第3話

 お姉さんのパートナーを名乗る男が莉奈を引き取ったのは、急展開だった。

 パートナーにはいくつか意味がある。

 だが、莉奈には、男と女のパートナーと言えば、一つしか思い浮かばなかった。


 お姉さんの恋人。


 信じられなかった。

 それ以上に、いざ離別して思い知らされる。莉奈が知るお姉さんの姿は、あまりに広い世界のひと掬いの砂のようなものだった。


 莉奈の母親は既に出所しているが、生活保護を受けていて子供を養育できる状態ではない。何より、母親も莉奈も、互いが互いにNGを突きつけ合っていたから同居なんて絶対無理だ。行政側もそんな状態では無理強いしない。父親ははるか昔にとんずらしているので最早選択肢にない。さすがにもう、とんずらの意味は分かる。

 お姉さんが昔語ったように、祖父母は死んでいる。縁のある身内もいない。

 莉奈は文字通り孤独になった。

 施設に入るしかない。

 だが、男の出現で、莉奈は新たな人生を送ることになった。


 男は羽矢はやといった。

 莉奈は、羽矢莉奈という名前になった。四音しかない。言いやすいが、名前としての語呂は悪い。もはやフルネームを早口で言われる方がしっくりくる。ハヤリナ。それが後に莉奈のあだ名になった。


「俺のことは父親だと思わなくていいから、社長って呼んで」


 なるほど、今度は役職名ときたか。

 社長はその呼称通り、何やら会社をいくつか経営していた。

 茶髪に、スーツ越しでも締まった肉体をしていて、見た目は爽やかで三十路でも通用しそうだが、その若作りな身なりが逆に胡散臭く見えた。実年齢は四十三歳だった。学校のパソコンで調べた。インターネットで名前を検索すればすぐに辿り着けた。今時の経営者はみんな本名でSNSをやっている。


 社長の家は、都心一等地にある大きな戸建てだった。ついに集合住宅から建物丸まる一つが自分の家になった。コンシェルジュはいないが、なんでも自動だ。社長の車が近づくと自動でガレージが開き、家の中は「電気つけて」の一言で勝手に点く。いつも室温は一定、快適だ。なんだか家電に監視されている気がして、莉奈は落ち着かなかった。いまだ墓に納められていないお姉さんの骨壺をいつも抱きしめて、慣れない日々を過ごした。


 社長は仕事の関係か、それとも本拠地が他にあるのか、週の半分も家にいなかった。代わりに家政婦がよく家に来て、莉奈の世話と家の管理をしていた。

 羽矢莉奈になったときに転校もしたので、二重の環境の変化によって、莉奈は一時期不登校だった。社長は不登校については何も言わず、「週末海行くか」と、莉奈を自前クルーズ船による海上バーベキューに連れ出した。金持ちの道楽だ。


「ええっ、社長、隠し子なんていたんですか!」


「そうそう、莉奈ね。最近引き取った。まあ、宮須みやすの姪なんだけど。よろしくしてやって」


 そんなやり取りは初見の人たちとの間には毎回あった。そして大概、お姉さんの名前が出ると、みな気まずそうに口を閉ざす。社長とお姉さんの関係は、莉奈が知らないだけで周知のことらしかった。

 社長はこういう「遊び」を時折企画した。社長の経歴からすれば、それは当たり前のことかもしれないが、芸能人やその卵と呼ばれる見目麗しい男女が社長の催しにはよく来た。何しろ社長は元々音楽プロデューサーで、何組ものアーティスト、アイドルを世に送り出した実績ある人物だったのだ。


 彼らは、社長に伴われる莉奈のことを「かわいい」と棒読みで言う。動物園のふれあいコーナーにいるモルモットやうさぎに触るような身振り手振りで、莉奈の頭を軽く撫でていく。触れられるときは抵抗感があった。しかし、ふれあいコーナーの生き物が人の手に慣れて暴れなくなるのと同じで、間もなく身体も心も大して動かなくなり、ただ一瞬の愛玩が終わるのを無表情に待つだけだった。暴れないだけで、ストレスはある。


 社長は別に、お姉さんの死を引きずる莉奈のことを想ってとか、不登校の莉奈を気遣ってとか、そういう意味で外に連れ出すわけではない。「家で暇そうだから」ただそれだけの理由で連れ出して、自分の企画した催しに放り込んで、それで終わりだ。「これ、俺の子」と冗談っぽく紹介をして周りを驚かせたら、話を掘り下げるわけでもなく、「最近のお気に入り」について酒を飲みながらだらだら周りに講釈を垂れた。


 最近のお気に入りは、「女のタレント」や「店の女の子」など下世話な話題から、「時計」「釣り」「ゴルフ」「バイク」「車」、果ては「アニメ」や「裁縫」など、幅広かった。社長は世の中のエンタメは大体全てが好きなようだったが、そんな風に愛が四散している人間だと、莉奈は逆に、この人は何も好きではないのではないかと不信を抱いた。


 お姉さんは分かりやすい人だった。生活能力には秀でていたが、生活に彩を添えることにはある意味無気力だった。莉奈と出かけても基本的に、莉奈の要求と欲求を満たすことに終始し、お姉さん自身が何かを求めたり、楽しもうとしたりすることは殆どなかった。

「自分のことを考える時間が無駄に思えるんだ」――お姉さんはそう言いながら、莉奈がねだった服をレジに持って行った。

 テレビはニュースと音楽番組以外ほとんど見ない。

「人が考えた話だと思うと時間の無駄に感じるんだ」――ドラマやアニメのことは全く興味を示さなかった。


 反対に莉奈は音楽と同じくらいフィクションも大好きだったから、その手の話がお姉さんとできないことは少し寂しく思ったものだ。

 でもそんなお姉さんだから、彼女が無駄だと切り離さなかった自分の存在と、音楽が――きっと幼い頃夢見たアイドルが――特別なのだと強く思えた。お姉さんと自分は、深くて見えないところで繋がっているのだ。


 だけど、社長とは何も繋がっていない。繋がろうとも思わない。それは社長も同じだろう。部屋の片隅でゲーム機を一人いじる莉奈は、キラキラした人間たちに囲まれて「この世の幸福はみんな俺のもの!」と言わんばかりの社長を横目に見た。

 彼はなぜ自分を引き取ったのだろう。お姉さんと、本当はどういう関係だったのだろう。


 四十九日の法要が終わった頃、ずっと傍らに置いていた骨壺ともさよならをしなくてはならなくなった。相変わらずお姉さんの死を受け容れられてはいないが、骨壺を抱きしめても冷たい感触が頬に伝わるだけで、余計物悲しくなってきたので、ここらが手放す頃合いなのだと自分に言い聞かせた。


 お姉さんは、実家の墓を「しまって」しまっていたのだという。だから、改めて永代供養のマンション型墓地を社長が契約していた。骨の集合住宅だ。ぼそっと漏らすと、珍しく社長に怒られた。怒られたと言っても、「こら」と力なく睨まれただけだ。怖くもなんともない。お姉さんの般若面を思い出して、自然と気分が落ちた。

 システマティックな納骨が終わるなり、社長は「腹減ったな」と言った。情緒の欠片もない人だ。「海に行こう」と、社長は車中で口にした。てっきりこのまま早めの夕食でも摂るつもりなのかと思っていた莉奈は面食らう。海鮮でも食べたい気持ちなのだろうか。莉奈の返答を社長は待たない。彼が行くと言ったら行くのだ。

 社長が運転する高級車が、アクアラインを走る。


 海ほたるに寄って、回転寿司を食べた。回らない寿司しか食べないと思っていた莉奈は、「うまいうまい」と皿を重ねていく社長に唖然としながらも、久しぶりの外食を楽しむことにした。テレビでCMをやっているお店へ、お姉さんに初めて連れて行ってもらったときの感動が舌の上に蘇る。テレビの向こうは押しなべて虚実の存在だった。自らの現実に取り込んで、やっと、この世界と自分が地続きである確証を得られた瞬間だった。


 陽が沈みゆく光景を、展望デッキから二人で眺めた。お姉さんがもしここにいたら、自分たちはどこからどう見ても完璧な家族だろう。ちらっと社長を見上げると、驚いたことに、社長も莉奈を見ていた。

 その視線の交錯が鍵を開けたかのように、莉奈は自然と、社長に尋ねていた。

 お姉さんとの関係、お姉さんはなぜ死んだのか、お姉さんの姪に過ぎなかった自分をなぜ複雑な手順を踏んでまで養子として引き取ったのか。莉奈からこんなに話しかけたのは初めてだった。社長はスタバの紙カップを傾け、夕陽に背を向ける。


「妹の借金返済するためにあくせく働いていた宮須を、俺が金で買った。妹っていうのは、つまり、お前の母親。お前の母親は『アイドルになれる』なんて甘い言葉に釣られて芸能スクールに通い詰め、至る所で借金しまくって、最終的に悪い男と子供を作ったバカ女。宮須はそんなバカ女を助けるために、自分を犠牲にして働いていた。健気な美人に弱いんだよ、俺は馬鹿な男だからな。お前の母親の借金を俺が全部チャラにしてやる代わりに、宮須は俺に、自分を売ったんだ。文字通り、宮須晶みやすあきらっていう人間をな。だけど、金で買った関係の割には、俺たちはうまくいってたと思うよ」


 社長が莉奈を見る目は、和やかなのにちっとも笑っていない。透き通っているのに、底が見えない泉のようで恐ろしい。


「宮須との恋人期間は長く続かなかった。俺たちに子供ができた頃、宮須に病気が分かったんだ。堕ろすしかなかった。宮須は二度と子供を望めない体になった。なぜか、俺たちの関係も駄目になった。俺にとって子供の有無は別に大事じゃなかったけど、宮須にとっては違ったらしい。だけど俺は宮須を金で買ってるから、恋人じゃなくなった宮須に別の仕事を与えた。宮須が、お前を引き取った後もな」


 どんな仕事をさせていたのか、知りたいけど、知りたくない。喉がからから乾いて、夕陽に焼かれた頬がじりじりと微熱に痛む。社長は突然、膝を折って、莉奈に目線を合わせた。


「宮須は気づいた。だから死んだ。自分の妹をぶっ壊した連中と同じことを、自分もしているってな。あいつには、俺の運営する芸能スクールの受講生や卒業生のメンタルケアをやらせていた。おだてて、宥めて、厳しく怒って、誰よりも甘やかして、きみには才能があるんだよと囁かせる。別に詐欺じゃない。辞めるなとは言わない、辞めてもいいとは言う。辞めないのはそっちの都合だ。金を払えばレッスンは受けられる。売れるかはそっちの問題だ」


「……社長がお姉さんを殺したの」


「殺したんじゃない。宮須が勝手に死んだんだ。言っておくが、死んでほしかったわけじゃない。俺はお前に関心はないが、宮須がお前のことを大事にしていたかはよく知ってる。お前を残して死ぬわけがないと、高を括っていたのは認めるよ。だけど、思いがけないところで事件は起きて、時に人は、簡単に死ぬ」


 お姉さんの死について語るときだけ、社長は無表情になった。

 だけど次の瞬間には、薄い笑顔を張りつかせていた。押し黙る莉奈に触れることもなく、社長はゆっくりと背筋を伸ばす。何事もなかったようにぐぐっと背伸びをした。さーて帰るかぁ、と言わんばかりだ。

 車中で、社長は流行りの音楽をジャンル問わず垂れ流していた。アイドルソングが流れても、もう、莉奈の身体は左右に揺れない。口ずさんでくれる相手もいない。

 社長に与えられたスマホの画面には、半年前に飛び降り自殺したネットアイドルの記事が表示されていた。半年前といえば、お姉さんが煙草臭くなっていった頃だ。

 故人のSNSに投下された、本来なら時間経過で消えるはずだった遺書は、死後も画像として残り続けている。


「わたしはばかなので、いつも間違ってばかりの人生でした。あきらさんだけが希望でした。あきらさんのことが大好きです。うまくお仕事できなくてごめんなさい。じょうずに生きられなくて、ごめんなさい。もっと早くに、やめるべきでした」


 真っ黒な背景に、白い字が浮いている。

 この文章を公開したあと、彼女は二十四歳の人生に幕を下ろした。あきら、という人物の特定合戦がしばらくネットで盛り上がったらしい。共演したことのある同名の俳優や男性アイドルと交際していたのではないかと噂され、所属事務所が完全否定する騒動になった。死後になって、彼女はその知名度をぐっと上げたのだ。皮肉なことだった。


 静かな説教。暗い横顔。「上手に生きようと思ったときにはもう遅い」そう言って煙草。煙草。煙草。お姉さんは言った。「莉奈、好きなものを買ってやる」


 そうやって彼女のことも宥めていたのだろうか。


 当事者たちが既にこの世にいない以上、残された人間にできるのは推測パズルによる妄想だけだ。だから、莉奈はいつまででもお姉さんの自殺とその原因の真実をバラバラに分解して、何も分からないふりができる。だけど、薬物に手を出す馬鹿な母親から産み出された矮小な脳味噌とはいえ、かちりとはまってしまったピースをどれだけぐちゃぐちゃにしたところで、勝手に補完が始まってしまう。


「それってどんな味だ? しょっぱいか? 甘いか?」


 不意に、社長が要領を得ないことを言ったので、莉奈は顔を上げた。ハンドルを握りながらも、横目に莉奈を一瞬見た社長は、口元に笑みを浮かべている。


「涙はな、腹が立ったときや悔しいときに流すとしょっぱくて、嬉しいときや悲しいときに流れるとほんのり甘いらしいぞ」


 そう言われて初めて、莉奈は自分が泣いていることに気がついた。

 既にはるか後方に陽は沈み、その残影だけが空に色を与えている。

 口の端に涙が触れた。塩辛い。意識するとますます涙があふれてきた。社長は真横で、鼻歌を歌っている。


 お姉さんが自分を残して死んだことが腹立たしい。

 自分以外の誰かの死に責任を感じて身を投げたことが悔しい。

 涙の味は見事、正確に莉奈の心の弱点を抉った。


 莉奈がどれだけ傷つこうが、悲しみに暮れようが、社長の態度も日常も変わらない。社長のことはずっと信用ならないままだが、同居に不利益なことは何もない。社長は留守がちだが、その間の世話は家政婦さんが全部やってくれる。

 衣食住に困らないどころか、人より裕福な暮らしが莉奈を育んだ。だけど社長がくれるのはそれだけで、莉奈はマヨネーズを啜っていたときの飢えと渇きを夢に見た。


 そういうときに、骨壺を手放したことを後悔した。そこにお姉さんはいないのに。

 やっと不登校を脱して学校に行き始めた頃には、周囲は既に受験一色で、小学校を卒業するまで友達らしい友達ができなかった。莉奈は当たり前のように近場の公立中学に入学し、それなりに環境に溶け込んで、無難な三年間を過ごした。


 その間に社長は何人かの女性と浮名を流したが、誰のことも本気なわけではないようだった。お姉さんの命日になると、莉奈を連れて必ず墓参りをした。骨の集合住宅へ、だ。お姉さんの死を見つめるときだけ、社長は脱色されて見えた。いろんなことに愛が四散している男の本当は、きっとこの墓の前にしかない。


 社長は莉奈を邪険にもしないが、積極的に愛を注ごうともしない。相変わらず思い出したように莉奈を外に連れ出すが、莉奈を楽しませる気はてんでなかった。父親ではないから、可愛がるのは努力義務なのだ。

 社長は莉奈になんの制限もしなければ厳しい教育もしてこないので、ある意味で、人形好きな変なお兄ちゃんと、口うるさかったお姉さんの間の子みたいなものだった。


「ハヤリナんちは放任でいいね」と、中学のときのグループでは羨ましがられた。ついでに金持ちだし、とは誰も言わない。莉奈の義父が実業家であることは内緒にしていた。

 中学は頑張って通ってみたが、莉奈は呆気なく高校に落ちた。「このレベルに落ちるのか」と社長には驚かれた。怒られはしなかった。勉強は相変わらず苦手だった。

「馬鹿な女の子供だからな」と、そういうときだけ母親のことを思い出してあげた。


「金は出してやるから高校くらいは出とけよ」


 社長はそう言いながら、通信制高校のパンフレットをくれた。

 提案されるまま通信制学校の高等科に入学した。週に三日登校し、あとはオンラインで授業を受ける。社長の家から登校先は距離があったが、まるで苦にならなかった。この学校では「課外授業」が週に三度あり、好きなコースの勉強ができるからだ。

 eスポーツ、漫画・アニメ制作、アーティスト養成など多岐にわたる。莉奈は迷わずアーティスト養成コースを申しこんだ。お姉さんを亡くしてなお、莉奈はアイドルになる夢を見ていた。学業全般は「単位が取れたら御の字」くらいの成績だったが、課外授業での莉奈は輝いていた。歌も、ダンスも、周りから一目置かれた。

 社長に頼めば、もしかしたら簡単にその道は拓けたかもしれない。


 だけど、やっぱり社長には不信感があって、莉奈はその夢の一端を語ることすらしていなかった。社長の薄ら笑いと遠慮のない一言で、お姉さんとの温かな思い出にひびが入るのは嫌だった。

 だけど思い出よりも先にひびが入ったのは、社長との付かず離れずの生活だった。

 社長が、刺された。


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