第6話
ユエはブロック状の人工餌を好んで食べた。
一日三回、朝は八時、昼は一三時、夜は一八時、岩礁に設置されたフィーダーから餌が出る。
「それって何? どんな味?」
足場の欄干から身を乗り出しながら、莉奈は尋ねた。
食うか? とユエが赤茶色のブロックを差し伸べてくるが、首を振って遠慮した。
青臭いような香ばしいような、不思議な臭いがする。
自然界では人魚は魚や貝、海藻を主食にし、時折、海鳥を食らうらしい。
雑食だ。
それはつまり、食おうとしないだけで、人間も捕食対象なのではないだろうかと思う。雑食ってそういうことだ。
口の周りを血だらけにして鳥を啜る姿をネットで配信されていたドキュメンタル番組で見てから、人魚が人間を襲うB級ホラーの想像をよくする。そのブロックだって、どんなモノでできていることやら。陰謀論はこういう猜疑心から生まれる。
「水族館で人魚に与えられているものと同じ飼料らしい。魚や肉を寒天や小麦粉なんかを混ぜて固めたものだろうな」
ユエはぱくぱくとブロックを口に運んだ。そんなものをどうやって社長が購入しているのか不思議だが、金持ちの人脈は底知れない。
「生の魚とか食べたくないの?」
「昶はたまに持ってきたな。自分で釣ったアジやメバル。生はやっぱりうまいけどな。でも私はコレでいい。骨も鱗もなくて食べやすい」
飼育された生物の退化を前に、莉奈は嘆息した。
ユエは、顔もさることながら、声も、話し方も、記憶の中のお姉さんと鮮明に酷似していた。そのせいか、莉奈は用もないのに、いつも地下室にいた。周辺に店が少ないので、食事は同じ店のデリバリーばかりだが、ユエと話しながら食べると全く飽きない。
地下室にはプロジェクターが設置されていて、地下室の白壁は簡単に劇場のスクリーンに早変わりする。ユエにねだられて一緒に映画やドラマを観ていると、彼女がお姉さんでないことを嫌でも意識させられた。お姉さんはフィクションに関心がなかった。
ユエは話し好きだった。人間との会話は退屈しのぎ、と言っていたが、一緒に映像作品を観たがるのは感想を言い合いたいからだと莉奈にはすぐ分かった。映画を見終えたあとのユエは、いつもうずうずしている。何しろ、黒い尾びれがいつもの三倍は俊敏に動いていた。犬の尻尾と同じだな、と微笑ましくなる。
同時に、人魚の知能や情緒が人間と全く遜色ないどころか、はるかに上回っているのではないかと思うと怖くなった。そんな生き物を水槽で囲っていることが罰当たりに思えた。既に、法律上は犯罪行為をしているというのに。
だが、当の人魚は大きな不満もなさそうに水槽で生きている。
ユエはお姉さんとの思い出についても、軽快に話してくれた。
この黒い尾びれの人魚は、親とはぐれ、幼体で海をさまよっていたときに、定置網に引っかかってそのまま売られてしまったという。社長に購入されたのは捕まってすぐのことで、社長はどうやら、人魚が手に入らないか方々に唾をつけていたようだ。
しかし幼体の間に社長と会ったのはこの別荘の水槽に入れられたときの一回だけで、あとは週に数回、お姉さんが来て、水槽とユエの体調確認をしていたという。
幼体は体を覆う粘膜で海中の溶存酸素を取り込むため、肺や声帯が未発達なので会話はできない。
しかし、知能はある。
お姉さんは、今、莉奈が体を沈めているソファに腰かけては、思いついたように人魚に話しかけていたらしい。そんなことで、ユエは、お姉さんが知らぬところで人語をどんどん吸収していった。
「仕事の愚痴とか、悪口が多かったな。あの俳優は態度が悪いだの、女をモノみたいに扱うだの。あの女歌手は生歌が下手すぎるとか、今のアイドルは凛々しさが足りないとか、公私混同と遅刻するヤツはまとめてクビにしろとか。まあいろいろだ」
家にいた頃のお姉さんから想像もできない悪態ぶりだ。
お姉さんがプロジェクターを社長に設置させ、地下室がミニシアター化したのも影響が大きかったらしい。話すことがなくなると、帰り時間まで、お姉さんはぼーっとネット配信の映画やドキュメンタリーを見ていたらしい。莉奈は目を丸くした。地下室にいたのは本当にお姉さんだったのかと疑いたくなる。
「人魚は創造性に乏しいから、人間の想像力には恐れ入る。だけどおかげで、水槽の中から人間社会から人間そのものを学習し、地球や宇宙を俯瞰することまでできた。電子の海とは言いえて妙だな。原初、生命の世界は海から始まった。いずれ電子の海から新たな命が生まれてもおかしくないな」
「うーん、デジモンのこと?」
「デジモン。そうか、そういう存在が既にいるのだな」
ふっ、と感嘆したように口元を緩めたユエは、時折こんな風に冗談が通じないが、水槽しか世界を知らない割には博識だった。
例えば「0.1ミリの紙を四十二回折ると理論上は月に届くが、現実問題として紙を折れる限界は十二回」だとか、「チューハイは焼酎ハイボールの略」だとか、「天邪鬼の由来は日本書紀に出てくるアマノサグメという悪い女神」だとか、莉奈は「へえ~」と相槌を打つことしかできない。
こういった雑学はお姉さんから仕入れたらしい。
成体としてお姉さんの姿形を模倣し、お姉さんと直接会話ができるようになってからは、人語の理解と学習はよりスムーズに、さらに深度を増した。
お姉さんは、人魚が望むままにたくさんの話をしたという。今までのような一方的な愚痴や悪口ではなく、それはまさにコミュニケーションだった。
その結果が、莉奈を凌駕する教養だ。
ユエは読み書きにも挑戦したというが、乾燥しやすい肌では長時間ペンを執ることは難しくて挫折した。水の中でも読める本がいつか開発されればいいな、と真剣に言うのがおかしい。
声を出して笑い合うと、お姉さんと暮らしたマンションのにおいを思い出す。
「ねえ、ユエはなんで社長に飼われているの? 海に帰りたいと思わない?」
葉山の別荘に滞在し始めて二週間が経った頃、莉奈は欄干の上で顔を埋めた。
「またそれか。なんで、と問われると、海で捕まって密売された私を昶が買ったから飼われている、ということになるが。昶がなぜ私を飼っているのか、その答えはもう知っているんじゃないか」
岩礁に寝そべっているユエは、薄く笑った。
舐めたら甘すぎて悶えそうなあずき色の瞳が、莉奈を真っ直ぐ見つめている。
「海に帰りたいという気持ちは、今はもはやないな。この生活に慣れてしまった。今さら天候や気温が移ろい、外敵も多くいる外洋で暮らすメリットはない」
人魚の外敵は、大型のサメや、地域によってはシャチ。無論、条約なんて無視して密猟を図る人間も大いなる敵だ。この数日で、莉奈の知識は人魚に関してだけ深まっていく。
「だけど、ここは独りだし……今は私がいるけど、学校が始まったら東京に戻らないといけない。社長だって、まだ当分ここには来られないだろうし。海には仲間がいるでしょう」
「たしかに一人は退屈だ。だけど別につらいことじゃない。人魚に家族という概念はないし、私を産んだ人魚ももう死んでいる。同じ種族だから仲間には違いないが、共に生きていくわけじゃない。人魚は自己愛が強いんだ。別個体に向ける愛情をあまり持たない」
「自己愛……?」
「ああ。一つの個体で種族として成立してしまうからかもしれない。自分以外は基本的にどうでもいいんだ。同種同士コミュニケーションは取るが、人間のように愛情や思慕の念は薄い。だけど寿命が尽きる前に子供を産むのは本能だから、自分のコピーとして子を産む。同族の子を生かしたいと思うのもまた本能だ。個体数が減れば、いくら自己愛の塊の人魚と言えど、種族としての存亡に関わるからな。
幼体は親が庇護しないと簡単に死んでしまうから、親は自分の遺伝子を残すという本能のまま子を育てる。だけど、子の方は子の方で、成体になっても生存率は上げたいわけだ。これも生命としての本能だ。だから脱皮で姿が変わるとき、親や身近にいた生き物と瓜二つの顔になるようになったんだろう。自己愛の強い人魚の性を利用して、自分と瓜二つの顔かたちをした存在を愛し、庇護を促すために」
ユエは滔々と語った。一曲聞いたような気分になって、莉奈は拍手したくなる。
自然界は厳しい弱肉強食だ。親が死ぬことだってある。それでも、子供のときは誰かしら他の大人が守ってくれる。最初から親と全く同じ顔をして生まれてこないのは、大人になって尚、自分を助け、導き、守ってくれる存在に自らの形を似せるため。こんなことは、図鑑のどこにも書いていなかった。
自分という存在を何より愛する生物が、庇護され、愛されるために「自分」の姿を変える。なんとも信じがたいが、同時に、一つの生命体として完成された美と哀を感じる。他者と愛を育んだところで平気で我が子を捨てる親がいる人間より、よほど合理的だ。
自分が何より好き、自分以外はどうでもいい。
人間界では決して手放しで褒められる概念ではない。だけど、自己愛の塊だからこそ、自分と瓜二つの存在を愛せる人魚のあり方は眩い。莉奈は知っている。自分が何より好き、自分以外はどうでもいい。そう思っている人間は多く、彼らは言い訳をしながら他者を害する。愛されようと必死で媚び、自我を捻じ曲げる子供を、なおも平気で否定する。
「なんだか怖い顔をしているな。人魚が思ったような生物じゃなくてがっかりしたか?」
ユエの明るい声音に、莉奈は首を振った。
「私も人魚に生まれたかった」
「晶と同じこと言うんだな」
「だからお姉さんは海で死んだのかもしれない。人魚になりたかったのかも」
「なんだ、晶はやっぱり死んだのか」
「うそでしょ、知らなかったの? 五年前に海で……」
「晶はもう来られないと昶に言われただけだからな。どうしたんだと尋ねても歯切れが悪いし、もしかしたらとは思ったが。別に隠すことでもないのにな」
ユエの口ぶりは淡々としていた。
お姉さんとの付き合いは浅からぬものであっただろうに、感傷すらしない。
人魚は薄情だ。無言でユエを見つめると、彼女はまるで心を読んだかのように「死んだから忘れるわけじゃないからな」と言って美しく微笑んだ。
「しかし、晶が死んで五年か。ここにいるとどうにも時間の概念が狂うが、道理で私も鱗に艶がなくなってきたわけだ」
呟きながら、ユエは海水に浸かっている尾びれをひょいと持ち上げた。金のしゃちほこならぬ、黒いしゃちほこ然とした姿を、莉奈は瞼の裏に映るほど焼きつける。
しなやかな女体が元はお姉さんのものだと思うと、時折、別の生き物だと分かっていても抱きつきたくなるときがあった。きっとその肌に温かさなどない。
社長も、それを理解して尚、人魚を買ってお姉さんに育てさせたのだ。
彼女の生き写しでもいいと――どうしても彼女を手放したくない浅ましい気持ちを、あの男は捨てられなかった。
ユエへの気持ちが薄暗くなると、莉奈はいつも、プロジェクターを乗っ取って、アイドルのライブ映像をスマホからミラーキャストした。
ユエは「やかましい」と当初は怪訝な顔をしていたが、三日もすれば慣れたようだ。映像を背景に踊って歌う莉奈を、水槽の中から見物してくる。どちらが観賞物か分からない。だけどこの倒錯感が、閉塞的な地下には必要だった。
「こんな爆音かつチカチカした明滅の下でずっと音楽を聴き続けて、よく気が狂わないな」
水面から顔を出したユエが、感心したような口調で言った。煽りとも聞こえるが、これが平常運転であることはもう知っている。莉奈は階段を足早に昇って、人魚を見下ろした。水槽の前だと、声は聞こえても彼女の顔が見えないのだ。
話をするときは目と目を合わせて――。お姉さんの躾が、今も活きている。
「リアルはもっとすごいよ、観客の歓声が波みたいにうねって、会場全体が揺れる感じ」
「何万という人間が一カ所にいるんだろう? 何万って人魚が同じ岩礁にいることを想像すると怖気が走るな、鱗が擦れると痛いぞ」
「私、あのステージ側に立ってみたかったの」
「ふうん、そうなのか」
深海を思わせるユエの藍色の髪が、触手のように水面にちらばる。
晶と同じことを言うんだな、と、期待した言葉は聞こえなかった。
ユエはアイドルについて全く詳しくなかった。「こういう仕事があるんだな」と、初めて
映像を見せた日に呟いたくらいだ。莉奈は、お姉さんが自分の好きなものをユエに語らなかったことが寂しかった。どうして教えておいてくれなかったのだろうと思う。
そうしたら、もっと興味を持ってくれたかもしれないのに。
「莉奈、そろそろ『サラ・コナークロニクルズ』の続き観ないか?」
「え~、だってあれ打ち切りで最後まで話終わらないらしいよ、観ても仕方ないよ」
昨日見始めた昔の海外ドラマをねだるユエに、莉奈は唇を突き出した。続きが気になって、スマホで展開を調べてしまった莉奈は、ドラマ自体が打ち切られたと知ってすぐさま興味を失った。完結しなかった物語を追いかけても時間の無駄に思えた。
「おまえはそうやってすぐに調べるな……」
ユエの苦笑する姿は、馬鹿をやらかした莉奈を叱ったあとに見せるお姉さんそのものだ。
だけど彼女はやはり、お姉さんを模倣したただの人魚だから、莉奈は言葉なく欄干を引っかく。
いっそ、水槽に飛び込みたい。
この下には、母の羊水が広がっている。
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