第6話 彼女が望むなら
ぼくはただ阿呆のように立ち尽くしていた。
彼女のもとに駆けつけようかと一瞬考えたが、なぜぼくが彼女の部屋の異常を知りえたかを説明できるわけがないことに気づいて、脱力し、座り込んだ。
彼女のことをよく知っているのに、助けたいのに、何もできないなんて……。
事件のショックというよりは、自分の無力さに目の前が暗くなった。
呆然としたまま夜をすごしたらしく、気がつくと朝になっていた。
テレビをつけるとちょうど全国ニュースから地元のニュースへと切り替わるところで、ぼくは痛々しい気持ちで事件が読み上げられるのを待ったが、ニュースは飲酒運転による事故とか、地方議会のリコール問題とか景況報告とか、そんなどうでもよいものばかりで終わってしまった。
ネットニュースやSNSも地名で検索をかけてみるが、何も出てこない。
不思議な気持ちで、昨夜のあの出来事は夢だったのかと思い、アプリを立ち上げてみる。そこにはいつものようにこの時間はまだ眠りこけている彼女の姿はなく、黒い画面だけ。やはりあれは夢ではなかったのだ。
ぼくはすぐに花音のマンションに行ってみた。パトカーなんてどこにもいない。自転車置き場には彼女の愛用の自転車が置いてある。昨夜のあの黒いかたまり――頭を殴られ血を流していた若い男はどうなったんだろう?
そっと彼女の部屋の前に行ってみた。刑事ドラマでよく見るような黄色と黒の立入禁止のテープを張り巡らされている、ということもなかった。
いつもと変わりない彼女の部屋の前で、ドアの呼び鈴を鳴らそうか、しかしなんと話を切り出したものか迷っていると、ガス給湯器を使うときのボワーッという音が玄関脇から聞こえてきた。
彼女は今日はバイトは休みのはずだ。学食でいっしょにいる仲のいい女の子たちとの話を聞いていた限りでは、どこかに遊びに行く予定もなかったはずだ。それに、まず、彼女は朝が弱く、こんな時間に起きれるはずがない。
ますます混乱していると、隣のドアのチェーンを外す音がした。
とりあえず、隣人に姿を見られるのは得策ではない。ぼくは足音を立てないように階下へと降りていった。
建物の外に出て、三階の彼女の黄色いカーテンを仰ぎ見たが、昨日から変化は見られない。
首をひねりながら、ぼくは自分の部屋へと帰るしかなかった。
結局、それからの三日間というもの、彼女は行くはずのバイトも落とせない授業も放り出して家にこもっていて、ウェブカメラの様子を見に行くことができたのは事件から五日目のことだった。なぜか電源が緩んでいたらしく、コードを差しなおしたらカメラは復活した。
学校で見かけた彼女はいつになくやつれたようすで、学食では女ともだちに風邪を引いたて寝込んでいたと説明していた。
その言葉を背中越しに聞きながら、ぼくの中の疑問符が確信へと変わっていくのを感じた。
――彼女はあの黒いかたまりのような男を殺してしまったのだ。そして、死体を始末して何もなかったかのように、日常生活に戻ろうとしている。彼女みたいな筋力のなさそうな女の子だって、三日あれば死体もなんとかできるだろう。
ぼくは結局何もできなかった自分を恥じる気持ちとともに、彼女があれをなかったことにしようとするのなら、ぼくも黙っていてあげるしかないと思った。あの夜の彼女の恐怖をぼくだけが知っていて、いつか彼女が望むなら、誰にも言わず、ぼくだけが受け止めてあげようと誓った。彼女に対して殺人者への恐怖というものはなかった。
むしろ、か弱い犠牲者への庇護心と愛しさがないまぜになったものが、ぼくのなかで、どんどん、どんどん、大きくなっていった。
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