第5話

 社長の指示で、莉奈は都心の豪邸を離れ、葉山にある別荘を初めて訪れた。白壁に青い屋根が特徴的な、欧風の外観だ。社長がこの別荘に莉奈を連れてきたことはなく、その時点で、何か訳ありだろうという見込みは立っていた。


 学校は春休みに入っていて、莉奈がこの別荘に滞在する分には全く問題ない。

 水槽の前に行けば何をするべきか全部教えてくれる、と社長は言った。

 喋る水槽を想像しながら京急線に揺られてきたので、期待半分、不安半分といったところだ。何しろ社長の家の家電は人間の声によく反応してくれるので、水槽がぺらぺら話し始めてもおかしくない。


 社長の書斎から拝借したカードキーを使って中に入る。

 最低限の家具すらない一階は、別荘にしても生活臭がなさすぎる。二階も空室状態で、買ったばかりなのだろうかと莉奈は首を傾げた。ただ、水槽は地下にあるらしい。社長の言葉を思い出して、玄関エントランスの端にある階段をスキップするように降りて行った。白い内装と天窓のためか、地下室へ至る階段も輝いて見え、不気味な雰囲気はまるでない。下っているのに、天国への架け橋を昇っているようにすら思えた。


 階段の下にあったドアを開けると、ごぼごぼという音がまず聞こえた。

 次いで、潮のにおいが鼻に抜ける。

 分厚いアクリル水槽は、莉奈の想像の百倍は大きかった。一瞬、水族館に繋がったのかと錯覚したほどだ。水槽には、白くて大きなバスタブが沈められていた。

 その中から、黒い尾びれをゆったり動かす人魚の姿が浮き上がるように現れる。

 

 人魚を個人的に飼育するのは法律で禁止されている。だが、この手の希少生物の密輸入や密売は絶えない。衝撃と感動が、莉奈の足を完全に棒切れ化させた。母親と行った水族館の風景がまざまざと甦り、地下室をエンターテインメント施設に変える。あの水族館ではついぞ人間の前で静止してくれなかった人魚と、ここでは間近に見つめ合えた。


 気づけば、水槽の前に手を触れていた。人魚の手が水槽越しに重ねられる。白く長い指先の間には、水をかくためだろうか、薄い膜が張っていた。


「お姉さん……」

 

 莉奈は目を細めた。人魚は、お姉さんにそっくりだった。足を絡め取られそうな藍色の髪や、あずきを煮詰めたような甘い色の瞳はさすがに人間離れしていたが、顔の造りは死んだお姉さんの生き写しだった。


 人魚はきょとんしたような顔をしている。お姉さんはこんな幼気な表情は見せなかった。だけど似ている。目を離せない。水槽に顔を近づけると、人魚の手が離れていった。逃げてしまう、と残念がった直後、人魚は、水槽に設置されていた人工岩礁に身を乗り上げた。ますますもって、ここは水族館のようだ。


「知らない人間が初めて来たと思ったら、なんだ、お前も晶の知り合いか」


 耳障りのいい女声のアルトが聞こえた。循環ポンプの駆動音がうるさいが、自分以外に人影のない地下室に、その声は不気味なほど響く。


「そこに足場があるだろう。こっちへ来い」


 たぶらかすような声に魅入られてしまった。莉奈は言われるがまま、震える足で水槽の真横に組まれた階段を上る。縦二メートルの水槽を覗きこむために設置されたであろう階段の上部には、転落防止柵が用意されていた。


「私はユエという。晶が名付けたからそう呼ぶといい。お前は? なんと呼べばいい?」


 人工岩礁に座っている人魚は、莉奈を見上げて微笑んでいる。


「私は莉奈……」


「リナ? あぁ、お前が晶の子供か。なるほど、私が晶に似ていて驚くわけだ」


「や……私は、お姉さんの子供じゃなくて……ていうか、え、なんで喋ってるの……」


「お前たちだって日本語の他に英語だの中国語だの勉強して話すやつがいるだろう。人魚が人語を勉強する。同じことだと思うが」


 平然と言い放つ人魚に、鳥肌が立った。観賞魚のようにしか見ていなかった生物が喋る、という驚きは、じわじわと喜びに変わっていく。お姉さんと瓜二つのこの生き物と会話が成立するということは、もはやお姉さんと話していることと同じなのではないか。


「水族館の人魚は人間の言葉を話さないのに、すごいね」


「人魚は学習能力が高い。長く飼育されていれば全く人語を解さないことはないと思うが。ただ話さないだけなんじゃないか。そこの人魚は話す必要を感じていない……嫌いなんだろう、人間のことが」


「じゃあユエは人間が好き、なの?」


「というわけでもないが、何せこの水槽しか知らないからな。暇なんだ。人間と話すのは退屈しのぎだな」


「なんで社長に飼われてるの?」


 まさか、人魚にも金を握らせたわけではあるまい。

 その売り主は大金を得たかもしれないが。


「社長っていたるのことか。なんでと言われても困る。幼体のとき捕まってあいつに買われたからだ。それから、晶がここに来ては世話をしていたから、私が晶に似ているのはそのせいだ」


 昶とはたしかに社長の名前だが、そんなことより気になるのは、後半部分だ。待って待ってと莉奈は声を上げた。


「似ているのはそのせいってどういう意味?」


「私たちは幼体のときは、人型をした真っ白な水生生物に過ぎない。成熟して脱皮するときに、身近にいた生物の姿形を模倣して体を作る。私は晶しか模倣する存在がいなかったから晶に似た。それだけだ」


 そんなことも知らないんだな、と言いたげに、ユエは口元を歪めた。


「人間が思う美しい容姿の者に世話をさせれば、人間が好む美しい人魚ができる、というわけだ。だから昔は愛玩用に人魚が乱獲されたと聞く。お前、勉強は大事だと晶に言われなかったか?」


 黒い尾びれが水を叩く。莉奈は波紋と人魚を交互に見つめた。

 社長の代わりにしばらく水槽の世話をすることになったと告げると、ユエは「ならば」と語りだした。

 循環ポンプの役割と、自分にとっての最適な水温、塩分濃度、給餌のタイミング、紫外線ライトによる日照時間と、覚えることが多そうだ。スマホに逐一メモしたが、「まあこれは全部機械が勝手にやってくれる」と言われて脱力した。やはりここでも、人の手より機械の手だ。まさに、「水槽の前に行けば全て教えてくれる」である。喋ったのは水槽ではなく、飼育生物だったが。


「水槽の掃除は自分でやるから、たまにブラシを私にくれればいい」


 おまけに掃除まで自分でやってくれるという。

 莉奈が率先して何かすることはない。せいぜい生体監視くらいだ。

 ユエは水面にぷかぷか浮かびながら、「気楽にしていればいいさ」と言った。


 人魚水槽の前には鑑賞のためか、やたらと座り心地のいいソファが置いてある。そこに寝そべりながら、インターネットで「人魚 生体」と検索する。莉奈は「生態」を誤字していることにも気づかないが、インターネットはしっかり、莉奈の知りたいことを教えてくれる。

 ユエは静かに遊泳していて、黒い尾びれが水中に滲む墨汁のように見えた。

 


 人魚は温暖な海を好み、日本では沖縄や小笠原諸島の岩礁地帯に多く生息しています。「魚」とついていますが、エラ呼吸はせず、イルカやクジラのように肺呼吸をする哺乳類に分類されます。

 幼体は人形魚にんぎょううおとも呼ばれます。

 人魚の成体は、一般的に上半身は人間、臍から下は長い尾びれの半人半魚の形態ですが、人間のように雌雄の区別がなく、基本的にメスしか存在しません。よって、現存哺乳類唯一の単為生殖が可能な生物です。そのため、単為生殖で生まれた人魚の子の遺伝子は親の人魚と99.9パーセント一致しており、親のクローンとも言える存在です。

 幼体は全身が白い粘膜に覆われた人型の生物で、ジュゴンやイルカに見間違えられることもあります。幼体は誕生から三年ほどで脱皮し、成体になると言われていますが、その際、身近にいた生物を模倣した半身を会得します。本来であれば「親の人魚」と全く同じ顔かたちを手に入れますが、親の死亡や別離などによって、身近にいた親と異なる人魚や、人間の姿を模倣することが確認されています。


 ※注 一九五六年以降、フォイダルヒエ条約によって人魚の学術目的以外での生体飼育、販売は禁止されています。日本では「動物の愛護及び管理に関する法律」による特定生物にあたり、許可のない飼育は刑事罰に問われます。



「そんなもので調べずとも、私に訊けばいいだろう。人魚のことは人魚に訊け」


 急に話しかけられ、莉奈は危うくスマホを落としかけた。

 水槽の向こうでは、ユエがラッコのように浮いている。


「この水槽のことしか知らないのに、自分のことが分かるの?」


「分かるさ。自分のことを調べないと分からない生物なんて生命体として欠陥が過ぎるだろう。そんなんじゃ自然界で生きていけないぞ」


「今は飼われているくせに。それに、いくら自分の仕組みのことは分かっていても、人間が作った法律のこととかはさすがに分からないでしょ、調べないと」


「はは、まあそうだな。無知な人魚に一つ教えてくれ、人魚に関する法律にはなんとある」


「一般人が許可なく人魚を飼育することは刑事罰に問われます」


「それは困ったな、今すぐ警察を呼ばないと」


 すらすらとおどけてみせたユエに、莉奈は嘆息した。尾びれの下に二本の脚を隠していてもおかしくないくらい人間臭い。だけど彼女は人間よりはるかに長い間水中を漂い、縦横無尽に泳いでみせる。

 その姿は、どうしようもなく人魚だった。


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