこ遊びもおしまいだ。アイドルになりたいんだろう? 真似事はやめて、夢を叶えるために生きろ。私はその形を見ることができないが、私の子がそれを見られることが、今の私の夢だ。お前は自分勝手になっていい――生きるために、母親の元から逃げ出したように」


 莉奈とユエはしばらく見つめ合った。

 彼女は莉奈の心の動揺や不安すら楽しむように目を細め、ゆったりとした動作で水槽の中に帰っていく。

 ぐるりと黒い尾びれを墨汁のように滲ませながら一遊泳すると、ちゃぽんと、顔の半分だけを水面から出した。


 先ほどまでユエがいた真横の岩礁には、剥がれ落ちた黒い鱗が血痕のように散っている。


 何もしなくても、ユエはただ死んでいく。


 生命の摂理に従って、水槽に沈むのだ。


 原初、生命は海から生まれてきたというのに。


 莉奈は、肺にありったけの空気を詰めて水槽に飛び込んだ。

 飛沫が上がり、波紋が広がり、体は深く沈む。

 気泡だらけになった水槽の中で、黒い影を見た。

 長くしなやかな尾びれが、莉奈の薄い体に巻きつく。

 恐怖は感じなかった。

 ただじっと、水中に身を任せた。

 人魚の両手が、莉奈の耳を押えた。

 世界の音がさらに遠くなる。

 ぎざぎざした歯に噛まれたら痛いだろうな――恐怖はそれだけだった。


 塩辛さを呑みこんだ先に、ぬるい愛がやってくる。


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