第2話


 

 お姉さんは、いちいち「コンシェルジュ」と言い直すくらい細かい性格だから、莉奈の日常生活にもとにかく厳しかった。


 食べ方が汚い。

 姿勢が悪い。

 靴は揃えろ。

 ゴミは捨てろ。

 テレビが近い。

 早く寝ろ。

 十数えてから風呂を出ろ。

 歯を磨け、座って食え、歯を磨け、ながら食い禁止、歯を磨け、歯を磨け歯を磨け歯を磨け。


「人と話すときは目を合わせろ。それが礼儀だ。もう六歳なんだからちゃんとしろ」

 

 いつの間にか、莉奈は五歳を卒業してしまっていたらしい。

 お姉さんはすぐ怒るが、手を上げることは絶対しなかった。怒られる度に思い出していた体の痛みは、いつの間にか忘れてしまって、もうどんなだったか分からない。

 お姉さんは毎日ご飯を作ってくれる。ご飯を作るというのは、重労働なのだ。スマホ一つでなんでも食卓に並ぶ光景しか知らなかったので、料理というものは指先パチンで勝手にできるものだと思っていたが、おいしいものを食べるには別の意味で人の手がいる。


「ハンバーグって面倒くさいんだよなぁ……ひき肉そのまま焼いたんじゃ駄目なのか」


 マクドナルドでいいのに、お姉さんは、「ハンバーグ食べたい」と莉奈が言うと、必ず何やら肉をこねこねし始める。細かく刻んだ玉ねぎを茶色のしなしなになるまで炒めるし、パン粉と卵を肉に混ぜて、やっぱりこねこねしている。

 こねこねしたあとはリズミカルに肉を右に左にセルフキャッチボールして、その小気味いいリズムに、傍らの莉奈の身体も左右に揺れる。アイドルのダンスが脳内に溢れ出して、最近の歌が唇から漏れる。そんな莉奈を見下ろし、お姉さんも口ずさむ。クールに見えて、意外にのりがいいお姉さんと二人、台所はいつも楽しい。


 お姉さんは外でお仕事をしている。どんな仕事なのかは分からないが、いつもしっかりお化粧をして、洒落た格好で家を出て行く。たまに疲れた顔もしているし、帰ってきてそのままリビングのふかふかマットに寝転がることもあるけれど、莉奈のために絶対にご飯を用意してくれる。莉奈のために、莉奈が好きな服を選ばせて買ってくれる。


 仕事で家にいないときのために、幼稚園も通わせてくれた。夜には絶対に迎えに来てくれる。最初は、もう会えなくなるのではないかと思って幼稚園に行くのが嫌だったが、お姉さんはちゃんと、迎えに来てくれた。今では幼稚園に友達もたくさんできたし、行くのが楽しい。お姉さんはたまに、夜の仕事が終わらなくて迎えに来られないときがある。そのときはシッターさんが代わりに来てくれて、お姉さんの代わりに夕飯も作ってくれた。お姉さんがいなくても、お姉さんは消えない。その積み重なった安心感で、莉奈はお姉さんがいない日も良い子にしていられた。

 お姉さんは莉奈に、特別優しい言葉をかけることはなかった。同じ「おい」でも、お姉さんのものと母親のものでは、音程が全然違う。莉奈の耳には全く別の言葉に聞こえた。


「お姉さん、大好き」


 そう言うと、お姉さんは無言で莉奈の頭を撫でた。

 莉奈には分かる。言葉がなくても伝わる世界の不思議。

 お姉さんも、りなのことが大好き。のはず!


 紅白歌合戦という年末番組がある。お姉さんは毎年それを欠かさず観ているらしく、ユーチューブが見たかった莉奈に頑としてテレビを譲らなかった。年越しはおでんだ、と大量に仕込んだおでんを二人で食べながら、紅白歌合戦を見た。「アイドル」が出てきて、莉奈は立ち上がった。


「アイドル!」


 言わなくても分かる、とお姉さんが小声で言った。


「りな将来アイドルになるんだー」


 お兄ちゃんに見せたものよりはるかに上達したダンスを披露する。

 大きなテレビ画面に映るアイドルの顔が次々アップで映されるが、このカメラマンはセンスがない。

 お姉さんは急に立ち上がって、部屋から出て行った。トイレかな? 気にせず、莉奈は画面の向こうのアイドルを真似し続ける。お姉さんが戻って来た頃には白組の順になっていた。トイレ長いよ、と少しむくれる。一緒に見たかったのに。


「これ見ろ。可愛いだろ」


 そう言いながら、お姉さんはアルバムを見せてきた。


「これがおまえの母親。こっちが私」


「すごい、似てる。姉妹みたい」


 柴犬を撫でている二人の子どもが、少し色褪せた写真の向こうで笑っている。

 同じ服を着て、同じ髪型だ。どちらも髪が短くて、もし最初に説明されなかったら男の子だと思っただろう。

 

 だけど、お姉さんはやはり、昔からお姉さんの気配があった。笑顔すらクールだ。だけどそれは、母親の前歯が抜けて映っているから相対的にそう見えるだけかもしれない。

 莉奈もそのうち、前歯が抜けて大人の歯が生える準備をする。大人になる前の母親を見ることは、ほんのりとした照れと意地悪な気持ちを呼び起こした。

 あの母親にも、自分と同じような頃があったのだという事実は、自分もまた、あの母親のような大人になるかもしれないという未来を想像させる。


 アルバムにはいろいろな写真があった。憶えのない母親の母親、つまり「おばあちゃん」「おじいちゃん」の姿。「もう二人とも死んじゃったよ」と、お姉さんは言う。

 姉妹のツーショットが多かった。同じポーズをしていたり、片方だけ変な顔をしていたり、だけどどの写真も笑顔だ。かわいいな、と莉奈も笑う。


「昔は二人でアイドルになりたかったんだ。姉妹アイドル」


「阿佐ヶ谷姉妹?」


「それはおばさんになってからな。……今はもう、無理な話だけど」


 おばさんになってからって、もうすでに伯母さんでは? と思ったが、きっと莉奈の考えている「おばさん違い」なので黙っていることにした。

 すっかりおしゃべりになっていた莉奈が黙ることを選ぶくらい、アルバムを眺めるお姉さんの表情は神妙だった。今にも涙が出そうな――だけど珠が浮かぶことのないその隙間の表情が、とても奇麗に見えた。


 母親がアイドルになりたかったなんて、にわかに信じられない話だったが、お姉さんが嘘をつくわけもない。

 お姉さんが莉奈の口ずさむアイドルソングによく乗ってくれる理由がなんとなく分かった。きっと今も、お姉さんはアイドルになりたいのだ! りなと同じだ!


 そう思うとなんだか胸が弾んだ。好きな人と好きなものが一緒なのは嬉しいこと。 


 お姉さんと暮らし始めて思い出した感情の一つだった。不意に、水族館に母親と二人で行ったときのことを思い出した。「ペンギンかわいいね」と言ったとき、母もまた笑顔で言った。「うん、かわいいねー」。本当は人魚をもっと観たかったけれど、その一言の同意だけで、莉奈の心は万倍にも満たされた。


 今、お姉さんはただ存在しているだけで莉奈の心をいかようにも満たしてくれる。


「あーあ、お姉さんがりなのお母さんだったらよかったのに」


 そうであったら、莉奈は家出なんてしないでよかったのに。知らないうちに五歳児を卒業していることもなかったのに。最初からお姉さんと暮らせていたら、もっともっともっと、幸せだったかもしれないのに。


 お姉さんの方を向いて、莉奈は戸惑った。お姉さんは笑っていると思ったのに、困ったような顔をしていた。そんな顔をされるとは思わなくて、不快なこそばゆさが体に走った。無言で頭を撫でられたが、言葉がないからお姉さんのことが分からない。


 莉奈はそのままお姉さんと暮らし続けた。

 気づけば小学五年生になっていた。


 お姉さんは奇麗なままだ。何歳かは教えてくれない。容姿もさることながら、態度も変わらない。いや昔より厳しくなった気がする。


 宿題をやれ、先生の話をよく聞け、忘れ物をするな、人の話は最後まで聞け、早く寝ろ、歯を磨け、よく磨け。


 ……勉強は苦手だ。あまり集中力もない。授業中は上の空になることも多い。でも体育と音楽の授業は楽しい。大好きだ。通信簿もいつも二重丸だ。他の項目はご愛敬だ。友達もいる、先生も嫌いじゃない、学校は退屈ではなかった。ただ勉強が苦手なだけだ。


「勉強はな、やれるときにやっておくほうがいいんだ。後悔したときには遅いんだ。……まあこれは世の中全般なんでもそうだな……上手に生きようと思ったときにはもう遅いんだ。上手に生きていける人間は、そんなこと考えないからな……」


 懇談会の帰り道、お姉さんは静かに言った。静かな説教は珍しい。ぼんやりしたお姉さんの横顔は、空に浮かぶ雲みたいに現実感がない。


「悪い、ちょっとコンビニ寄らせてくれ」


 お姉さんは莉奈の手を軽く引っ張った。

 莉奈は「うん」と頷いて一人コンビニへ入る。

 お姉さんは最近、タバコをよく吸うようになった。「やめていたんだがな」と、錆ついたブリキ人形みたいにぎこちない動作でマンションのベランダに出て行ってから、歯止めが利かなくなったらしい。

 漫画コーナーで立ち読みするふりをしながら、ガラス越しにお姉さんの挙動を見守る。すっかり馴染んでいるその喫煙姿に、ベランダのブリキ人形の影は、もうない。


 たっぷり五分、紫煙をくゆらせてからお姉さんはコンビニに入ってきた。「莉奈、好きなもの買ってやる」と言うまでがセットだ。莉奈はジュースとコンビニスイーツをお姉さんに渡して、彼女にまとわりつくタバコの臭いに気づかないふりをした。

 お姉さんの匂いを消してしまうその臭いが、本当は嫌だった。


 ――お姉さんが死んだのは、その日から半年後のことだった。


 気づいたときには葬式も火葬も終わっていて、莉奈の両手にすっぽりはまる骨壺になって帰ってきた。職場を後にしたあと連絡がつかなくなり、翌日、海岸で遺体が見つかったのだ。いつもお姉さんは家に真っ直ぐ帰ってきたのに、なんで海なんかに行ったのだろう。

 

 骨壺は返事をしない。


 職場に遺書が残されていたとかで、自殺と判断された。 <続>



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