3.枯野の向こう


 教会の裏庭の日が当たらない場所には、今朝できた晩霜がまだ土を盛り上げていた。薄い靴底で踏むと、溶けかけの遅霜らしい潰れ方で簡単にクシャッと沈む。


「あっ、靴ちょっと汚れちゃった……またお姉ちゃんに叱られちゃう」


「そっちは行かない方がいいね。池の方なら大丈夫、日向だし」


 リュカの忠告を聞きながら、カミーユは自分が姉に叱られる場面を想像した。いつもなら胸がぎゅっと痛むのだが、今は心が麻痺しているのか、何も起こらない。


「……僕は、何の役にも立てないだめな子なんだ。絵を描いているだけで怒られちゃう」


「そんなことない、重いものだって運べるじゃないか」


「酒瓶、二本ずつなら運べるけど、箱ごとは……」


「まだ子供なんだから、当たり前だよ。カミーユは十分がんばってると思う」


 池のほとりにしゃがみ込み、ぽつぽつと話すカミーユに、リュカの慰めの言葉が優しく伝わってくる。


「……うん。でも、子供だから町の外の海にも行けないし……僕、背が小さくて細くて……年下のリュカと同じくらいしかないだろ? 棚の品出しもうまくできなくて、台所でも邪魔だって……」


「そっか……」


「あ、でもね、今日はいつもより早く酒瓶を運ぶことができたんだよ。だから部屋に戻って、女神様を描いてたんだ。うまく描けててうれしかったんだけど、お父さんに怒られて、破られちゃった。女神様には悪いことしちゃったな。あとでお祈りして謝っておかなくちゃ」


 自分の話でリュカの表情が沈んでいくのが嫌で、カミーユは笑いながら明るく話そうとするが、顔がひきつってしまう。


 するとその時、池に浮かぶ蓮の葉の上がキラキラと光り始めた。


「……ん? あそこ、光ってる……?」


 カミーユとリュカが目を凝らして金色の光を見つめていると、どんどん眩しくなっていき、目を開けていられなくなった。どのくらい経っただろうか、どうやら眩しすぎる光は消えたようだと一旦閉じた目を恐る恐る開けてみると、蓮の葉の上に少女人形のような、小さな子が立っていた。


「初めまして。あたし、エインっていうの」


 エインと名乗った子の背には、その体にしては大きな羽が四枚生えている。


「……僕はカミーユっていうんだ」


「あっ……、僕は、リュカ」


 突然現れた正体不明の子に驚きながらも、二人は自分の名前を伝えた。にこにこと微笑んでいる姿がかわいらしく、きっと悪いものではないだろうと思ったからだ。


「ふふっ。よろしくね」


「あ、あの、きみは……その……、飛べるの? 人間じゃない、よね……?」


「あたしは妖精で、女神様のお使いで来たの。この羽で飛べるわよ」


 カミーユがしどろもどろになりながら問うと、エインは自慢げにぱたぱたと四枚の羽を動かした。


「えっ!? 女神様の!?」


「女神様のお言葉を伝えるわね。絵が破られたのはカミーユのせいじゃない、謝らなくていい、きれいに描いてくれてありがとう、って」


「……ほ、本当、に……?」


「ええ。女神様はお忙しいから、あたしが代わりに来たの」


「よかった……失礼なことしちゃったって、思って……」


「二人ともいつもお祈りしてくれてるじゃない。女神様、とても喜んでいらしたわよ。……ごめんね、あまり時間がないから本題に入りたいんだけど……」


「本題?」


「……あのね、そっちの子……リュカがこれから大変な目に遭うの。その時のために蜂蜜酒を作っておくといいって、女神様が」


「な、何、大変な目って、一体」


 リュカが身を乗り出してエインに尋ねるが、エインは困ったように微笑んでから「付いてきて」と言うと羽を大きく動かして蓮の葉を飛び立ち、裏庭から道に通じる勝手口をするりと抜けた。


 エインの姿は、カミーユとリュカ以外の人には見えないようだ。見失わないよう、通行人や馬車に気を付けながら、カミーユとリュカは早足で通りを歩く。やがてたどり着いた場所は、町のすぐ外の枯野だった。冬の間に霜が下りて一面茶色く枯れた野原だが、春を迎えようとするこの時期には日当たりの良い場所から少しずつ草花の新芽が顔を出しているのが見える。


 エインは「この先よ」と一言告げ、また飛び始めた。二人が付いていくとそこは森の入口で、ミツバチたちが自由に飛び回っていた。


「わっ、蜂!」


「この子たちは大人しいから、怖がらなくていいわよ。あのね、蜂蜜を分けてくれるって」


「蜂蜜を……まさか、それって」


 カミーユが言い終わらないうちに一匹のミツバチがぶぅんと目の前に現れ、森の中へとまっすぐに飛んで行く。まるで、付いてこいとでも言うように。


「さ、行きましょう」


 ミツバチの跡を追うエインの後ろを、カミーユとリュカは懸命に付いていった。森の入口はまだ明るいため、怖さは感じない。


「ここで分けてもらった蜂蜜を使って、蜂蜜酒を作るの。作り方を教えるから覚えてね。まず、用意するものは……」


 二人は小さな頭を働かせ、熱心にエインの言うことを聞いた。暖かく柔らかな風が、そんな二人の頬を滑っていく。


「……覚えた?」


「う、うん、たぶん」


「がんばってね。じゃ、戻ろうか」


 エインは二人ににこっと笑顔を見せると、町の方へと飛び始めた。

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