2.破られた女神様


 その日は何故か父親の機嫌が悪かった。二階の部屋で女神様の絵を描いていると父親が突然乱暴に扉を開け、「またこんなことしやがって!」と怒鳴りながら、カミーユの腕をつかんで部屋から引きずり出した。


「いたっ! や、やめてっ……」


 堅い木でできた冷たい廊下に体が打ち付けられ、背中や腰に衝撃と激しい痛みが走る。


「飯の種になんねえことなんかするな、この穀潰しが!」


「で、でも、今日はもう酒瓶は運び終わって……」


「店の仕事がないなら、姉ちゃんの手伝いでもしてりゃいいだろう!」


「お、お姉ちゃん、は……、僕のこと、邪魔だって……」


 やはり、何を言っても叱られてしまう。まだ十歳のカミーユには、こういう時何を言って何をすればいいのかわからず、思ったことを口に出すだけだ。


「あぁ? 口答えすんな! んだよ、こんなもん!」


「や、やだ! 返して!」


 父親はとうとう、カミーユが手に持っていた絵を取り上げ、ビリビリと破いてしまった。


「あっ……!」


「こんなことしてるから体が大きくならねえんだ! することねえなら姉ちゃんの手伝いか店の掃除でもしてろ!」


 そう言い捨てると、父親はどかどかと足音を立てながら一階の店に戻っていった。あとに残されたのは、八つに破られてしまった女神様の絵だけだ。色鉛筆を買ってほしいと口に出せないカミーユが安く買える木炭のみで描かれた女神様の腕の切れ端が、廊下に這いつくばった格好のカミーユの視界を支配する。


「な、んで、僕の絵……、なんっ、でっ……」


 途中まで描いていた女神様は前より上手に、きれいな姿になるはずだったのにと、悔しさと悲しみで胸が潰れそうになる。ばらばらになってしまったその体がかわいそうに思え、泣きながら紙を合わせてみるが、元に戻るはずもない。


 気付くと、カミーユは未完成の絵を手に握りしめ、店の入口を駆け抜けていた。「あっ、おい!」という父親の声を背中に、もつれそうになる足を懸命に動かし、教会への通りを走り続ける。腰と背中はまだ痛むが、心の方が痛い。胸を締め付ける冷たくて重い感情を振り払うように、必死に走り続ける。


 力任せに教会の扉を引くと、そこには驚いて目を丸くする神父とリュカがいた。リュカの手には箒が握られている。


「ど、どうしたの? ……カミーユ、泣いてる……の?」


「……いらっしゃい。さあ、まずはそこに座って」


 二人に声をかけられ、カミーユはその場に立ったまま涙を流した。ぱたぱたと水滴が床に落ちる音が、静かな教会の中にやけに大きく響く。


「おや、絵を描いていたのですね」


 背に当てられた神父の温かな手に促され、木のベンチに座る。いつもの席だ。


 「どうぞ」という言葉とともに渡された大きめのハンカチは、きれいに洗濯してあるようだ。涙を拭おうとすると、お日様の匂いが少しだけ感じられた。


「しっ、神父、さんにっ……、見せ、たくてっ……」


「それは光栄ですね。今、見ても?」


「でも……おと、さん……破られっ……」


 隣にはいつの間にか、心配そうに眉尻を下げたリュカが座っていた。


「女神さ、かわいそ、こんなっ、ばらばら、に……ううっ……」


「女神様の心配をしているのですか? せっかく描いた絵が破られてしまって、悲しいだろうに。なんて優しい子なのでしょう」


 そう言うと神父はカミーユの絵を丁寧に受け取り、背を軽くさすってから奥の部屋へ行った。背をさするのは、リュカが引き継いだ。掃除で冷えた手が何度も柔らかく触れるたびに溶け合う温度が気持ちよくて、カミーユの心は落ち着いてくる。


「あ、りがと、リュカ……」


「ううん。教会の掃除なら、ちょっとはサボれるんだ」


 いたずらっぽく笑うリュカの表情に安心し、止まりそうだった涙がまた溢れてきてしまった。


「えっ、ごめん! 僕、何か嫌なこと言っちゃった!?」


「ちがっ、違う、違うよ」


 慌ててカミーユの目を覗き込むリュカのピンクホワイトのきれいな髪が視界の端に映り、ぷるぷると首を横に振り続けている間に、神父が奥の部屋からマグカップを二つ持って出てきた。ふわふわと立ち上る湯気に気を取られていると、「どうぞ」と目の前に差し出される。


「あ、ありがと、ございます……ミルクに何か入って……?」


「いい匂いでしょう? 秘密の魔法の蜂蜜入りなんですよ」


 片眉を上げ、本当か嘘かわからないことを、嘘をつかないようにと教え導く立場の神父が言う。


 涙を拭ってふうふうと冷ましながら一口飲み、カミーユはそのおいしさに目を見張った。隣のリュカも同じように驚いているのか、ミルクを凝視している。


「こ、れ、本当に、魔法の?」


「はい。嘘はつきません」


 カミーユが尋ねると、神父はまたも片眉を上げて、ふふんという表情になった。その顔が何だか面白く思え、カミーユの涙がどんどん乾いていく。


「おいしい。何だか、すごく、優しい気持ちになれる気がします」


「この蜂蜜のことは、誰にも内緒ですよ。秘密の魔法がかかっているので」


 真剣な眼差しで口元に人差し指を立てる神父を見上げ、こくりとうなずくとリュカも真剣な表情になった。


「これ飲んだら裏庭行こ。もう掃除は大体済んだから」


「うん」


「何があったか、教えてね」


「……うん」


 それから二人は魔法の蜂蜜入りだというミルクをこくこくと飲み干し、神父に礼を言うと裏庭へ足を運んだ。

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