第5話 トラブル

 彼女は週に四回ファミレスで夜十時までアルバイトをしている。そのとき以外はだいたい家にいて、勉強したり、パソコンで動画を見たりしている。

 彼女の部屋の中での定位置は、こたつとベッドにはさまれた部分で、ベッドにもたれかかるように体育座りをしてよく動画を見ている。コマーシャルになると上体をベッドに押し付けるようにそらして伸びをした。

 眠るときはいつも横向きで、胎児のように体を軽く縮める。ときどきは本を読みかけのまま寝入ってしまい、いつまでも明かりがつきっぱなしのときがある。そんなときぼくは、彼女が寝返りをうつたびに液体のように枕の上に広がる黒髪が形を変えるさまを見守っているのだった。

 あるとき、あかりをつけたまま寝入っていたはずの彼女がこちらをまっすぐ見つめて微笑んでいたことがある。すぐに目をつぶって横を向いてしまったところをみると、寝ぼけていただけなのだろうが、思わずこちらまで微笑んでしまいそうな、そんな優しくてきれいな笑顔だった。

 世界中のみんなが不幸になってもいいから、彼女だけはいつも笑っていてほしい、とぼくは彼女の寝顔を見ながら願った。

 しかし、一番の願いごとがいつも叶わないように、その願いもまた叶いはしなかったのだった。

 クリスマス間近に迫った土曜日の夜、彼女は突然侵入してきた男をあの青銅の像で殴って殺してしまったのだ。


 その日ぼくは、急なアルバイトのせいで帰宅が深夜になり、部屋を暖めるのもそこそこにアプリを立ち上げた。

 彼女はもう眠っていて、ノクトビジョン特有の明るい闇の中で安らかな寝顔を見せていた。

 ほっとしてコートを脱ぎ、風呂に入ろうと準備をしながら見ていると、画面の隅から黒いかたまりが現れた。ぎょっとしながら、それが何なのかわからずに見ていると、かたまりは下から上へ、彼女のベッドの足元から頭のほうへと移動していく。やがてかたまりの中から触手のような白いものが彼女の顔へと伸びていったとき、ああ、あれは触手じゃなくて人間の手なのだ、あの黒いかたまりは人間なのだと判った。

 かたまりの頭部が彼女の顔に重なった。屈みこんでいるだけにも見えるし、キスをしているようにも見える。よくわからない。彼女は眠ったままなのか、身動きもしない。

 何とかしなければ、と思ったが、何をどうしていいのかわからなかった。

 突然彼女は目を覚ましたらしく、かたまりを懸命に遠ざけようと手で押しやろうとした。かたまりは彼女のベッドの上に上がると、ふとんの上から彼女に馬乗りになった。彼女は手をめちゃくちゃに振り回して必死で抵抗している。それをかたまりが無理やり押さえ込もうとしているらしく、ベッドが激しく揺れ、あの不細工な天使の像らしきものが彼女の枕もとに落ちた。

 彼女がそれをかたまりの頭部に二度三度と振り下ろす瞬間を、ぼくは今でもはっきりと覚えている。それはスローモーションのようにゆっくりとした動作に見えた。

 かたまりが動かなくなると、彼女は壁を背中で這い登るように立ち上がり、よろけながら部屋のあかりをつけた。かたまりはベッドの上で完全にのびていて、彼女のふとんの白いシーツの上をどす黒い赤いもので汚しつつあった。うつぶせに倒れているかたまりは、黒っぽいコートを着た若い男に見えた。

 そのとき、急に画面が真っ暗になった。アプリを立ち上げなおしても、スマートフォンを再起動しても、アプリを再インストールしてみても何も映らなかった。カメラになんらかのトラブルが起こったに違いなかった。

 ぼくはただ阿呆のように立ち尽くしていた。

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