聖母のようにあれ

同志書記長

聖母のようにあれ


 私は間違いなく人生最大の過ちと罪を犯したのだろう。息が続かず、横たわっていても体が寒く、重い。体が重いだけではない。心が擦れ少しずつ消えて行っているようなそんな感覚に襲われる。血塗られた両手を片方ずつゆっくり見る。そして最後の力を振り絞って伝えるべきことを伝える。

 「                   」

 これはおそらく最後の言葉になるだろう。ああ、そんなに悲しい目で私を見ないでくれ、これは決してあなたのためにした行動ではないのだから……。

 何もかも、何もかもここで終わる。終わりとはかくも儚く、あっけないものだったのか。朧げになっていく視界と、認識が出来なくなっていく世界はもう二度と私の元に帰ってくることは無かった。



 「……ガロ」

 重々しい声が木霊する。自分の体を実感できないのに、自身の存在を確信できるのは何故であろうか。目を開いている感覚がないのに、この空間は虚無であることが解る。なんとなく喋れるような気もしてくる。

「アウグスト・フィガロ」

 次ははっきりと私の名前を声は呼ぶ。

「アウグスト・フィガロよ。君の信じた神は君を裏切らない。君を間違いなく地獄へ連れて行くだろう」

生前、牧師などという柄にも無かった仕事をしていたのをしっているのか、声はそう言う。地獄か、地獄ねぇ……。

「それは現実よりも地獄なのか」

私は声に尋ねた。声は押し黙り、静寂の後私に答えた。

「そうだ。君は苦しまなければならない。」

「ならよかった」

心の底からそう言った。この世に現実よりも苦しいことがあるのだというのなら、残された人々は、最低でもそれ以上の幸福が保証されるのか。

「しがない牧師アウグスト・フィガロよ。最後に思い起こすことはあるか?」

そう告げられ、私は自身の最後で、最低の記憶を巡らすのだった……。


『 今日はしとしと雨が降っていた。あんまりやることもなかったので私は教会の中で掃除に勤しんでいた。木造の古くからある教会なものだから、キシキシと安全性に問題がありそうな音色を奏でていたのが印象的だった。

すると、一台の小さく古めかしい車が教会の前にやって来たのが見えた。あそこまでのレトロカーは珍しく思えて、いつもよりも足早に表玄関へ向かった。

扉をノックする音が聞こえたので「今開けますから」と返事をして私は急いで扉を開けた。


麗しい女性であった。

少し髪を整えようか迷ったが、私は外が雨だったことを思い出して「急いで中に入ってください、濡れてもいけませんから」と言った。


このような天気の日に、このような麗しい女性が来るというのはなかなかに奇妙に感じられたので私は少し恐怖を覚えた。

「今日は何用ですか?」

私は女性に尋ねた。

「実は今日は罪の告解に参ったのです……」

深刻な面持ちで女性は俯きながら答えた。酷く困窮しているのだろう。私は素直に「解りました、ゆっくりで構いませんからできるだけ本心と真実に向き合うようにお願いします」と女性に語った。

その後数分間女性は何かと格闘する様な表情を見せた後、遂に語り始めた。

「私は、人を殺しました」

「……なんと?」

彼女は、深刻な面持ちでもう一度私に告げた。「牧師様、私は人を殺してしまったのです」と。

「どうやら錯乱していらっしゃるようだ」

私はそう言って、急いで私室に戻り毛布を取って来た。「取り敢えず、こちらで暖を取ってください」と私は彼女へ語り掛けた。

「失礼を働いて申し訳ありません、私はシャーロット・エヴァンズといいます」

と、今更ながら彼女、ことシャーロットさんは私に謝罪をした。しかしながら気にするようなことでもなかったので私は軽く流して本題へ入った。

「人を殺したとのことですが、一体何があったのです?」

「子供を孕んでしまったのです……」

それは、めでたいことではないだろうか……?そういう疑問を抱き私はそのまま聞いた。するとシャーロットさんは「生まれるという事は、死を作ってしまうという事です、私が孕まなければ、この命は死ぬことは無かった」と言った。

「そんな……、死ぬことも含めて生とは幸福な事象です」

私は答える言葉を持ち合わせていなかったので、ありきたりな回答をしたと思う。

「だから、せめて祝福をさせてください。生まれることを祝福されない生命よりも悲しい命はありません」

私は男だ、この悩み、この苦しみを理解することは難しく、傲慢である。何とも、本当に何とも言えない恐怖や悲しみに似た苦しみに襲われる。シャーロットさんをどう励ませばいいのか、これはよくある妊婦の鬱なのだろうか……?と思考を巡らせて、どうにか、どうにかこの人に救いを差し伸べたいと思った。

「この子の父は……」

シャーロットさんの瞳孔が開く。

「いえ、私の愛した人は……」


「私を愛していない人なんです……」


『あぁああああ!!あぁぁぁぁあああ!!』半狂乱で家の家具に襲い掛かる彼。『みんな、みんなどこに行ってしまったんだ……!!』大きく見開いた目は揺れている。

『お、お前がみんなを……?』

彼はそこで初めて私を見た。でも、彼が本当にみているのは私ではないのだろう。きっと彼の中では、この場所にすらいない。

『くそぉおぉぉぉぉおおお!!』

次の瞬間私に襲い掛かり、押し倒される。……首が締まる、息ができない……。

「いいの……、私にだけは……」

すると、首を締めていた彼の手がこと切れたように離れる。

『……ごめんよシャーロット、そんなつもりじゃなかったんだ……』

いつものように、現実に彼は帰ってこれた。私は取り敢えずそのことに安堵した。


また彼は私を襲った。そして謝った。今度は包丁で私を切ろうとしてきた。


また彼は私を襲った。次は失神して病院へ運ばれた、私はどうすることもできなかった。どうにかしたかった、どうにもならなかった、どうしようもなかったのだ。

                        』


「私も、もう彼を愛しているのか解らない!!」

私は、怖かった。自然と身震いして、ここまでの話を聞き終えた今、私には現実など理解できなかった。しかし神の道に進んだのだ、この世に救いはあるのだ、そうだ。と言い聞かせた。

「シャーロットさん、それはあなたの罪ではない」

絞りだした言葉はその程度だった。宥め透かして、私はシャーロットさんを「いつでも教会に逃げ込んでいいから」といって家に帰した。

私はシャーロットさんが帰って数時間たっても、そこでちゃんと話を聞かなかったことを後悔している。シャーロットさんの話をもう少し聞けば、もう少し何らかの形で救いの手を、救いと言わずと、なにか気持ちが軽くなるようなことを言えたかもしれない。 』

『 今日は健やかな晴れた日だった。村の奥様方と談話を楽しんで、みんなでお祈りをした。神は人々の生活をきっと見ていると思いオルガンの練習に励んでいた。……結婚式というのは人生でも大切な行事の一つだからだ。

「はぁ……」

しかし、気がかりなのはシャーロットさんだ。あれから数か月たつが、教会に来ることは無かった。新聞にも自殺したとか、殺されたという事件もないので、おそらく生活はしているのだろうと考えていた時だ。

「お久しぶりです、牧師様覚えていらっしゃいますか?」

扉を開けたのはシャーロットさんだった。こうして健在な姿を見せてもらえると少しだけ気分がよくなった。私は、すぐさまオルガンをやめて、玄関のほうに歩きながら「もちろんです、お待ちしていました」と言った。

「前来たときは失礼にも追い返したみたいな形になってしまってすいません……」

私は最初に謝罪した。下げた頭を、簡単に上げることはできない。だから相手の返事を待ちながら、告げられたシャーロットさんの苦しみが頭の中で逡巡する。

「いいんです、いきなり言い出した私も私なので……」頭を上げると少しぎこちない、貼り付けたような笑顔を見せるあなたを見るのが、とても苦しかった。

「いいんです、いつでも神は貴方と共にあります」と言った。神など信じたくなくなる時は、普通の人でもいっぱいある。雨が続けて振れば、なんとなく不運な気がするし、晴れの日が続けば、なんとなく運がいいと感じる。人間など、大抵はその程度だ。

「また、牧師様にお話ししたいことが……」と席に着いたシャーロットさんは語り始めた。しかし本題に入る前にシャーロットさんはハッと気づいたようにこう言った「牧師様が優しいからって、牧師様を掃きだめの様にしてしまっていいのかしら?」

そういうので、私は笑顔で「私ではなく、神が聞いているのですよ」と言った。そして劇の第二部の公演が始まるような感覚を抱きながら私は、シャーロットさんの話に耳を傾けた。


彼は、驚くくらいのお人よしだった。両親からも忌避され痛めつけられる私の手を取ったのは彼だった。彼は飛行機の模型を持って大空を翔る夢をよく私に牧場の端にある木陰で話してくれたことを覚えている。

無視一匹殺せなさそうな、なで肩で大きな目をした彼はある日突然消えてしまった。……大人になったからじゃない。大人になれなかったのだ。

政府は私たちにさも深刻そうに『ドミノ理論』を語り危機感をあおったうえで、よくわからないアジアの国々へ多くの知り合いが連れて行かれた。彼らは国の壁として、ほかの国を更地にしに行くそうだ。


遂に、彼にもその日がやって来た。


虫を殺せない彼に、人を殺せというの?


正義を振りかざして、横暴をふるい誰もが不幸になる。どちらが正義なのだろうか。黄金色の大地にそれを問いかけても、牧場の動物に問いかけても、誰も私の問いには答えなかった。ただ彼抜きの日常に残ったのは両親の横暴な暴力だった。

「どうやらあいつが返ってくるようだ」と、村で話題になったのは枯葉剤がどうのこうの、キング牧師がどうのこうの言い出して世間がざわつき始めた頃だった。とうに、枯葉剤を撒くよりも先に政府の正義は枯れ果てていたのだ。


「あ、お帰り」最初帰って来た彼を見た時、それ以上の言葉が出なかった。傷だらけの体、無垢な目は既に死んでいた。彼の大空への夢はもう殺されていた。

「みんな、みんな死んだ」

「え?」

彼の震えるからだと溢れる涙を見て、私はすかさず抱きしめた。自分でもあんまり『傷ついた人を慰めて愛されよう』だなんて性格がいいとは思わなかった。

だけれど、心配は無用。


しっかりと神は悪人に罰を与えた。


彼を町に働きに出て、二人暮らしを始めて養うようになったけれど、両親の代わりに私に暴力を働いたのが他でもない彼だったのだ。思い出すのだろう……、私には知らない、日常ならざる地獄を。


やはり胸糞が良いものでは無かった。神学校に行っていたから世俗に関してはあまり知識が深くないが、世の中がしっちゃかめっちゃ課になっていたのは解る。シャーロットさんは人差し指を目の下にもって行って雫を拭った。

その姿を見て、傷害罪になるだろうから警察に届けろ、と言うのにもなんとなく忌避感を覚えて、こぶしを握り締めることしかできなかった。

「もし、逃げ出したい時があったら、この教会を頼ってください、私はいつでもあなたの味方になりますから」

そう言った。そうとしか言えなかった。印象的なシャンデリアの暖かい光も、この暗い暗い日々を照らすには到底光の強さが足りていない。』


『 シャーロットさんとの関わりは日に日に増えていった。どうやらシャーロットさんの知り合いは戦争でその多くが死に絶え、いまでは自身を村八分にした村の人々と職場の人しかいないそうだ。

いうならば、逃げ場がない。

神でさえも、シャーロットさんにとっては逃げ場ではないのかもしれない。 』



それは酷い嵐の夜だった。風は怒りをあらわにし、世界へ怒鳴り散らしていた。最近毎日ここを訪れていたシャーロットさんが珍しく数日間姿を見せていなかったので、そのことばっかりボーっとオルガンの練習中に考えていた。

「本当に大丈夫なのだろうか?」そう呟くけれど、私以外に人がいないこの教会では誰も答えてくれない。ただ雨の音が反響しあって虚しい気分になるだけである。

私は盤の上から脱力したように手を下げ、頭を鍵盤へ垂らした。そうして世界は静寂に包まれ、少しだけ背中がゾワゾワとしてくる。誰も居ないのに、恐れを感じるとは、不思議なものだ。


しかし静寂は打ち破られた。もう夜の八時であり、この時間にこのようなことは珍しかった。

……電話がかかってきたのである。教会中に呼び鈴の音が反響し、私は急いで電話の元へと駆けた。

「今行きますから」と言いながら、誰が掛けてきたのだろうと思案してたが、受話器を取って私は驚いた。


『牧師様!!助けて!!……あっ!!ああぁぁああ!!』


声はシャーロットさんのものだった。恐怖に震える声で、私に助けを求めてきていた。そこからの行動は考えるまでもなく、体が勝手に動いた。

受話器を切らずに投げ捨て、僕は教会の外にある自分の車へと走った。カタカタと鳴る足跡さえも、自分をせかしているように感じられ、焦燥感を抱きながら車のエンジンをかけた。

エンジンが吹く、私は思いっきりアクセルを踏み込んで、教会のある丘からシャーロットさんの住む家まで車を飛ばす。タコメーターも速度計も軒並み右側へ針が倒れていく、遠心力がどんどん自分にかかってくるが知ったことではない。

流れていく木々、家々、街頭のそれらすべてが、流星のように目の端から端へと去っていく、まるで飛行機よりも速度が出ているようだ。

聞いていた住所の前に路駐して、豪雨の中私は車のドアから傘もささず飛び出て、明かりのついたドアに向かって真っすぐ庭の部分を駆け抜けた。

「頼む……!」生きててくれ、と口が言う前に迷うことなく私はドアへ突進し、突き破った。ドアを突き破った先には、ぐちゃぐちゃになった玄関と、倒れたシャーロットさんの喉を締めている彼を見た。

驚きよりも先に、様々な感情が噴き出した。きっとPTSDにかかってしまっているのだろう。だけれど……こんなのあんまりだ。私は彼が許せなくなっていてもたってもいられなくなった。


「なんで大事にできないんだよォっ!!」私は彼を蹴り上げた。ずっと思っていた、自分のことを健気に愛してくれるシャーロットさんを傷つけているその姿を見ると許せなくなってしまう。

彼は玄関から奥にあるキッチンへ転がっていく。解放されたシャーロットさんはゲホゲホと咳をしながら、悪人を見るようにこっちを見た。

「……なんでだよ」

どうやら私はシャーロットさんの杞憂を解決できたわけではなさそうだ。無気力感が私を覆う。そこでそれまでの勢いが途切れてしまったようで、茫然と立ち尽くしてしまった。

「仲間を、か、えせぇぇぇぇぇ!!」

彼はキッチンから包丁を取ってきて、私めがけて突進してきた。茫然とした私はそれをよけることは叶わず、どっどっどっどっどという木製の廊下を走ってくる音が、耳の中で反響する。

次の瞬間、胸の中に冷房の空気が入ってくるような不思議な感覚に襲われる。……痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!倒れた硬い床に肩が当たる。

……こいつを、こいつを殺さなければ永遠にシャーロットさんは救われない!!いつまにか傲慢になってしまっていた私は自身に刺さった包丁を抜き、そのまま彼に突き刺した。

そこで初めて、冷静になった私は罪を認識した。

「あ、ああぁぁあああ!!」

血塗られた、自身の手を見て、まるで自分が昔童話で読み聞かせてもらった悪魔のようで。自分と言う人間が初めて恐ろしくなった。


ただ、あなたに幸せになって欲しかっただけなのに……



私は間違いなく人生最大の過ちと罪を犯したのだろう。息が続かず、横たわっていても体が寒く、重い。体が重いだけではない。心が擦れ少しずつ消えて行っているようなそんな感覚に襲われる。血塗られた両手を片方ずつゆっくり見る。そして最後の力を振り絞って伝えるべきことを伝える。かつて聖母はいかなる子も、人も慈しんだという……。だから私はこう言った。

 「聖母の様にあれ」

これはおそらく最後の言葉になるだろう。ああ、そんなに悲しい目で私を見ないでくれ、これは決してあなたのためにした行動ではないのだから……。

 何もかも、何もかもここで終わる。終わりとはかくも儚く、あっけないものだったのか。朧げになっていく視界と、認識が出来なくなっていく世界はもう二度と私の元に帰ってくることは無かった。



長い長い、記憶の旅行に出ていた。この呪いの連鎖がここで終わり、彼女と彼女の子が生きる世の中が、せめて地獄よりましであることを願う。私の魂としての死ももう近いようだ。私の魂はかの声と共に、地獄の果てへと落ちて行った。

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