装因偶 -sewing-

空烏 有架(カラクロアリカ)

*1***

 うちは父子家庭だ。十年以上前に離婚したらしい。

 私はまだ物心がつく前だったから、母親の顔は知らない。つまり一度も娘に会いに来ないのだ。

 でも、それを悲しいとは思わないようにしている。

 たとえ母親がいなくても、私が寂しがらないように、父が精一杯がんばってくれていることを知っているから。……照れくさいので、普段はなかなか感謝の言葉も言えないけれど。




「みどり。夏休みは、父さんの村に行こうか」


 ある夏の日、朝食の席でのこと。直前まで読んでいた新聞をきれいに折りたたんで、机の端にやってから、父は静かな声でそう言った。

 私は白ごはんの上で梅干しを潰しながら「いいけど。……珍しいね」と答えた。


 なんでも父の故郷は**県の山間部にある小さな村らしいが、一度も連れて行ってもらったことがない。遊べるような場所や物なんて何もない所だから、行っても面白くないと思うよ、と何度か聞かされていた。

 だから私は祖父母に会ったことがない。健在かどうかすら曖昧なほど。

 困惑が滲んだ私の反応に、父は小さく肩をすくめて「おじいちゃんから連絡があったんだよ」と言った。


「毎年、夏にお祭りをやるんだ。観光客なんか来ないような内輪のこぢんまりしたやつだけどね……今年は、ちょっと大がかりらしいから、みどりを連れてきてくれって」

「ふーん、そっか。おじいちゃんて私のこと知ってるんだ?」

「もちろん。ときどき写真を送ってるからね」

「えー、そういうことはちゃんと話してよ。身内だから別にいいけどさ、そうじゃなかったらそれ、個人情報の漏洩だよ」

「……みどりは難しい言葉を使うなぁ。うん、ごめん、次から気を付けるよ」


 曖昧に笑う父の鼻の上で、古臭いデザインの眼鏡がぼんやりと照明を反射していた。



 ***



 それから数日後。学校は夏休みに入り、私は少々の荷物とともに車に揺られていた。

 道の状態はお世辞にも良いとは言い難い。次第に気分が悪くなってきて、出発直後の国道を走っていたころを、いつしか遠い昔のように懐かしんでさえいた。

 そのうえ安物の中古車だからかクーラーの効きも悪いらしい。車内は蒸し暑く、持ってきたペットボトルは空になり、ブラウスが肌に張り付いてなおさら不快さが増す。


 ようやく村に着いたころには、私は気絶しそうになっていた。


「大丈夫?」

「……クーラー効いた部屋で寝たい……」


 げっそり青ざめながらそう答えた私に、父も苦笑いしながら汗を拭く。首に巻いているタオルはすっかり色が変わっていた。

 ともかく、扉にしがみつくようにして、ふらふらと助手席を降りる。

 ありがたいことに外気はいくらか涼しい。ほっと息を吐きながら、とりあえずあたりを眺めた。


 周りにあるのはたくさんの緑だ。私の名前と同じ色が、そこらじゅうに満ちている。なるほど、何もないという表現が似つかわしい、とても令和の集落とは思えない寂れた田舎だった。

 建物は小さな平屋ばかりで、どれも突けば崩れそうなほど古びて見える。

 家同士の間にはろくに塀もない。プライバシーっていう概念が存在しないらしい。辛うじて小さな生垣はあるものの、あまり手入れをしていないのか高さや枝がめちゃくちゃで、ほとんど藪と変わらない様相を呈している。


 ここで唯一異彩を放っているものといえば、中心部にどんとそびえている巨大な岩だ。注連縄もかかっているから、何か立派な謂れでもあるかもしれないけれど、中心に大きなヒビが入っていた。

 岩の背後には見るからに神社っぽい建物がある。


 それ以外はひたすら田んぼや畑、その間を縫っている水路。電信柱。それから道端に、ぐったり項垂れた人影――。


「わっ……、なんだ、案山子かかしか」


 生まれ育った街にはあまり畑がないので、実物を見るのはこれが初めてだ。

 思ったより大きくて、遠目には本当に人間みたいに見える。立ち姿には絵本やアニメで見たようなコミカルさはなく、古着をそのまま再利用したらしい出で立ちが中途半端にリアルなせいか、正直ちょっと不気味に思った。あまり夜にこのあたりを歩きたくないな、と思う程度には。

 案山子ごときにビクついた私を見て、父が小さく笑っている。


「みどりには珍しいか」

「ま、まーね……それより、お父さんの実家ってどこ? 早く休ませてほしいんだけど」

「ああ、うん、そうだね。じゃあ荷物はあとにして、先に行こう」


 猫背気味の父の背中は小さい。あまり流行り廃りに興味がなくて、いつも数年は時代遅れの服装をしているが、その正味ダサい姿がこの田舎村には驚くほどしっくり合っていた。

 私と一緒に十二年も街に住んでいるはずなのに、まるで今もここの住民であるかのように。


 そんな印象を補強するように、民家で私たちを出迎えたのも同じように年月から取り残されたような、古臭い服を着た女の人だった。おばあちゃん……という歳には見えないが、そんなに若くもない。四十代くらいか。


綜子アヤコさんだよ。僕の従妹。

 久しぶり、アヤちゃん。娘のみどりだよ」

「まあまあ、遠いところをご苦労さま! みどりちゃん、ここまで大変だったでしょう? さあ入って入って」

「えと、初めまして……」

「みどりは車酔いしちゃったんだ。居間かどこかで休ませてやってよ。僕は荷物を運ぶから」

「はいはーい」


 私はアヤコおばさんに連れられて室内に入った。どこもかしこも古い木の匂いがして、なんだかちょっと落ち着く。

 中は外観から想像していたより広くて、畳が敷き詰められた床が延々と続いている。風通しを良くするためか、間の襖が取り払われて、壁に立てかけられていた。


 私は適当なところで大の字になって寝転ぶ。

 すぐそばにドラマで見るようなちゃぶ台があって、アヤコおばさんが冷たい麦茶をそこに置いてくれた。飲んでみるとほんのり甘くて芳ばしかった。



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