第7話

「おい莉奈。食事がないぞ」


 ユエが不満そうに吠えた。

 フィーダーが空になった。そうなると、管理者が補給しないといけない。

 莉奈は社長に電話をかけた。

 思えばこの別荘に来てから、一度も連絡を取り合っていない。

 まだ入院中だろうが果たして出るだろうか、と思案しているうちに、「よお」と呑気な声が聞こえてきた。


「そうか、なくなったか。じゃあまた発注しとく。二、三日かかると思うが、その間、ユエにはスーパーで魚でも買って食わせてやってくれ」


「普通のご飯じゃ駄目なの? パンとかカレーとか」


「試してみたらどうだ。俺はやったことがないがな」


「今まで社長が見てたの? 仕事、忙しいって言ってた割には暇だったんだね」


「飼った以上は責任があるだろ? 時間は作るもんだ。人魚の飼育は楽でいいぞ、犬と違って散歩もいらない。丈夫だから水槽の設備だけしっかりしてれば弱ることもない」


「そもそも一般人は飼っちゃ駄目なんだよ」


「ああ、そうだな。だから内緒にしといてくれよ」


 お姉さんのことは一切触れずにいる社長に、莉奈は口を噤んだ。

「おい莉奈」と、空腹の人魚が背後でうるさいので、「じゃあご飯よろしくね」と念押しして電話を切った。


 久しぶりに外出すると、太陽の光を浴びて肌が喜ぶように毛が立った気がした。

 春風が髪をさらい、知らない町の空気が肺に満ちる。

 外の世界はこんなに美しかっただろうか。

 地下室にいたときは、一生ここから出なくてもいいとすら思っていたのに、不思議だった。

 スマホの地図を片手に二十分歩き、坂の下にあるスーパーで鮮魚を大量に買った。

 買ったはいいが、持って帰る苦労を忘れていた。

 ぜーはーと息を切らしながら、両手のビニールが地面にくっつくのをなんとか堪える。

 別荘に戻った頃には足も腕も痛くてたまらなかった。


「サバか、まあいいけどな。あとはイワシか。……まあいいけどな」


 魚の味の違いは莉奈にはよく分からないが、この調子では人魚には好みがあるらしい。

 ラップを剥がして、水槽の上から魚を放る。

 こんな体験を水族館の給餌体験以外でできるとは思わなかった。ユエは器用に魚をキャッチして、遠慮なくかぶりつく。切り身は一瞬でなくなり、頭と尻尾がついた、内臓処理されていないような魚も腹から食らう。


 がつがつ魚を食べるその姿は健康体そのものだ。

 食欲があるのはいいことなのだ。

 だけど、その人魚然とした食事風景を見ている莉奈の腹は全く反応しない。

 残りの魚を冷蔵庫にしまってきたところで、魚の骨を海水で洗って遊んでいたユエが口を開いた。


「ところで莉奈。お前この数日まともに食事をしていないが、どこか悪いのか」


「悪くはないけど、ここに来てからちょっと太ったから、ダイエット」


 それは嘘ではなかった。

 地下室でユエと雑談するために足場の昇降をする以外は、ソファで映画やドラマに興じているかスマホをいじるだけの生活だったので、体重は二キロほど増えていたし、明らかにぜい肉がついた。


 ユエが眠っている間に筋トレもやり始めたが、まずは食事量の制限が必要だ。

 この数日、莉奈は水とプロテインバーしか摂取していない。

 だが、その意識以前に、単純に食欲が湧かなかった。


「ダイエット。あまり感心しないな。お前はただでさえ痩せすぎているように見える」


「アイドルとか、みんなもっと細いよ」


「またアイドルか。今もなりたいのか?」


「……そうだね……なりたいよ」


「夢を語るのも人間特有だな。クモも魚も夢は見ると言うが、それは睡眠中の生理現象であって、まさか人間になれたらいいな、なんて思うわけもない。せいぜい大きなエサが食えたらいいな程度だろう」


「ユエは何か夢とかないの? 人間になりたいとか」


 人魚姫の寓話が頭に浮かぶ。

 本物の人魚は泡になんてならない。

 死体が残って、海の底に沈み、食物連鎖に従って分解される。

 ユエは声を出して笑った。「私が?」


「ああ、でも、人間は何も問題なければ長生きできるか……。何十年も創作物に塗れていられるのはいいな。いや、いっそ自分の手で映画でも作れたら……そうだな。うん、私の夢は『物語を形として残すこと』だな」


「人間になって?」


「人間になって形を残すのはありふれている。人魚史上初の創造主になる方がいい」


 思った以上に壮大な夢だ。黒い尾びれが楽しげに海水を叩いた。


「どんな物語を作りたい?」


「そうだな。世間知らずの人魚のお姫様が人間になって、ニューヨークのアパートで同じく元人魚の人間たちとルームシェアをするんだ。笑いあり涙あり、世間の荒波に揉まれながら成長して、本物の人間になる話だ」


 つい先日観た海外ドラマと同じ設定だ。ニューヨークのアパートである必要がないのにあえてその設定を流用するあたり、人魚の創造性の乏しさを垣間見る。「ルームシェア相手のモニカの兄の結婚相手が」と意気揚々と話し始めたところで止めた。その展開はもう知っている。


「一から話を作るのは難しいな」


 悲観とは程遠い口調だった。

 本当は夢なんて抱いていないのかもしれない。

 ただ、莉奈の会話に付き合っているだけ。

 彼女からすればただの言葉遊びに過ぎないとしてもおかしくない。

 夢が叶わないときに足下に現れる泥を、この人魚は知らないでいる。

 それは羨ましくもあり、泥をつけたくなる底意地の悪さをぶつけたくもなるものだ。


「じゃあ、私の夢にちょっと付き合ってよ」


「アイドルか。人魚でもなれるのか?」


「なれるよ。ユエはお姉さんにそっくりで奇麗だもん」


 莉奈は無表情に言った。

 色のない目に映ったユエが、その口を三日月に割いた。

 その口の奥には、人間よりもはるかに尖った歯が夜光虫のように浮かんでいる。


「いいぞ。だけど時間はそれほどない」


「私の春休みのこと? なら学校なんか休んでも……」


「違う。私はもうすぐ死ぬんだ」


 みぞおちが持ち上げられる感覚に襲われ、欄干から身を乗り出してしまいそうになる。


 ユエは事もなげに話し続けるが、莉奈の頭にはまともに入ってこない。

 人魚の寿命は十三年。 

 その図鑑的なフレーズだけが耳に残る。


「自分のことは自分が一番よく分かる。鱗の艶はないし、剥がれやすくなった。それに晶が死んで五年というなら、もうそろそろだ」


「そんな……だって見た目が」


 莉奈はうろたえた。

 寿命で死ぬには若すぎると思ったが、彼女は人魚で、人間のように老いが顔形に反映されるわけではない。


「すぐ死ぬわけではないだろうが、一年も持てばいいかもしれない。その間にできる限り莉奈の夢が叶うよう協力しよう」


「それしかないの……? その時間を私にくれるの?」


「おまえが望んだんじゃないか。それで私が晶の代わりになれるならいいさ。それが役目なんだろう? 私は晶に似せるために飼われたんだから」


 ユエの言葉に、莉奈は息が詰まった。


 代わり、という言葉に心臓の脈がひときわ強く反応したのだ。


 自分もきっと、お姉さんにとって「代わり」だった。

 産めなかった子供の代わり。

 そして自分も、人魚と人間の根本的な違いに冷静でいるふりをして、大好きな人と瓜二つの生き物を代わりにしたいという欲求から離れられないでいる。

 だけど、扱いが変わるわけでもなかったのに「代わり」という言葉に傷つく己に対し、人魚は鬱々とした感傷なんてみじんもなくて、尾びれが美しく揺れていた。


「自分の代わりなんてどこにもいないのに、他人に愛という補完を求めるなんて、人間は非効率なことこの上ないな」


 そう言ってユエは、人工岩礁を離れて水槽の奥深くへ沈んで行ってしまった。

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