第4話


 いつかこうなる日が来ると思っていたんだ、と、業界にはせせら笑う者もいただろう。

 社長はたくさんの人の笑顔に囲まれていたけど、同時に、たくさんの人の不幸と憎悪の上に立っていた。


 社長が刺されたと聞いた日の夜、お姉さんが黒い水に飲み込まれる夢を見た。社長の悪徳の片棒を担がされ、結果として一人の女の子を死に追いやってしまったお姉さんの過去まで暴かれやしないかと不安で眠れなくなった。社長が刺されたのは自業自得だ。


 社長が代表を務める芸能スクールから羽ばたいた芸能人はいるが、多くは高額の授業費だけ支払って箸にも棒にも掛からず、夜露より儚く消えていく。世の中に序列がある以上それは仕方がないが、受講生の集め方と囲い方は、社長がかつて暴露したように悪質だ。


 街中で「きみに才能を感じた」などと声をかけ、受講費免除を嘯いて入学させる。当初は無料でレッスンを受けさせるが、実技試験の結果が悪いという体で「退学」か「有料受講」か、選ばせる。実技がどれだけ悪かろうがよかろうが、この問答は必ずある。


「このままプロのレッスンを受けていけば必ず成功できると思うんだけど」


 ――そんな甘言で耳を濡らされるのは元より、スカウトの言葉で自己肯定感と自尊心を強めた素人が、実技の結果云々で退学を選ぶわけがない。

 肝はここだ。「自分で選んでスクールに残り、お金を払って授業を受ける」こと。騙して受講させているわけではない。彼ら彼女らの意思の結果、有料レッスンをつけてあげる。だけど実際は、大多数の素人が素人のまま消えていく。街角で声をかけられたばかりに。


 社長を刺したのは、既に何百万円もスクールにつぎ込んでいた女性の恋人だった。


「死ねやクズ! 才能ない人間のことなんか金儲けの道具くらいにしか思ってへんのやろ! 死ね、死ねや! 金返せやクソったれ!」


 犯行直後の犯人の慟哭は、瞬く間にネットの海に氾濫した。

 社長は数年前から、自分自身がメディアに取り上げられることが増えており、その関連で本を出したばかりだった。その販促を兼ねた講演会が開かれ、開始早々に刺された。

 犯人はイベントのために雇われたバイトスタッフだったが、素性と動機が明らかになるにつれ、社長を殺すためにバイトに応募していたことが分かった。因果が逆だ。計画的犯行だった。愚かにも、社長はソーシャルメディアで自身の講演会の予定などを発信していたので、そこから絞り込まれたようだ。予想通り、社長のイベントで、きっと犯人は狂喜乱舞していたに違いない。


 取り押さえられながら呪いの言葉を浴びせ続けた犯人は、一部のネット民から英雄視された。芸能スクールのカラクリを暴露し、既得権益を貪る拝金主義者に鉄槌を下した――だの、なんだの。一躍お祭り騒ぎとなって、莉奈はしばらくその身を隠さねばならなくなった。迷惑な話だ。それだけで莉奈は犯人を憎んだ。


 社長に血の繋がらない養子がいることは表ざたにはなっていないし、余計なことで騒がれたらそれこそ、自分の夢に後世、影響が出るかもしれない。

 都内の豪邸はマスコミに日夜囲われ、脱出もままならなかった。家政婦さんも出入りできなくなり、社長が買い置きしていた大量のカップ麺で日々を凌いだ。

 刺されてから七日目、意識不明だった社長が目を覚ました。世の中は社長の悪事をあることないこと書き連ね、記者会見での不手際を責め立てては、無人と思われている邸宅から目を逸らしていく。莉奈が社長と面会できたのは、彼が刺されて十日も経った頃だった。


「あれだけ刺されてよく生きてたね」


 社長に浴びせられた複数の刺し傷のうち、重大だったものは肺に達していた。心臓だったら確実にこの世にいないだろう。社長は青白い顔を莉奈に向けて、「人魚の刺身食ったことあるからな。体が丈夫になったんだ」と軽口を叩いた。


「莉奈。ほんとはな、宮須にふられたんだ、俺。お前を引き取って、ちゃんと育てたいからって。俺が子供好きじゃないの、あいつは知ってたんだ。子供が産めなくなるって聞いたとき俺はほっとした。泣いている宮須の前で、俺は慰めるふりをして笑ってた」


 痛み止めの点滴が絶えず、社長の身体に流れている。

 なのに、ずいぶん沈痛な面持ちで社長は口を開いた。


「俺は会ったこともないお前が鬱陶しかった。宮須の馬鹿な妹の子供ってだけで嫌だ。ふられた腹いせに宮須に嫌な仕事させて、結局死なれた。俺の方が馬鹿だな。それでお前のこと引き取っているんだから、最初から宮須に、二人でお前を育てるって言えばよかった」


「放っておけばよかったのに。なんで私のことを養子にしたの?」


 それは、答えられないまま海ほたるの夕焼けに消えた質問の一つだった。


「それが弔いになると思ったんだ。俺だって宮須が死んで混乱したし、辛かったけど。お前のことを大事にしてたら、また宮須に振り向いてもらえるかもしれないと思って」


 馬鹿じゃなかろうか。

 血の気はないが、恍惚が浮かんでいる社長の横顔を見てげんなりする。死人に振り向いてもらえるわけがない。それに、と、莉奈は、言うか悩んだ末に唇を動かした。


「大事にしているつもりだったんだ」


「欲しがるものはなんでも買ってやっただろ?」


 大真面目に社長が言うので、莉奈は一瞬、それこそ大事にされていたことの証左だと思った。お姉さんも、莉奈が欲しがるものは大体なんでも買ってくれた。社長は、お姉さんが買ってくれたものよりはるかに高価なものでもなんでも買ってくれた。大きな家で、上等な服と食事を用意し、同年代の子供が経験できないアクティビティにも多く連れ出してくれた。そこに莉奈の意思と心はあまりなかったが、恵まれた生活を、社長がくれたのだ。


 だけど、経験ばかりで思い出はない。社長はただの一度も学校行事に来なかったし、出先でも莉奈の存在をすぐ忘れてしまう。共に食事をした回数は片手で足りるし、そもそも莉奈に私的なことで話しかけてくることは稀だった。


 考えるのは苦手だけど、社長との数年間を思い返して、「大事にしている/されている」ことの認識の差を痛感した。社長への不信が拭えないままだったのは、お姉さんとの関係以前に、お姉さんに感じた温かさをこの人に見出せなかったからだ。


 例えお金がなくても、頭を撫でてくれればよかった。言葉少なくても、頭を撫でてくれればよかった。いつも一緒にいられなくても、頭を撫でてくれればよかった。社長は悪い人だ。だけど自分にだけは良い人であれば、まだ、心の余白を彼に預けられたかもしれない。

 ちょっとわがままを言わせてもらえるなら、一緒に料理をしたり、調子よく合唱したり、時には二人だけで出かけたりしてみたかった。そんな些細なことでしか満たせない飢えと渇きが莉奈にはあった。


 もし社長とそういうことができていたなら、彼が刺されたとき、自分はもっと心を痛めて、焦燥感に駆られて、迷惑だという感情以外で犯人を憎んだかもしれない。それが人らしい心の営みだと思う。そういう人間になりたかった。


「海水と羊水は成分がほとんど同じなんだそうだ。生物はみんな海から生み出されたんだから、それも道理だな。それなら、死ぬときも海に還るのが自然だと思わないか。俺も死ぬときは海で死にてえな」


 脱色された社長の横顔に感情はない。社長の願望には全く関心を寄せられなかったが、海に還るという言葉だけが耳に残った。お姉さんは死んだのではなく、海に還ったのだ。黒い水に飲まれたのではなく、包まれたのだ。都合のいい解釈が、莉奈の中に気泡となって浮かび上がる。


 お姉さんにもしちゃんと子供が生まれていたら、あの海ほたるで社長と並んでいたのは自分ではないだろう。本当の親子三人で、目にも鮮やかな夕景に声を弾ませたに違いない。「お母さん、大好き」。ありえもしない、愛の叫びが夢想の世界に弾けて、消えた。そもそも、その世界で自分は生きていない気がした。顔も忘れた母と二人、黒い水に包まれて海に還るのだ。


「ところで莉奈。一つ頼み事があるんだが」


 社長がそんな風に言うのは初めてのことで、莉奈は面食らいながら我に返った。


「俺の代わりに、水槽の管理をしてほしいんだ」


 社長がアクアリムを始めていたなんて、知らなかった。

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