第3話 リュカ ― オデットとの出会い
俺がオデットに初めて会ったのは、彼女が産まれて間もなくのことだった。
その頃は母さんもまだ生きていて、俺の数少ない幸せな思い出の一つだ。
母さんは公爵令嬢だったっていうのも信じられないくらい気さくで、自分で何でも出来る人だった。
生活能力や常識に欠ける父さんをサポートしつつ、家事をこなし、俺の面倒を見てくれた。
母さんが生きていた頃は、この公爵邸の離れはいつも掃除が行き届いていて、多くの人が訪れる華やかな場所だった。
母さんの実兄であるヴィクトル・モロー公爵は、頼り甲斐があって、家族を大切にする人だ。
母さんや俺達のことも大切にしてくれた。
モロー公爵夫人が女の子を出産したという話は聞いていたが、初めて公爵夫人が赤ん坊を連れてきた時はその愛らしさに胸を打ち抜かれた。
プクプクとしたまん丸な頬。プルンとした唇。目尻が猫のように少しつり上がった大きな新緑色の瞳。真っ白な肌。髪の毛は少ししか生えていなかったが金髪が日に透けてキラキラと輝いていた。
抱っこさせてもらったが、その柔らかさと頼りなさに不安になって、すぐに返してしまった。
でも、あの感触は忘れられない。小さくて愛おしい、守ってあげなくちゃいけない存在。
オデットと名付けられた女の子の愛らしさは至るところで噂になっていた。
彼女は家族だけでなく使用人からも愛される眩しい存在だった。
勿論、俺もオデットを可愛い妹のように慈しんでいた。
そんな中、突然母さんが死んだ。体調が悪いのを隠して無理していたせいで、病状が悪化して亡くなったんだ。
父さんも俺も自分達を責めた。
俺達のせいだ。俺達は母さんの体調が悪いのに気づいてあげられなかった・・・。
公爵は俺達を責めるようなことは一言も言わなかったが、俺達は罪悪感から本邸との付き合いを避けるようになった。
最初は本邸の方から使用人が来て家事を手伝ってくれようとしたが、父さんが癇癪を起こしてみんな追い返してしまった。
公爵もそっとしておく方が良いと判断したようだ。
父さんは以前よりも一層魔道具作りに没頭するようになった。
俺からしたら母さんの死から逃げているようにしか思えなかったが。
父さんは俺にほとんど関心を示さなくなり、俺は徐々に孤独に慣れていった。
そんな時だった。
ある日突然オデットが使用人と一緒に離れに現れた。俺が12歳の時だ。
本邸の家庭教師が父さんにお願いしたい魔道具があるというので、オデットを使いに出したらしい。
彼女はこの離れに足を踏み入れた時から、本棚に並んだ本のタイトルを夢中になって読み始めていた。
その時まだ8歳だったオデットに俺は見惚れた。
真っ白い陶磁のような肌。大きな緑色の瞳は好奇心で生き生きと輝いている。腰まである金髪を一つに纏めて後ろに流していて、その尻尾が絹糸のように滑らかに動く。その髪の毛に触れてみたくて堪らなかった。
何て美しい少女だろう・・・。
彼女が俺の血縁なんて信じられない、と思った瞬間に、今の自分と彼女との差を痛感し胸が締め付けられるように痛んだ。
「読めば。本家のお嬢様だったら勝手に読んだって誰も文句は言えないでしょう」
意地悪な言葉を投げかけてしまったのは、自分と彼女との距離を感じて辛かったからだ。
オデットは瞬間哀しそうな表情を見せた。
俺は「しまった」と後悔したが、オデットはすぐに明るい表情を取り戻し、
「私は世間知らずのお嬢様かもしれないけど、他人様の持ち物を許可なく触るほど落ちぶれてないの」
と言い返した。
小気味よい返しに俺はびっくりして、数秒動けなかったと思う。
それに彼女の声も鈴を振るように魅惑的で、中毒性があると分かってしまったから・・。
「・・・ごめん。読みたかったら読んでもいいよ。それ俺の本だから」
そう言いながら、彼女の様子を目に焼き付ける。
「ありがとう!」と笑顔を見せるオデット。
『神龍の贈り物』の続編を手に取るオデット。
彼女から目を離すことはもう出来なかった。
オデットはどこで本を読もうかキョロキョロしている。ここ何年もろくに掃除をしていない部屋で埃をかぶっていないところなんてどこにもない。
俺は慌てて、近くにあった埃だらけのソファを叩いた。
でも、公爵令嬢がこんな薄汚れたソファに座る訳ない。住む世界が違い過ぎる。
一緒に居た侍女が
「お嬢様、ドレスが汚れます」
と言う。
『やっぱりな・・』と彼女と自分の間の大きな溝を感じて、内心やさぐれた気分になった。
しかし、オデットは「平気よ」とソファに腰かける。
俺は驚きで一杯だったが、彼女に自分の存在を分かって貰いたくなった。
「あの、俺はリュカって言うんだ。君は・・・オデットお嬢様だろう?」
彼女は当然のように頷いて、
「お嬢様はいらないわ。私達いとこ同士じゃない?」
と言う。
何年かぶりに俺の心は弾んだ。こんなに嬉しい気持ちになったのは母さんが死んでから初めてだった。
その後、俺は背中を意識しながらも父さんから言われた魔道具作りを続け、同じ部屋で天使が俺の本を読んでいるという事実に圧倒されていた。
俺達は何もしゃべらなかったが、お互いの存在を心地よいと感じていたと思う。
・・・っつーか、俺は彼女の存在を最高に心地いいと感じていた。
オデットは変わった公爵令嬢だった。
「一緒に掃除をしよう」と言われた時は、俺の頭がおかしくなったのかと思った。
話を聞くと彼女の家庭教師はとても厳しく、勉強や魔法だけでなく家事も出来るよう彼女をビシビシ鍛えているらしい。
母さんも家事が出来たから、モロー公爵家の伝統なんだろうか?
オデットは掃除も丁寧で、いい加減なところがない。華奢で真っ白な手が雑巾を絞って床を拭く動作が美しすぎて、見惚れていたら雑巾を取り落としてしまった。
慌てて拾い上げるとオデットが呆れたように揶揄う。
こんな幸せな時間が自分に許されるなんて信じられなかった。
綺麗になった部屋で彼女が持って来てくれたブラウニーを口に頬張ると、口いっぱいに濃厚なチョコレートの香りが広がる。適度にしっとりしていて食感も良かった。
さすが公爵の料理人だな、と感心しながら「美味い!」というと、オデットが恥ずかしそうに自分で作ったと告げる。
料理も家庭教師のサットン先生の指示で3歳の時から習っているという。
マジか!?
その後もオデットは離れに入り浸った。
母さんが死んでからこの離れでまともな食事をとったことがないと知った時、オデットは怒った。
「もっと自分を大切にして」
と俺に言ったんだ。
それから、オデットは離れのキッチンも綺麗にして、俺達のために料理を作り始めた。
俺も教えて貰いながら一緒に料理を作った。
オデットがエプロンをしてうちのキッチンで料理しているのを見ると・・・気恥ずかしいというか、幸せ過ぎて怖いというか。
自分の家族みたいで・・・嬉しかった。
父さんはいつも魔道具のことばかりで、食事も碌に取らないことが多いが、オデットが作ってくれた料理は美味しいと食べるようになった。
「母さんが居た頃みたいだな」
と虚ろな目で寂し気に言う父さんの台詞を聞いて、俺は言葉に詰まった。
たまに宿題があって離れに来られないという連絡があると、俺は子供みたいに落ち込んだ。
オデットの顔を見られないと思うと全てのやる気が萎えた。
だから「宿題があったら持って来て離れでやったらいい。俺が教えられるし」と言ってみたんだ。
それ以来、オデットはたまにサットン先生の宿題を持ってくるようになった。
こんなに小さいのにこんな難しいことを勉強しているのかと驚愕したが、オデットは至極当然という風に問題に取り組んでいる。
オデットのすごいところは努力を厭わないことだ。勉強は大変だけど、新しい知識を得られるのは楽しいという前向きさを心から尊敬する。
俺の父さんは色々な意味で欠陥人間だが、頭は良い。天才で博識だ。母さんも良くそう言っていた。
父さんが俺に勉強を教えてくれたおかげで、俺もかなりの知識を持っている方だと思う。
だから、オデットの訊ねる質問に答えられるが、中には魔法学院に通う生徒でも答えられないだろう難しい問題も含まれていた。
この国の王族・貴族は基本的に魔力を持つ。従って、その子女は15歳になったら魔法学院に通い、将来国のために魔力を使うことが出来るよう魔法の訓練を受けるのが慣例である。
魔法だけでなく、高い学力や教養、身体能力を求められるので、3年間みっちりしごかれる。
下級貴族の子息は学院で優秀な成績を収めれば、出世の可能性も生まれるため、より必死に勉学に取り組むものが多い。
俺がもうすぐ15歳になる頃、モロー公爵は公爵の甥として魔法学院に行くことが出来ると言ってくれた。
正直、それまで全く興味がなかったが、今はオデットに会う度に身の程知らずな野心が頭をもたげる。
俺はこの緑色の瞳をした少女にどうしようもなく恋していたんだと思う。
その頃オデットは10歳だった。美しさに益々磨きがかかり、優秀であるという評判も広がって、縁談の話も次々と舞い込んでいるようだ。
俺は焦った。
俺はまだ何もできない子供だ。
だが、魔法学院をトップの成績で卒業し、良い仕事を得てみせる。
オデットに惨めな暮らしなんてさせない。絶対に幸せにする。
だから、俺が魔法学院を卒業するまで待ってて欲しい。
そんな勝手なことを言っても良いのだろうか?
俺は毎日逡巡していた。
その日、俺はオデットに勉強を教えていた。
相変わらずな難題で、外国語の文献が必要だと分かったので、俺は本棚から必要な本を取り出した。
でも、オデットはまだその外国語を読むことが出来ないという。
「いいものがある」
と俺は言って、机の引き出しから小さなケースに入った眼鏡を渡した。
きょとんと俺を見るオデット。
なんて可愛いんだ、と内心悶えながら、
「俺が子供の頃、父さんが作ってくれた『翻訳眼鏡』という魔道具なんだ。どんな外国語で書かれていても読むことが出来る」
と説明する。
オデットは目を丸くして、手の中の眼鏡を慎重に観察している。
ヤバい。暴力的な可愛さだ。
「すごい。そんな魔道具聞いたことないわ」
「そりゃそうだよ。これは偶然できたもので、どうやって作ったか再現できないんだって。だから、商品にはなってないし、この世界にそれ一つしか存在しないんだ」
俺は父さんのことを自慢したくて、ちょっと得意気に言った。
オデットは花がほころぶように微笑んだ。
「ヤンはすごいわ。一流の魔道具士って評判だものね」
俺は父さんをオデットに褒められて、有頂天になっていたんだと思う。
つい
「良かったら、その眼鏡オデットにあげるよ」
と言葉が口を突いて出ていた。
オデットは焦りながら
「こんな貴重なもの頂けないわ」
と首を振るが、男が一度口に出した言葉は取り消せない。
「俺はもうほとんどの外国語は覚えたんだ。だから、もう俺には必要ないし、これからオデットの役に立ってくれれば嬉しいよ」
と、オデットを説得して無理やりに受け取らせた。
オデットは上目遣いに俺を見て
「ありがとう。一生大切にするね」
と言う。
その愛らしさに目が潰れる、と思いながら、俺は満足感に浸っていた。
オデットはまだ何か言いたそうにもじもじしている。
「オデット、どうかしたの?」
と訊ねる。
「・・あの、リュカは来年から魔法学院に行っちゃうのね?」
「うん、そのつもりだよ。公爵のご厚意に甘えることになるけど、一生かかっても恩を返せるように頑張って勉強するつもりだ」
「・・そっか・・・頑張ってね・・・でも、リュカがいなくなったら寂しくなっちゃうな」
ハッとオデットの顔を見ると、瞳には涙が滲んでいる。
俺は興奮して、思わずオデットの手を取った。
「俺にこんなこと言う資格がないのは、分かってる。でも、俺はオデットに相応しい男になるために魔法学院に行こうと思う。だから、俺が魔法学院を卒業して、君のお父さんに認められるまで、誰とも婚約しないで待っていて貰えるかい?」
オデットの頬が真っ赤なリンゴのように紅潮する。
「・・・あの・・それって・・・?」
「オデット。君が好きだ。生涯愛するのは君一人だと誓う。だから、俺が君を迎えに行く準備が出来るまで待っていてくれないか?」
オデットはリンゴみたいな真っ赤な顔でしばらく考えていたが、ゆっくりと頷いた。
やった!俺はガッツポーズを取りたくなった。
俺はオデットの指にそっと口付けをする。
オデットの顔が一層赤くなった。耳から首元まで真っ赤だ。
やったぜ!と心の中で叫んだ。
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