太陽の下

村雨雅鬼

第1話

 いつもの店に入ったものの、雨宿りの客が多いせいか、満席だった。これから新たな待ち合わせ場所を探すのも面倒だ。店の真ん中で、しずくを垂らしながら佇む中年男の様子を見かねたのか、二人席に一人で座っていた若者が声をかけてきた。

「私はもうすぐ出ますけど、相席で良ければ、いかがですか?」

 ありがたく彼の向かいに腰掛け、若い女の店員にコーヒーを注文した。既に若者が頼んだ分も、後で一緒に払ってやることにした。若者は爽やかな笑顔を浮かべて礼を言い、見たこともない言語の分厚い本に目を落とした。そういえば彼は、話す言葉こそ流暢だったが、異国めいた外見をしている。最近のこの国はどこを歩いても外国人ばかりで、マナーの悪い観光客や、言葉もろくに話さぬくせに権利だけ要求する移民、治安を乱す不法入国者が跋扈している。彼のように知的で、語学に堪能な者だけを入国させてほしいと心底思う。

 サービスの水を何杯か飲み、スマホでSNSを見ながら待っていると、先ほどの女の店員が飲み物を持ってきた。コーヒーを頼んだのに、紅茶をお持ちしましたと言う。伝票を見せて違いを指摘してやると、素直に謝ればいいものを、まごついて言い訳を繰り返している。最近はこういう言い方をすると怒られるのだが、やはり女は使えないと思う。そのとき、相席の彼が静かな声で割って入ってきた。

「彼女はさっき、他の店員さんに指導を受けていたから、まだバイトを始めたばかりなんじゃないですか。それで、慣れていないんでしょう。それに、コーヒーもいいですが、たまには紅茶も悪くないかもしれませんよ」

 そうだったのか。店員は目を潤ませ、申し訳ありません、精進します、と言った。私はコーヒーを断念して、既に少し冷めつつある紅茶をいただくことにした。そういえば、水を飲んだのにますます喉が渇いていた。こんな時はコーヒーよりも紅茶だろう。彼は澄ました顔で読書を継続している。正直なところ、向かいに人がいるのに、一言も交わさないのが気まずくなってきたところだから、これを機会と若者に話しかけてみることにした。

「何の本を読んでいるんですか?」

「説明するのは困難ですが、強いて言えば、言葉は呪いだという本です」

 私は思わずコーヒーを吹き出すところだった。

「それは、小説ですか、最近の啓蒙書みたいなものですか」

 若者はとらえどころのない微笑を浮かべたまま、諭すような口調で答えた。

「いいえ、どちらかといえば心理学でしょうか。もう数百年ほど前の本です。もちろん原書はとうに紛失していて、これはコピーですが」

 私は感心した。外が悪天候で暗かったせいか、ちょうど横にあった店内の照明がギラギラと眩しく感じたので、椅子の角度を少し変えて会話を続けた。

「ほう、大学かなにかの課題とか」

「いいえ、趣味です。こうした知的なゲームというか、ちょっとしたいたずらみたいなものが、好きでしてね」

「素敵なご趣味だ。私も本の虫でね。最近の若者はゲームやらドラマやらに熱中しますが、何がいいのかわかりません。やはり本は、世界が広がりますね」

「本の虫?読書は大してお好きでもないでしょう」

 若者は急に突き放したようにいい、私はぎょっとした。

「どうしてそんなことを」

「実のところ私は、人の心が読めるので」

 テレパシーとかそうした類の話はうんざりするほど聞いたことがあるが、自分に読心能力があると明言する人間に直接お目にかかったことはない。最近はこういうネタが流行っているのだろうか?からかっているのかもしれない。私は年長者としての余裕を見せることにした。その方が相手も尻尾を出す。そういうものだ。

「素晴らしい。そうしたら、私の心を読んでくれませんか?」

「光栄ですが、それはあまりにも、不躾にすぎるのではありませんか?」

 若者の返答は相変わらず慇懃で、ふざけた様子は微塵もなく、私は困惑した。狂人なのだろうか?とりあえず、話を合わせておくのが得策だろう。

「いえいえ。そんな貴重な能力を持った人間に一度でも会ってみたいと思っていたんですよ」

「とんでもない。私のような者は他にもたくさんいるのですから。当然、皆、擬態していますけれど。この街の雑踏にも何十人が潜んでいるのでしょうかね。もちろん、この店の中にも。あなたのような力のない人間が気づいていないだけで」

 私は思わず、窓の外にどこまでも続く人混みを見渡した。交差点を埋め尽くす人、ビルの向こうに人、その向こうにも人、人…。その中の何人かが私の意識をキャッチして振り返る想像が膨らんだ。先ほどの店員が、清掃しながらこちらを見た気がして、背筋がすっと冷える思いがした。まさか、勘違いだ。

「……そういう話は信じんのですよ。宗教か何かですか?」

「でしょうね。でも、少し怖くなったでしょう?書いてあります。顔に、じゃなく、あなたの心にね。それに私は神を信じない」

「何を言っているんだね、君は」

「大したことじゃない、これだけ能力者が大勢いるならば、それはもう能力とすら呼べません。運動神経がある者、ない者、その程度の違いです。あなたはその点で平均以下の人間だというだけ。気にすることではありませんよ」

「私が何を気にする、だと」

「ここで会ったご縁です、少しいいことを教えて差し上げましょう。あなたは、ばらしたくない秘密を抱えすぎている。恥ずべきことじゃない、人間は誰でもそうです。でも、少し荷が重いのじゃないですか?心臓が鉛のように感じませんか。大丈夫、あなたが秘密だって思っているものは、全然秘密じゃないんですから」

「君ね、調子に乗るのはやめなさい、何を…」

 どういうわけか、私に逆らえずに涙を堪える部下の顔が亡霊のように浮かび、私はよりによって公衆の面前で声を荒げそうになり、慌ててトーンダウンした。

「何を君が欲しいのか知らないが、私を脅したって何も出ないよ」

「小声にしたって無駄ですよ。『聞こえる』人には聞こえているんですから。わかりますよ、心の中の汚い部分を詮索されるのは不愉快でしょう。でもね、気にするだけ無駄です。誰かに何かを隠していることへの罪悪感など捨ててしまいなさい。それ以前に、全部明るみに出ているんです。全て、太陽の下に」

「ふざけるな、だったら言ってみろ、私の何を知っていると言うんだ、君は…」

「今から誰に会うんですか?」

 私はぎくりとした。おまえは誰だ、問い詰めようと思った瞬間、窓ガラスに見慣れた赤いコートが映った。

「ごちそうさまでした。素敵なデートを」

 彼が私が思わず伸ばした手をするりとかわして立ち上がると、入れ代わるように彼女が座った。振り返ったが、彼の姿はもうなくなっていた。

「お待たせ。あの人は誰?」

 私は答えることができなかった。彼が誰なのか知らないからだ。私が知らないとわかっていて、彼女は私に尋ねたのか?一体何のために?私をより混乱させるためにか?

「どうしたの?早く行こうよ。時間ないんだから。今日の夜は旦那が帰ってくるって言ったよね?」

 例の店員が、これ見よがしに隣のテーブルの注文を取りに来た。きっと気のせいだ。それでも、嫌な汗が止まらない。私はそそくさと会計を済ませ、何があったの、と聞く彼女の手を引いて店を出た。雨はやみ、陽の光がさしていた。

 

 ホテルでも私は上の空で、彼女を怒らせた。しかし、その直情的な反応が、却って私を安心させた。彼女と別れる時には既に快晴で、午後の街は賑わっていた。妻は私が今日まで出張で、夕方に街に戻ってくると思っている。いつも通りの夜になるだろう。

 電車に乗り、座席の前に立つと、目の前に座っている男が週刊誌を読んでいた。芸能人の不倫の暴露記事だ。男はおもむろに目を上げ、私と目が合うと怯えたような笑みを浮かべて目を逸らした。蛍光灯が点滅し、また明るく輝いて、窓ガラスに無数に反射した。消えたはずの不安が電気のように心臓を走った。電車が揺れ、隣に立っていた女子学生と激しく肩がぶつかった。背が低いので吊り革を掴んでいなかった女子学生はよろめいて尻餅をついてしまったが、私は咄嗟に謝ることができなかった。

「謝れよ、おっさん。その子、転んじゃっただろう」

 別の乗客が言った。私は呆然と彼を見つめた。どうしてそんなことを言ったのか。謝るべき相手に謝っていないことがたくさんあるからか?今朝にも、女は使えないと思ったことを見咎められているのか?会社での地位を少しだけ不当に築いたことか?妻を裏切っていることか?義理の両親にいい顔をしながら、本当は早く死ねばいいと思っていることだろうか?それとも?車内の誰もが狼狽える私を見つめていた。私の一挙手一投足を。電車は静かにホームに滑り込んだ。どこの駅かもわからなかったが、いても立ってもいられず、私はホームに飛び出した。

 そのまま街を彷徨った。少しでも暗い場所を探したが、この都会にそんな陰などないかのように思えた。ちょうど入管法改正反対を訴えるデモ隊が行進しており、私はそのそばにいることにした。彼らも若者の同類かもしれないが、デモの騒音は、私の心の声を少しでもかき消してくれるように思えたからだ。ポケットの中で携帯が鳴り、私は震える手で電話に出た。妻だ。

「今、どこにいるの」

 今は、本当ならまだ新幹線に乗っているべき時間だ。普段なら誤魔化して切るか、何本か早い電車に乗ったと繕っていただろうが、嫌な予感がした。

「どうして、そんなことを聞いたんだ」

「どうしてって、あなたが帰ってくる時間にあわせてご飯を作ろうかと思って…。何か変よ、どうしたの?」

「それなら何時に帰るのと聞けばいいだろう、正直に言え、どうして、今俺がどこにいるか聞いたんだ」

「だって、後ろで変な音楽がしているから…」

 妻がどれほど取り繕っても無駄だった。間違いないと思った。妻はあの若者の仲間なのだ。全てを知っていて、私を憐んでいた/嘲笑っていた/騙していたのだ。私の頭の中は二つに分裂していて、片方の脳半球は自分の思い過ごしだと叫び続け、もう片方の半球は砂漠の真ん中で晒し者にされていた。

 気がつくとごめんなさい、と口走っていた。何が、と妻が言う。私は繰り返し、ごめんなさい、ごめんなさい、と言った。一言一言が辛うじて喉を潤す水滴のように沁みた。デモ隊は、私の差別意識を見通して行進を続けている。私は跪き、部下に語りかけた、おまえはもう、不正を知りながら黙っている必要なんてないんだ、だって俺のガラスの頭を通して、会社の誰かがとっくに知っているんだから。吐き気がしたが、昼も食べておらず、胃には何もなかった。いっそ、自分の重い内臓を全部吐き出して、裏返しにして、隠れているものを全て出してしまえばいい。楽になれるまであともう少しだ。そうしないと、この世界はあまりにも眩しすぎる。

 

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