**2**

 クーラーはないが、開け放たれた障子の向こうから風が吹き込んでくるので、それで充分涼しい。

 快適な環境にほうっと息を吐き、麦茶をがぶ飲みしているとようやく酔いも醒めてきた。


 落ち着いたところで現代っ子がすることと言えば、ポケットからスマホを出すことだ。今日び娯楽がないことくらいこの小さな端末がすべて解決してくれる。

 問題はこんな山の中にWi-Fiはないことだろうな……と思っていたが、電波欄には『圏外』と表示されていた。

 一瞬読めもしなかった。初めて見たからだ。4Gとか3Gとかですらないんだ……ちょっと考えて、ミステリー系のアニメでこんなシーンがあったなと思い出し、これが噂のクローズドサークルってやつか、と一人腕組みをする。なんか面白い。


「……待って。まさかネットも通じないの?」


 二秒後には絶望していた。暇なときはソシャゲか動画と決めていたのに、画面に表示されるのは無情にも『インターネットに接続していません』の文字列だったからだ。何も面白くない。

 最悪だ。予定ではあと三日このクソ田舎に缶詰ということになる。当然その間は友人との連絡もできない。

 これなら宿題でも持ってきておいたほうがまだマシだった、などと思ってしまうくらいには打ちひしがれた私だった。


 そんな私を、扉の陰からそっとアヤコおばさんが覗いていた。



 祖父の姿がないと思ったら、畑に出ていたらしい。

 親子だけあって父をそのまま老けさせたのかと思うくらいよく似ていた。ただ、こちらは畑仕事で日々鍛えているからか、机仕事が主の父よりも日に焼けていて、少しだけ精悍な印象だ。


「会いたかったよ、みどりちゃん」

「あー、初めまして、……おじいちゃん」

「ははは」


 柄にもなく少し緊張してしまった私を、祖父は朗らかに笑って受け入れてくれた。


 そんなこんなで夕食の席には祖父とアヤコおばさん、父と私の、合計四人が着いていた。はっきりとは聞かなかったけれど、どうやら祖母はすでに他界しているようだ。

 あとおばさんも旦那さんはいないっぽい。親族とはいえ初めて会ったばかりだし、あまりあれこれ訊くのも嫌というか、興味もないので詳細は知らない。ただなんとなく、ほんとうになんとなくだけど、父と同じで離婚した人なんじゃないかという気がした。

 料理はすべて畑で採れたものを使った、おばさんの手作り。味は悪くないが少し味付けが濃い。また麦茶が手放せない。


 スマホがほぼ使えなければテレビもないそうなので、やることがなさすぎた私は夕食後さっさと寝る支度をした。

 とはいえお茶を飲みすぎたからか、寝付けそうなころになって急にトイレに行きたくなり、のろのろと布団から這い出ることになってしまったが。ろくに外灯もないから、日が暮れたあとはぞっとするほど暗いのに。


 そう――ありえないのだが、この家のトイレは庭にあった。なぜか? 汲み取り式ボットンだから。

 これ以上の最悪はないと言っていい。庭は真っ暗で正直怖いし、挙句に臭うし、やっとトイレに辿り着いたと思ったら待ち構えているのはやたらに深い穴なのだ。落ちたら死ぬ、なんて冗談でもない発想がよぎるに無理もないおぞましい光景だ。

 ただでさえ和式トイレなんて使い慣れないのに。不安と疲れで、脚ががくがく震えた。


 用を足すだけで重労働をこなしたような気分でぐったりしながら家に戻る。大人たちももう寝たのか、どの部屋にも電気はついていない。

 暗闇の中をとぼとぼと、スマホのライトだけを頼りに進んでいると、――ひそひそという声がした。


「あの子を……おそなえに……」


 私は咄嗟にライトを消した。

 声の主も私の気配に気づいたのか、しばらく黙った。

 気味が悪くなって、なるべく音を立てないように急いで布団のところに戻る。なんで電気も付けずに喋っていたんだろう。声が小さくて誰かは判らなかったけど、会話をしていたようだから、二人はいた。


 背後で襖がすーっと静かな音を立てて開いたので、私は思わず目を瞑る。


「……大丈夫、寝てるわ」

「聞かれてないか?」

「大丈夫さ。もし聞いてたとしても、……きっと意味がわからないから」


 ぞっとした。その夜は眠れなかった。

 大人の声は三人分で、……その中には、間違いなく父がいた。




 ***




 何ごともなかったように朝が来た。朝食のあと、私はアヤコおばさんの手で浴衣を着せられた。

 サイズはぴったりだが、やはりちょっと古臭いというか、やや黴の匂いがする。それでも普段あまり着る機会がないものを纏うのは、ちょっとだけ特別な気分がした。

 昨夜のことは不気味だが、今朝は三人ともとくに変わったようすはない。


「みどりちゃん、お化粧しましょうか」

「えっ? で、でも」

「いいでしょ、せっかくだから。自分でしたことある?」

「……ない……道具持ってないし」


 母親がいたら、そういうことも教えてもらったのかもしれない。そんなことをぼんやり思ううちに顔に粉がはたかれていく。

 白粉の匂いは少し甘く、だんだんと変身していく自分を鏡の中に見つめていると、不思議な気持ちになった。

 おばさんの声は優しく私を褒めている。頬紅の色がとっても似合うわ、みどりちゃんは美人さんね。――お母さんにそっくり。


「お……おばさん、知ってるんですか?」

「え? あー、ああ、ええまあ。一度だけ会ったの。赤ちゃん……みどりちゃんが生まれたときに、この村に来てくれたから」

「そうだったんだ」


 私にも少しは好奇心というものがあったらしい。鏡越しにアヤコおばさんを見つめながら、お母さんってどんな人だった、と尋ねていた。

 おばさんは微笑み、私のくちびるに紅をさす。


「みどりちゃん、お母さんに会いたい?」

「……いや、その、べつに……そういうんじゃないけど」

「あらあら。でも……きっと、お母さんのほうは会いたがってる……」


 どうしてそんなことを言うのだろう。いや、聞き違いだったかもしれない。

 頭がくらくらしてきて、私はよくわからなかった。なんだか、ものすごく眠いときのように、ひどく瞼が重くなって……視界が暗くなり、ぐらりと傾いて、たぶん床に倒れたんだと思う。

 最後に見たのは、座敷の奥に置かれている、ガラスケースに入った日本人形だった。



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