第8話
社長はまだ入院している。復帰の目途は立っていない。
もう第一線からは退くつもりかもしれない。
春休みが終わる直前に東京へ戻り、見舞いに行った。
社長は個室で悠々と本を読んでいたが、「移住」というタイトルだけが骨ばった指の間から見えた。
「水槽は問題なかったか」
「うん……」
人魚はもうすぐ死ぬらしいよ、とは言えなかった。
「学校行き始めても、ユエを見に、あの別荘行ってもいい?」
「ああ。おまえ以外に頼めないからな。俺は退院してもリハビリ施設通いだし」
あっさり許可されてほっとする。社長は本を閉じて、乾いた唇を開いた。
「莉奈。宮須の墓参り行ったか?」
帰りがけに社長が呼び止めてきた。お姉さんの命日はとうに過ぎていた。
「行かない。お墓にお姉さんはいないから」
そういう歌があった気がするな、と口にしてから思った。
社長は薄く笑って、「お人形遊びもほどほどにな」と意味深に言った。
どちらが、と言い返したくなる。
いや、あるいはもう、社長は飽きてしまったのかもしれない。
葉山の別荘は、莉奈の中でマイホームに変わった。
本当は勉強なんて放り出して、夢を追う時間を優先したかった。
ユエが死んでしまうまで、無限の春休みを過ごしたかった。
だけど、ユエがお姉さんと全く同じ顔で、声で、「勉強は大事だぞ」と囁くので、やる気はないなりに机に向かった。
受業はネット環境さえ整っていればどこでも授業が受けられる。
登校が必要な日は葉山から新宿まで通った。
殺風景な一階の白壁を背景に授業を受け、それが終わるとすぐさま地下室にこもった。
本当にアイドルになれるとは思っていない。
今の社長に頼んだところでうまくいくわけもなく、そもそも、莉奈単体ならまだしもユエと一緒になんて天地が引っくり返っても無理だ。
「一般人が人魚を飼育することは犯罪です」――。
だけどユエに踊りと歌を教え、二人でアイドルのライブ動画を研究し、笑い合う瞬間。
ユエは人魚から人間になり、莉奈は十六歳から六歳に戻った。
「女子高生が人魚と踊ってみた」というタイトルで投稿した三十秒間の動画は予想の何倍も拡散された。
足がつかないかヒヤっとするほどだった。
水槽を横から見たとき、内と外で画面が分割されているように見えた。
その構図がいいなと思ったから、カメラの位置を細かく調整しながら、莉奈はユエと、好きなアイドルの踊りを完コピした。
無論、ユエに脚はないので尾びれで再現できる動作には限界がある。
どこにでもある、凡庸な題材だ。
だけど、尾びれのある人間が水の中で悠然と体を動かす様は異様で、それ以上に魅力的だった。
これが精巧なフェイクならば何かのプロモーションではないかと勘繰る人間が現れ、いや本物の人魚なのではないかと唱える者もいた。
そういうコメントを見る度にヒヤヒヤした。
しかし、水族館の人魚たちがショーに非協力的であることや、自称専門家の「人魚はコミュニケーション能力に欠けるのでここまで人の真似ができるとは思えない」という発言が拡散されると、「この動画の人魚はフェイクだ」との見方が強くなった。
本物かどうかなんて確かめてほしかったわけではないので、フェイクと断じてむしろもらえてよかった。
莉奈はマスクで顔を半分隠したし、ユエにはマスクに加えて上半身を隠すための服を着させたが、これを社長が見たら傷が開くくらい驚くのではないかなと思った。
想像すると口の中に唾がじわじわにじんで、にやけが止まらなくなる。
案の定、お叱りの電話が来た。
ビデオ通話にして、水槽の前に立つ。
個室とは言え病院だからか、必死で怒鳴り声を抑え込んでいる社長の姿は面白い。
ユエが興味深そう水槽からスマホを覗き込むと、社長は苦々しく唇を噛んだ。
水槽越しとはいえ、自分たちの親密さは伝わっているはずだ。
社長が怒れば怒るほど気分が高揚して、莉奈は一方的に通話を切った。
それからすぐ、莉奈は大本の動画アカウントを削除した。
世の中には転載され、出所不詳となった「女子高生が人魚と踊ってみた」だけが千切れた海藻みたいに漂っている。
他にもいくつか動画を撮ったが、アップロードするのに臆して、スマホのメモリを肥やしているだけになってしまった。
だけどそこに後悔やもったいないという感情は沸かず、この撮影行為自体が目的だったことを改めて意識させられた。
これは、お姉さんと――いや、お姉さんに見てほしかった夢の成れの果てだ。
地下室で好きなだけ歌って、踊って、あーでもないこーでもないと人魚に語らっていたら、馬鹿みたいにお腹が減った。
ネットスーパーで食材を買い、未使用だった一階のキッチンで料理をするようになった。
海藻サラダを用意してユエにあげると、彼女はいたく喜んだ。
その笑顔を見ると、きゅっと胸が心地よく締まった。
もっといろいろしてあげたい。だけど、人魚は何も望まない。
「莉奈の夢は叶いそうか?」
そればかり尋ねてくる。
夏になり、莉奈は水槽の底に、剥がれ落ちた何枚もの鱗を見つけた。
ユエの様子に変わりはないのに、彼女の寿命は着々と迫っている。
居ても立っても居られなくなり、莉奈はユエからデッキブラシを奪い取って、わっしゃわっしゃと岩礁を磨き、脚立を駆使して水の抜かれた水槽の内側をひたすら拭いた。
無欲な人魚に莉奈にできることと言えば、水替えのときに行われる水槽清掃くらいだ。
塩分濃度も水温の管理も、機械が自動でなんでもやってくれるが、掃除だけは手がかかる。
水槽の中に置かれたバスタブは、水替えのときにユエの一時避難場所となっていた。ユエは窮屈そうにバスタブに身を沈めては、「私が水中で磨いた方がよっぽど早い」と小言を漏らしたが、莉奈の好きなようにさせてくれた。
月が変わるごとに、莉奈はユエに新しい踊りや歌を教え、それを動画に収めた。
アップロードするつもりもないので、加工も編集もされていない生の動画でスマホの容量ばかりが圧迫されていく。
アイドルになる、という夢を追いかける行為自体が、自分でももう分からなくなっていた。
ただの真似事の繰り返しに満足してしまっている以上、ある意味で夢は叶ったと言える。お姉さんの顔をした人魚とのただの思い出作りだ。
あるいは、お姉さんに自分の成長した姿を見てもらうという、叶わなかった日常をやり直しているのか。
ユエは、動画を撮ったあとはいつもひっそりと笑っている。
きっとこの聡明な人魚は既に気づいている。
莉奈の夢がもはや形を成していないことに。
それでも、ユエは優しく微笑んで囁くのだ。
「莉奈の夢は叶いそうか?」
その柔らかな言葉を聞く度に、一生を水槽の中で終えようとしている彼女に何かしなければと焦った。
あったはずの食欲は、再び下降した。
それでも歌って踊って、学生生活も続ける莉奈は前よりも体が薄くなった。
「お願いだから、何か、私にさせてよ。なんでもするから。ユエのために、何か」
欄干に額をつけて懇願すると、ユエは唸った。
困らせたくてこんなことを言うわけじゃないのに、結果的に彼女を困らせている。
それがさらに莉奈の自尊心を抉った。
「……なら、私に海を見せてくれないか」
莉奈は顔を上げた。
ユエと目が合う。あずき色の瞳が細められ、「できるか?」と再度問いかけてきた。
一も二もなく莉奈は頷いた。
既に葉山は海開きもされ、週末ともなればマリンレジャーで街道はごった返す。
この別荘は高台にあり、海まで距離もある。
どうやって人目につかず人魚を運び出すか、まるでノープランだが、莉奈の脳内には浜辺でユエと二人、夕焼けを見送るシーンだけがフィーチャーされていた。
うまくいくわけがない。
そもそも、莉奈はユエを水槽から引き上げることすらできなかった。
莉奈の体重は四十キロ、かたや成体の人魚は一〇〇キロから一五〇キロとも言われる。
梯子を使って岩礁に降りたものの、莉奈はユエを一ミリも動かせない始末だった。
挙句、足が滑ってそのまま水槽に落ちた。
「無理だったな」
莉奈を岩礁に引き上げてくれたユエは、淡々と言った。
「もっといろいろ考えるから」
「私がここから出るには、莉奈一人では無理だ。だが私の存在は他人に知られてはならない。つまり私はここから出ることはできない」
「だって、ユエは海を見たいって」
「海を見たいとは言ったが連れて行けとは言っていない。前も話しただろ? 私は海
に未練はないんだ。この水槽の生活を気に入っている。海を見るだけなら映像で十分だ」
遠回しにプロジェクターを起動しろと言っていたのか。
冷えた体の緊張が一瞬で抜ける。
「でも、そんなの……いつもしていることじゃん。代わりになるなんて思えないんだけど」
「それがいいんだよ。そもそもなぜ私に施しをしたがる」
「それは……」
「晶の代わりにしていることに罪悪感を覚えるからか?」
押し黙った莉奈に、ユエが笑いを隠すように溜息をついた。
「別になんとも思わない。代わりにされているから何か不都合があったわけじゃないし、扱いが粗末だったわけでもない。誰かの代わりというものにそこまで後ろめたさを感じるのは、お前自身がそうされて傷ついたからか? 人魚には無用の気配りだな」
人魚の口がまた三日月に割れ、冷嘲する気配に恐れをなして、莉奈は膝小僧に額を擦りつけた。
ありのままの人間として誰にも求められたことなんてない、可哀想な子どもだと見くびられるかと思うと、どこもぶたれていないのに体が痛んだ。
「莉奈」
声と共に、頭に何かが触れた。
撫でられている、と思うまでに時間がかかった。
そのくらいぎこちない動作だった。
顔を上げると、岩礁に乗り上げてきたユエと目が合った。
彼女は、濡れた両腕で、莉奈のことを、これまたぎこちなく抱き締めた。
「ここでは私は晶の代わりだが、お前の代わりはどこにもいない」
ユエの囁きがポンプの循環音に紛れながらも、しっかりと莉奈の耳殻に入り込んだ。
ぽとり、と水滴が垂れる。髪か、服か、肌か、それとも涙か。
莉奈は、自然と自分の過去を振り返っていた。
それを言葉にしていた。
母への憎悪は既に摩耗しているのに、お姉さんが自分を残して死んだ悔しさばかりが
ヘドロとなって足を取る。
だからいつまで経っても、お姉さんの代わりを求めてしまう。
「私が本当にお姉さんの子どもだったら、置いて行かれなかった。お姉さんは死ななかったかもしれない。お姉さんと一緒にいられるなら、社長のことだってパパともお父さんとも喜んで呼んだのに」
「仮定の話には答えようがないが、事実を教えることはできる」
莉奈の両頬に、ユエの冷たくて、人よりも大きな手が当てられた。
間近に見るぎざぎざした白い歯に触れたくなるのを堪えながら、莉奈はあずき色の目を見つめることに集中した。
余計なことを、何も考えないよう。ユエの言葉を、聞き逃さないよう。
「晶はお前のことばかり話していたよ。代わりだったかどうかなんて考えなくていい。晶が一緒にいたのは莉奈、お前なんだから。お前が晶といて幸せだったならそれでいいじゃないか」
真剣に諭してくるユエの姿があまりにらしくなくて、莉奈は思わず破顔した。
そう思えるのはユエが自己愛に満ちた人魚だからだ――その一言を胸の奥底に沈めて、莉奈は彼女の手に自分の手を重ねた。間もなく触れられなくなるこの手に、祈るように言葉を吐く。
「ユエは、ちゃんと私の目の前で死んでね」
きょとんした人魚は、やがてあずき色の瞳をゆっくり瞬かせた。
不思議なことに、言葉がなくても彼女の答えが分かった。
莉奈の頬の熱に触れていた彼女の手は、すっかり乾いてしまっている。
早く海水に戻さないと、と思った直後、唇に一瞬だけ、冷たく、張りと潤いに満ちた肌が張りついた。
ユエに口づけされたのだ。
潮の匂いが強く鼻孔を衝き、ぽかんと口が半開きになった。
「莉奈、私は莉奈のために子供を産もうと思う」
ウェイウェイウェイ。
脳内に突然いかついアメリカ人が現れて待ったをかけるが、さすがの人魚も脳内電波は受信してくれない。
混乱する莉奈をよそに、ユエはもう一度キスをしてきた。
逃げる余裕もないので、莉奈はその冷たい唇を受け容れることしかできない。
「だから私に、莉奈の遺伝子をくれないか?」
人魚の口調は、この世の難事を万事解決せしめんと言わんばかりの明るさだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます