涙がぽとり、あなたはひとり

有紀穂高

第1話

 1


 莉奈りなの母親が辛うじて人語を話していた頃、水族館へ連れて行ってもらったことがある。

 東京の郊外にあるその水族館は、中規模ながらも目玉である人魚の飼育展示で大人気だった。

 日本で人魚を飼育している施設は二つしかなく、もう一つは沖縄にあるらしい。


「見て、莉奈、人魚。並んで、写真撮るから。動かないでね……あっ、人魚行っちゃった」


 視線を忙しなく動かしながら、母親は一生懸命写真を撮ろうとしていた。

 莉奈は言われた通りじっとしていたのに、大きな水槽で泳ぐ人魚はちっともサービスしてくれない。

 母親が焦れて舌打ちをした。

 こうなると、彼女は人語を忘れて「くそ」だの「死ね」だの「馬鹿」だの短い単語しか発しなくなる。


「おかあさん。りなね、ペンギンさん見たい」


 駄目元で声をかけた。


「うるさい! 今あんたのために写真撮ろうとしてたのに!」


 そう怒鳴られる覚悟をしていたが、母親は思いのほかあっさりとスマホを下げた。

 大水槽の前は人混みができていて、いつまでも最前列でスマホを構えている母親に、少なからず周囲からは「いい加減どいてくれ」という無言の圧が発せられていたから、そのせいだろう。


 莉奈は立ち去る間際に水槽を振り返った。

 人魚の大水槽前に来てからすぐにポーズを撮らされたため、目玉の人魚のことは全く見られていなかったから、一目だけでもと思ったのだ。

 本当はペンギンより人魚を見ていたかった。


 水槽に引かれた、一筋の赤いクレヨン。


 五歳だった莉奈の感想は、そんなものだった。

 赤い尾びれが水をかき、家で見る母親の上半身と同じ柔らかな女体が輝いて見えた。

 胸元は女性用の水着で隠されているが、子供ながらにそれは不自然に思えた。

 まるで人間のような扱いをするんだな――こんな水槽に閉じこめておいて。


 人魚は、自分を求めて集まる人々なんて全く気にもしない様子だった。

 一カ所にはけっして留まらず、不規則な遊泳で視線を惑わせる。その様は、意地でも観賞物になってやるものかと宣言しているようだった。


 それからしばらくして、その水族館の人魚は死んだ。


 原因は「尾びれの疲労骨折」だという。

 間もなく新しい人魚の飼育展示が始まった。

 沖縄の水族館から一体連れてきたらしい。


「今度の人魚は青色なんだって」


 母親は今度こそ写真を撮ろうと言っていたが、結局、その水族館に行くことは二度となかった。

 母親がいよいよ人語を失ったからだ。

 よく家に来ていた「リョーくん」という男の人と喧嘩してしまったのが原因だったと思う。

「おい」とか、「おまえ」とか「しね」とか「きえろ」とか。

 そればかり口にするので会話にならない。

 とにかく「おい」と「しね」が多かった。

 人間でなくなったから、娘の名前すら忘れてしまったのかもしれない。


 母親はお酒ばかり飲んでいて、まともにご飯も食べない。

 母親がご飯を食べないので、莉奈もご飯を食べられない。

 おかあさんは人間をやめたから食べなくても平気かもしれないが、莉奈は人間なので食べないとお腹が空いて、苦しくて、苦しくて、ちょっぴり痛い。


 莉奈は家から逃げ出すことにした。

 テレビでは、子供をぎゃくたいして、ころしてしまうニュースばかりやっていたから。


 家から逃げ出すのは簡単だった。

 母親はしょっちゅう家を空けるが、「家から出るな」と言うばかりで、莉奈の行動を制限しない。

 今までは良い子に家にいたが、箱を積み重ねて玄関の鍵を内側から開けるくらい五歳でもできる。


 もう悪い子でいいや。


 莉奈はお気に入りの鞄に、割と汚れていない服と、大好きなマヨネーズを入れた。

 マヨネーズはリョーくんの好物だったので、家にはストックがたくさんあって、これがここ最近の莉奈の密かな主食だった。

 リョーくんのおかげだ、ありがとうリョーくん。

 さよならおかあさん。


 外の世界は広くて奇麗だ。

 空は青くて、風は気持ちいい。

 公園で遊んでいた子たちに混ぜてもらって、夕方まで目いっぱい遊んだ。

 だけど「五時にはお家に帰りましょう」の音楽が流れると、みんなクモの子を散らすようにいなくなってしまう。


 薄暗くなる世界に不安を覚えながら、莉奈は街を歩いた。


 さも、「自分は迷子ではありません」という足取りで。

 知らない世界を知っているふりをしながら。

 だけどそのうち、足が重たくなってしまった。

 電車の音が近くに聞こえる、見知らぬ公園の蛇口で水を飲んだ。

 マヨネーズもちょこっと舐めた。


「ねえねえ、ひとり? 何してるの? お母さんは?」


 男の人が話しかけてきた。


「おうち帰りたくない」


 率直にそう言うと、男はなんだか嬉しそうで、莉奈も笑顔になった。


 あっさりと、莉奈は変な男に捕まった。


 男の家は、莉奈が母親と住んでいたアパートより上等に見えた。

 何しろ二階建てじゃない、見上げるほど高くて、窓が無数についている。


「莉奈ちゃんって言うんだ。かわいいなぁ、俺のこと『お兄ちゃん』って呼んでみて」


 莉奈の顔をべたべた触りながら、男はそう言った。その日から男は莉奈の「お兄ちゃん」だった。お兄ちゃんの家には部屋が三つもあって、そのうち一つは、女の子を模した人形や女の子向けの服や靴が山ほどある夢の空間だった。


 お兄ちゃんは、「お人形」が好きらしい。


 男の人にしては珍しいな、と莉奈は思った。

 リョーくんなら絶対にお人形で遊ばない。

 そしてお兄ちゃんは、莉奈のこともお人形だと思っているらしかった。

 しみ一つない、フリルとリボンがたくさんついたお姫様みたいな服を莉奈に着せては写真を撮る。

 その必死な姿は、人魚と娘のツーショットを撮ろうとずっとスマホを構えていた母親のようだった。


 お兄ちゃんは、人間とお人形の区別がつかない変な男だ。


 だけど、莉奈は久しぶりにお腹いっぱいご飯を食べられて、お菓子ももらえて、奇麗な服を着られて、毎日お風呂に入れる。

 清潔な部屋で、清潔なベッドで、清潔な体で、安らかに温かく眠ることができた。

 

 あぁ、人間っていいな! おかあさんのところから逃げ出して本当によかった!


 ――だけど、一つだけ困ったことがあった。


 お兄ちゃんは、莉奈がしゃべると手を上げた。

 リョーくんに殴られたことはなかったけど、男の人に殴られるって、おかあさんにぶたれるよりすごく痛い。


「莉奈ちゃんはお人形なんだからしゃべっちゃだめなんだよ」


 ごめんなさい、を言っても殴られるので、莉奈は無言で頷いた。

 お人形は勝手に動いちゃだめなんだよ、と言われないだけましだ。

 そんなことを言われたら、おもらししてしまう。

 おもらしすると部屋が汚れるし、服も汚れる。


「おい」「おまえ」「ばか」「しね」

 ――頭の中に、母親の怒鳴り声が花火みたいに打ち上がる。


 お兄ちゃんは、母親と違って殆ど家を空けない。「お仕事部屋」にこもっている間、莉奈は居間でずっとユーチューブか教育テレビを見ている。

 ただし無音で。

 お仕事の邪魔になる音は立ててはいけない。


 お兄ちゃんは人間とお人形の区別がつけられない変でかわいそうな男だけど、その他は莉奈が出会ってきた誰より優しい。

 なんていったってご飯が毎日三食出てくる。 


 すごい!

 ふりかけごはん、おいしい。

 ご飯だけでもおいしいのに、ふりかけ、甘くてしょっぱくて楽しい。

 お湯を注ぐだけでできる卵スープ! すごい。


 ピザ、カレー、ラーメン! 


 リョーくんが家に来るときだけ食べられるごちそうがいつでも食べられる。

 ハンバーグ、スパゲティ、お寿司。

 全部大好き。おいしい。

 何より、マクドナルドのハンバーガーとポテト。

 お兄ちゃんは、携帯一つで世界にあるおいしいものをなんでも呼び寄せてくれる天才だ。


 おいしいものを「おいしい!」と言えないのは残念だ。

 莉奈は人間だから、言葉が分かる。

 言いたいのに言えないのはもどかしい。

 こんなにしゃべらないでいたら、母親みたいに人語を忘れてしまうかもしれない。


 そんな不安な気持ちになるから、お兄ちゃんがいびきを立てているときだけ、小さな声できらきら星を歌う。自分の声って、なんて素敵なんだろう。

 しゃべっているとどんな音か分からないけど、耳に手を当てて歌うと、顔の骨がびりびりして自分の声が自分を包んでくれる気がする。

 世界中の怖いものから守ってくれる気がする。


 人魚もしゃべるのだろうか。どんな声かな。

 人魚語はあるのかな。知りたいな。


 耳を塞いで歌うと、自分も人魚になった気がした。

 きっと水の中って、こんな感じだ。


 お兄ちゃんは普段あまりテレビを観ないけど、「アイドル」が歌番組に出るときだけ積極的だ。

 莉奈はこの「アイドル」の踊りをするようよく言われるので、お兄ちゃんがテレビを観出すと緊張する。

 しっかり踊れないとお兄ちゃんの顔が怖くなるからだ。上手でなくてもいい、「頑張って踊っている」姿を見せると、お兄ちゃんはとても喜ぶ。

 やっぱりお兄ちゃんは変な男だ。

 

 だけど、莉奈もこの「アイドル」の真似をするのがどんどん楽しくなっていた。

 自由に声を出して、歌って、踊って。

 キラキラしたステージを縦横無尽にステップするその姿に、自分を重ねる。

 彼女たちは、薄暗い部屋の片隅で、いびきをバックに耳を塞いで歌なんか口ずさまないだろう。

 いいなぁ。羨ましい。

 りなもアイドルになりたい。


 そう思うようになると、お兄ちゃんとの生活も急に嫌になってきた。この家にいたら歌の練習なんてできない。


 また逃げ出そう。

 だけどお兄ちゃんは家を空けない。

 お兄ちゃんが呼び出す「料理」を受けとるタイミングで外に出るのはどうだろう。


 莉奈がもんもんとしながら脱走計画を考えているうちに、たくさんの男の人が部屋に押し入ってきた。「ケーサツだ!」莉奈が思ったことを、男たちはしっかり口にしてくれた。


「警察だ!」


 お兄ちゃんは、莉奈を連れ去り、監禁したとして逮捕されてしまった。

 莉奈は絶望した。

 逃げようとは思っていたが、捕まえてほしいとは思っていなかった。

 

 ――このままじゃおかあさんのところに戻されてしまう!

 

 しかし、警察に保護された莉奈を迎えにきたのは、母親ではなかった。

 きちんとした格好をしていて、最初、その女の人を莉奈は「女の警察」だと思った。

 彼女は自らを、「莉奈の母親の姉」だと称した。

 会ったこともない、母親の血縁だった。

 あまり似ていないと思ったのは、母親と雰囲気が違いすぎたからだ。

 酒の飲みすぎで見てくれすら荒れていた母親と違って、彼女は奇麗だった。


 母親の姉というものは、世間では「伯母さん」というらしい。

 だけど、彼女は言った。


「私のことは『お姉さん』と呼べ」


 やれやれ、今度は「お姉さん」か。


 莉奈はお姉さんと暮らし始めた。

 お姉さんの住処は、お兄ちゃんの家よりもっと立派に見えた。

 ぴかぴかのエントランスには「こんしぇりじゅ」さんがいる。いつもうまく言えない。

「コンシェルジュ」と、お姉さんは都度言い換える。細かい性格だ。


 お姉さんは莉奈に分かりやすく色々教えてくれた。


 母親は薬物所持で逮捕された。

 二度目なので懲役刑が下る。

 一度目は莉奈を産む前だった。

 母親と離婚していた莉奈の「父親」はとんずらしていて連絡が取れない。

 仕方がなくお姉さんが身内として莉奈を引き取ることになったらしい。

 ……とんずらってなんだ?


「何か他に訊きたいことは?」


「お姉さんの前ではしゃべったり歌ったりしてもいい?」


 莉奈にとって一番重要なことはそれだけだった。母親が薬物でどーだの、ちょーえきだの、とんずらだの、どうだっていいことだ。よく分からないから。


 お姉さんは奇麗な顔を少しだけ崩して、莉奈の頭を無言で撫でた。

 いいよ、と、言葉が聞こえなくても分かった。

 言わなくても伝わることがあるのだな、と、莉奈は世界の不思議に触れた気がした。

 なんで言わなくても分かるのだろう。

 ああ、不思議だなあ。


 ――思えば、お姉さんと過ごしたこのときが、人生で一番、幸せだった。  <続>

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